第八話 返せなかった詩集
九月の半ばになると、図書館の常連の顔が見えてくるようになった。
夏の間は子どもたちに紛れて分かりにくかった人たちが、秋の静けさの中で輪郭を持ち始める。毎週火曜に来て農業雑誌を読む老人。水曜の午後に必ず絵本を三冊借りていく若い母親。そして、ほぼ毎日、開館と同時に来て、新聞コーナーの同じ席に座る女性。
久世真澄さんだった。
七十代だろうか。背筋が真っすぐで、白髪を丁寧に束ねている。いつも薄い色のカーディガンを着て、新聞を読む。読み終えると、しばらくそのまま座っている。眠っているのではない。目は開いている。ただ、どこか遠いところを見ている。
詩乃はその様子を、何日かかけて見ていた。
借りる本は少なかった。月に一冊か二冊。詩集を借りることが多かった。現代詩の薄い本を、そっと手に取って、静かに返す。
久世さんは、図書館が好きな人だ、と詩乃は思っていた。本が好きというより、図書館という場所が好きな人。ここに来ることが、日課になっている人。
その久世真澄の忘れものが、忘れもの図書室に届いたのは、九月の第三週だった。
詩乃が地下に下りると、栞丸がいつもと違う場所にいた。棚の一番低い段の前に座って、一点を見つめている。
「栞丸、どうしました」
「新しいのが届いたのじゃ。今夜」
栞丸が示した場所に、一冊の本があった。
詩集だった。薄く、表紙が深い青。タイトルは『冬の手紙』。出版年を見ると、四十年以上前の本だった。図書館のものではない。個人が持っていた本だ。
詩乃は触れた。
声ではなかった。今回は、温度だった。
冷たかった。
冷たいのに、どこかに熱が残っている。長い間、誰かの手の中にあったものの温度だった。それから、声に近い何かが聞こえた。二人分の気配があった。若い女性が二人、同じ本を挟んで話している。笑い声。それから泣き声。泣き声の後に、約束の言葉。具体的には聞こえないが、約束だということは分かった。
詩乃は本をそっと棚に戻した。
「誰のものか、分かりますか」
「においがする。よく来る人のじゃ」
「久世さん、ですか」
「名前は知らんが、毎日来る老婦人なら、そうじゃろう」
翌日、灯里に報告した。灯里は詩乃の話を聞きながら、少し表情が変わった。普段は動かない顔が、今日だけわずかに曇った。
「久世さんのことは、知っています」
「詩集を借りることが多いですよね」
「三年ほど前から来ています。最初に来た時、カウンターで少し話しました。若い頃読んでいた詩人の本を探していて、見つからなかった。後日わたしが取り寄せたら、とても喜んでくださいました」
「どんな方ですか」
「物静かな方です。でも、言葉を大切にする人だと分かります。借りた本の返し方が、丁寧で」
灯里は少し間を置いた。
「詩集に、何が残っていましたか」
「二人分の気配です。若い頃の久世さんと、もう一人。それから、約束」
「約束」
「はい。何の約束かは聞こえませんでした。でも、大事な約束だということは分かりました。そして……その約束が、果たされなかった気配もありました」
灯里の手が、膝の上で静かに重なった。
「これは、重いかもしれません」
灯里が言った。
「返すことで、久世さんが一度深く傷つく可能性があります」
「分かっています」
「それでも、返しますか」
詩乃は少し考えた。陽人や菜月の時とは、違う問いだった。あの時は、返した方がいいかどうかを迷っていた。今回は、返すことで傷つく可能性を知った上で、どうするかを問われている。
「……久世さんに、選んでもらいたいと思います」
「どういうことですか」
「詩集が届いたことを、久世さんに伝える。受け取るかどうかは、久世さんが決める。わたしたちが返すのではなく、久世さんが受け取ることを選んだ時に、渡す」
灯里は詩乃を見た。少し長い時間、見た。
「成長しましたね」
温度の一定な声で言ったから、褒めているのかどうか分からなかった。でも今日だけは、一定の声の中に何か確かなものが混じっていた。
「久世さんに、どう伝えますか」
「正直に言います。古い詩集が図書館に届いた、久世さんに関係があるかもしれないので確認してほしい、と」
「嘘はつかない」
「はい。ただ、忘れもの図書室のことは言いません。図書館に届いた、とだけ言います」
翌日の午前、久世真澄がいつも通り開館と同時に来た。新聞コーナーの定位置に座り、新聞を広げた。詩乃はカートを押しながら、そちらへ向かった。
「久世さん、少しよろしいですか」
真澄は新聞から顔を上げた。皺の多い、穏やかな顔だった。
「倉橋さん、何かしら」
「図書館に古い本が届きまして。久世さんに心当たりがないか、確認していただけますか」
詩乃は詩集を持っていた。忘れもの図書室から持ち上げてきた、あの青い表紙の本。
真澄はそれを見た瞬間、動かなくなった。
新聞を持つ手が、止まった。目が、詩集の表紙に固定された。
「……『冬の手紙』」
真澄が呟いた。
「ご存じですか」
「忘れていたんじゃありません」
真澄の声は穏やかだった。でも、底の方に何かが揺れていた。
「思い出さないようにしていただけです」
詩乃は黙った。
真澄はゆっくりと、詩集に手を伸ばした。受け取るかどうか迷っているのではなく、覚悟を決めているような、そういう手の動きだった。指先が表紙に触れた。
真澄の目が、少し潤んだ。
「これ、千鶴子のじゃないかしら」
「千鶴子さん、というのは」
「親友でした。昔の」
真澄は詩集を開かなかった。表紙を撫でるだけだった。
「若い頃、二人でよく詩を読んでいました。この詩集は、千鶴子が持っていたもの。一緒に読んで、好きな詩に線を引いて、感想を言い合って。そういうことをしていました」
「今は、連絡が取れないんですか」
「千鶴子は、もういません。二十年前に」
詩乃は胸が重くなった。
「この本を、渡してもいいですか」
真澄はしばらく詩集を見ていた。
「持って帰っていいかしら」
「もちろんです」
真澄はバッグに詩集をしまった。新聞はもう読まなかった。しばらくそこに座っていた。それからゆっくりと立って、帰った。
詩乃はその背中を見送った。
返せた、とは思わなかった。何かが始まった、と思った。
翌日、真澄は来なかった。
翌々日も来なかった。
三日目の朝、詩乃は少し心配になった。灯里に言うと、灯里は「待ちましょう」と言った。声は一定だったが、その言葉には心配が含まれていた気がした。
四日目の午後、真澄が来た。
いつもの席には座らなかった。カウンターに来た。
「倉橋さん」
「久世さん、いらっしゃいませ」
真澄の顔は、少し泣いた後の顔だった。目の周りがわずかに赤い。でも、今日の顔は四日前よりも、どこか整っていた。
「詩集、読みました」
「……どうでしたか」
「千鶴子の線が、残っていました。いくつもの詩の、好きな行の下に。鉛筆で、細い線が」
真澄は少し声が揺れた。
「私が引いた線と、違う場所に引いてある詩もあって。二人で、好きな場所が違ったんだなって、改めて分かって。それが……」
真澄は言葉を止めた。止めてから、続けた。
「それが、とても、よかったです」
詩乃は何も言わなかった。言えなかった、ではなく、言わない方がいいと思った。
「年を取るとね、過去の方が近くなる日があります」
真澄がゆっくりとした口調で言った。
「昨日のことは忘れても、四十年前のことは、昨日のように出てくる。だから、思い出さないようにしていた。思い出すと、もう会えないことが、また新しい痛みになるから」
「はい」
「でも、この四日間で気づいたんです」
真澄は詩乃を見た。穏やかな目だった。
「忘れようとしていたのは、千鶴子のことじゃなかった。千鶴子と交わした約束のことを、忘れようとしていた」
「約束、というのは」
「二人でいつか、好きな詩を集めた小さな冊子を作ろうって、言っていたんです。若い頃に。それが叶わないまま、千鶴子は逝ってしまって。私は、約束のことを、ずっと棚の上に置いてきました」
詩乃は胸の奥で、何かが動いた。
棚の上に置いてきた。その言葉が、詩乃には別のものと重なった。
「これからは、どうされますか」
真澄は少し考えた。
「千鶴子には届きませんが、冊子を作ろうと思います。私一人でも。千鶴子が線を引いた詩と、私が好きな詩を一緒に入れて。届けられなくても、作ること自体が、約束の続きになる気がするから」
「そうですね」
詩乃は思った。
返すことが、幸せにすることとは限らない。痛みが戻ることもある。でも、痛みが戻った先に、その人が自分で動き始めることがある。
真澄がカウンターを離れる時、詩乃に言った。
「倉橋さん、あの詩集、どこから来たの」
「図書館に届いたんです」
「不思議ね」
「はい」
「でも、来てよかった」
真澄は微笑んで、帰った。
その夜、地下で灯里に報告した。灯里は詩乃の話を、今日は途中で遮らずに最後まで聞いた。
「久世さんは、受け取りましたね」
「はい」
「痛みも、受け取って」
「はい。でも、その先も、自分で動き始めた」
灯里は少し黙った。
「返却で、相手が傷つくことがある。それでも返す意味があるかどうか、わたしはずっと迷っていました」
「今も迷っていますか」
「……少し、迷いが変わりました」
灯里は棚を見ながら言った。
「傷つくことと、傷つけることは、違うのかもしれません。久世さんは傷ついた。でも、詩集を届けたことが、久世さんを傷つけたわけではない」
「はい」
「その区別が、今まで自分には曖昧だったと思います」
詩乃は灯里を見た。
灯里が自分の迷いを言葉にするのは、珍しかった。珍しいということは、何かが動いている、ということだ。
「灯里さん」
「はい」
「わたしに、返せなかったことがある、と以前言っていましたよね」
灯里の手が、膝の上で止まった。
「……あります」
「その話を、いつか聞かせてもらえると言っていました」
「言いました」
「今夜は、まだですか」
灯里はしばらく、棚を見ていた。
「わたしは、返すべきだったものを」
灯里が言った。言いかけて、止まった。
それから、また続けた。
「……返せなかったんです」
それだけだった。
詩乃は何も言わなかった。
栞丸がどこかの棚の上で、小さくくしゃみをした。湿気のせいか、それとも別の理由か、詩乃には分からなかった。




