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忘れもの図書室の夜間司書  作者: 明石竜


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8/15

第八話 返せなかった詩集

 九月の半ばになると、図書館の常連の顔が見えてくるようになった。

 夏の間は子どもたちに紛れて分かりにくかった人たちが、秋の静けさの中で輪郭を持ち始める。毎週火曜に来て農業雑誌を読む老人。水曜の午後に必ず絵本を三冊借りていく若い母親。そして、ほぼ毎日、開館と同時に来て、新聞コーナーの同じ席に座る女性。

 久世真澄さんだった。

 七十代だろうか。背筋が真っすぐで、白髪を丁寧に束ねている。いつも薄い色のカーディガンを着て、新聞を読む。読み終えると、しばらくそのまま座っている。眠っているのではない。目は開いている。ただ、どこか遠いところを見ている。

 詩乃はその様子を、何日かかけて見ていた。

 借りる本は少なかった。月に一冊か二冊。詩集を借りることが多かった。現代詩の薄い本を、そっと手に取って、静かに返す。

 久世さんは、図書館が好きな人だ、と詩乃は思っていた。本が好きというより、図書館という場所が好きな人。ここに来ることが、日課になっている人。

 その久世真澄の忘れものが、忘れもの図書室に届いたのは、九月の第三週だった。

 詩乃が地下に下りると、栞丸がいつもと違う場所にいた。棚の一番低い段の前に座って、一点を見つめている。

「栞丸、どうしました」

「新しいのが届いたのじゃ。今夜」

 栞丸が示した場所に、一冊の本があった。

 詩集だった。薄く、表紙が深い青。タイトルは『冬の手紙』。出版年を見ると、四十年以上前の本だった。図書館のものではない。個人が持っていた本だ。

 詩乃は触れた。

 声ではなかった。今回は、温度だった。

 冷たかった。

 冷たいのに、どこかに熱が残っている。長い間、誰かの手の中にあったものの温度だった。それから、声に近い何かが聞こえた。二人分の気配があった。若い女性が二人、同じ本を挟んで話している。笑い声。それから泣き声。泣き声の後に、約束の言葉。具体的には聞こえないが、約束だということは分かった。

 詩乃は本をそっと棚に戻した。

「誰のものか、分かりますか」

「においがする。よく来る人のじゃ」

「久世さん、ですか」

「名前は知らんが、毎日来る老婦人なら、そうじゃろう」

 翌日、灯里に報告した。灯里は詩乃の話を聞きながら、少し表情が変わった。普段は動かない顔が、今日だけわずかに曇った。

「久世さんのことは、知っています」

「詩集を借りることが多いですよね」

「三年ほど前から来ています。最初に来た時、カウンターで少し話しました。若い頃読んでいた詩人の本を探していて、見つからなかった。後日わたしが取り寄せたら、とても喜んでくださいました」

「どんな方ですか」

「物静かな方です。でも、言葉を大切にする人だと分かります。借りた本の返し方が、丁寧で」

 灯里は少し間を置いた。

「詩集に、何が残っていましたか」

「二人分の気配です。若い頃の久世さんと、もう一人。それから、約束」

「約束」

「はい。何の約束かは聞こえませんでした。でも、大事な約束だということは分かりました。そして……その約束が、果たされなかった気配もありました」

 灯里の手が、膝の上で静かに重なった。

「これは、重いかもしれません」

 灯里が言った。

「返すことで、久世さんが一度深く傷つく可能性があります」

「分かっています」

「それでも、返しますか」

 詩乃は少し考えた。陽人や菜月の時とは、違う問いだった。あの時は、返した方がいいかどうかを迷っていた。今回は、返すことで傷つく可能性を知った上で、どうするかを問われている。

「……久世さんに、選んでもらいたいと思います」

「どういうことですか」

「詩集が届いたことを、久世さんに伝える。受け取るかどうかは、久世さんが決める。わたしたちが返すのではなく、久世さんが受け取ることを選んだ時に、渡す」

 灯里は詩乃を見た。少し長い時間、見た。

「成長しましたね」

 温度の一定な声で言ったから、褒めているのかどうか分からなかった。でも今日だけは、一定の声の中に何か確かなものが混じっていた。

「久世さんに、どう伝えますか」

「正直に言います。古い詩集が図書館に届いた、久世さんに関係があるかもしれないので確認してほしい、と」

「嘘はつかない」

「はい。ただ、忘れもの図書室のことは言いません。図書館に届いた、とだけ言います」

 

翌日の午前、久世真澄がいつも通り開館と同時に来た。新聞コーナーの定位置に座り、新聞を広げた。詩乃はカートを押しながら、そちらへ向かった。

「久世さん、少しよろしいですか」

 真澄は新聞から顔を上げた。皺の多い、穏やかな顔だった。

「倉橋さん、何かしら」

「図書館に古い本が届きまして。久世さんに心当たりがないか、確認していただけますか」

 詩乃は詩集を持っていた。忘れもの図書室から持ち上げてきた、あの青い表紙の本。

 真澄はそれを見た瞬間、動かなくなった。

 新聞を持つ手が、止まった。目が、詩集の表紙に固定された。

「……『冬の手紙』」

 真澄が呟いた。

「ご存じですか」

「忘れていたんじゃありません」

 真澄の声は穏やかだった。でも、底の方に何かが揺れていた。

「思い出さないようにしていただけです」

 詩乃は黙った。

 真澄はゆっくりと、詩集に手を伸ばした。受け取るかどうか迷っているのではなく、覚悟を決めているような、そういう手の動きだった。指先が表紙に触れた。

 真澄の目が、少し潤んだ。

「これ、千鶴子のじゃないかしら」

「千鶴子さん、というのは」

「親友でした。昔の」

 真澄は詩集を開かなかった。表紙を撫でるだけだった。

「若い頃、二人でよく詩を読んでいました。この詩集は、千鶴子が持っていたもの。一緒に読んで、好きな詩に線を引いて、感想を言い合って。そういうことをしていました」

「今は、連絡が取れないんですか」

「千鶴子は、もういません。二十年前に」

 詩乃は胸が重くなった。

「この本を、渡してもいいですか」

 真澄はしばらく詩集を見ていた。

「持って帰っていいかしら」

「もちろんです」

 真澄はバッグに詩集をしまった。新聞はもう読まなかった。しばらくそこに座っていた。それからゆっくりと立って、帰った。

 詩乃はその背中を見送った。

 返せた、とは思わなかった。何かが始まった、と思った。


 翌日、真澄は来なかった。

 翌々日も来なかった。

 三日目の朝、詩乃は少し心配になった。灯里に言うと、灯里は「待ちましょう」と言った。声は一定だったが、その言葉には心配が含まれていた気がした。


 四日目の午後、真澄が来た。

 いつもの席には座らなかった。カウンターに来た。

「倉橋さん」

「久世さん、いらっしゃいませ」

 真澄の顔は、少し泣いた後の顔だった。目の周りがわずかに赤い。でも、今日の顔は四日前よりも、どこか整っていた。

「詩集、読みました」

「……どうでしたか」

「千鶴子の線が、残っていました。いくつもの詩の、好きな行の下に。鉛筆で、細い線が」

 真澄は少し声が揺れた。

「私が引いた線と、違う場所に引いてある詩もあって。二人で、好きな場所が違ったんだなって、改めて分かって。それが……」

 真澄は言葉を止めた。止めてから、続けた。

「それが、とても、よかったです」

 詩乃は何も言わなかった。言えなかった、ではなく、言わない方がいいと思った。

「年を取るとね、過去の方が近くなる日があります」

 真澄がゆっくりとした口調で言った。

「昨日のことは忘れても、四十年前のことは、昨日のように出てくる。だから、思い出さないようにしていた。思い出すと、もう会えないことが、また新しい痛みになるから」

「はい」

「でも、この四日間で気づいたんです」

 真澄は詩乃を見た。穏やかな目だった。

「忘れようとしていたのは、千鶴子のことじゃなかった。千鶴子と交わした約束のことを、忘れようとしていた」

「約束、というのは」

「二人でいつか、好きな詩を集めた小さな冊子を作ろうって、言っていたんです。若い頃に。それが叶わないまま、千鶴子は逝ってしまって。私は、約束のことを、ずっと棚の上に置いてきました」

 詩乃は胸の奥で、何かが動いた。

 棚の上に置いてきた。その言葉が、詩乃には別のものと重なった。

「これからは、どうされますか」

 真澄は少し考えた。

「千鶴子には届きませんが、冊子を作ろうと思います。私一人でも。千鶴子が線を引いた詩と、私が好きな詩を一緒に入れて。届けられなくても、作ること自体が、約束の続きになる気がするから」

「そうですね」

 詩乃は思った。

 返すことが、幸せにすることとは限らない。痛みが戻ることもある。でも、痛みが戻った先に、その人が自分で動き始めることがある。

 真澄がカウンターを離れる時、詩乃に言った。

「倉橋さん、あの詩集、どこから来たの」

「図書館に届いたんです」

「不思議ね」

「はい」

「でも、来てよかった」

 真澄は微笑んで、帰った。


 その夜、地下で灯里に報告した。灯里は詩乃の話を、今日は途中で遮らずに最後まで聞いた。

「久世さんは、受け取りましたね」

「はい」

「痛みも、受け取って」

「はい。でも、その先も、自分で動き始めた」

 灯里は少し黙った。

「返却で、相手が傷つくことがある。それでも返す意味があるかどうか、わたしはずっと迷っていました」

「今も迷っていますか」

「……少し、迷いが変わりました」

 灯里は棚を見ながら言った。

「傷つくことと、傷つけることは、違うのかもしれません。久世さんは傷ついた。でも、詩集を届けたことが、久世さんを傷つけたわけではない」

「はい」

「その区別が、今まで自分には曖昧だったと思います」

 詩乃は灯里を見た。

 灯里が自分の迷いを言葉にするのは、珍しかった。珍しいということは、何かが動いている、ということだ。

「灯里さん」

「はい」

「わたしに、返せなかったことがある、と以前言っていましたよね」

 灯里の手が、膝の上で止まった。

「……あります」

「その話を、いつか聞かせてもらえると言っていました」

「言いました」

「今夜は、まだですか」

 灯里はしばらく、棚を見ていた。

「わたしは、返すべきだったものを」

 灯里が言った。言いかけて、止まった。

 それから、また続けた。

「……返せなかったんです」

 それだけだった。

 詩乃は何も言わなかった。

 栞丸がどこかの棚の上で、小さくくしゃみをした。湿気のせいか、それとも別の理由か、詩乃には分からなかった。


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