第七話 瀬尾灯里の棚
八月が終わると、図書館は少し静かになった。
夏休みの終わりとともに子どもたちが減り、代わりに大人の利用者が戻ってくる。返却が増え、新しい予約が積まれ、棚の整理が追いつかなくなる時期でもある。詩乃は昼間の業務に追われながら、それでも閉館後の地下のことを、頭の片隅に置いていた。
菜月は展示会の日から二度、図書館に来た。
一度目は画集を借りていった。二度目は美術の技法書を手に取って、長い時間眺めてから、借りていった。自習室には来なかった。参考書ではなく、好きなものの本を選んでいた。それだけで詩乃には、菜月の中で何かが少し動いたのだと分かった。
陽人も来た。感想文の本を返しに来て、また別の本を借りていった。本が嫌いだとは、もう言わなかった。ただ「べつに読んでもいいかなと思って」とだけ言った。それが陽人の言い方だと、詩乃はもう知っている。
昼間の図書館は、続いていた。
夜の図書館も、続いていた。
夏のイベントの後片づけが終わった週の半ば、灯里から「読み聞かせ会の準備をお願いします」と言われた。九月の初週に、小学生向けの読み聞かせ会がある。詩乃は選書と会場設営を任された。
読み聞かせ会の準備は、詩乃には向いていた。
どの本がどの年齢に届くか、読み上げた時に声が映えるのはどういう文体か。考えながら棚を歩くのは、昼の仕事の中で一番好きな時間だった。
そのことを、うっかり灯里に言った。
「本を選ぶのが好きなんですね」
灯里は意外そうではなかった。ただ確認するように言った。
「好きです。書くのは、もうできなくなりましたけど、読むのと選ぶのは、今でも好きで」
「書くのと選ぶのは、別の行為ではありません」
灯里は棚を見ながら言った。
「書く人間は、読み方が違う。どこに言葉が置いてあるかを見る。選ぶ時にも、それは出ます」
「灯里さんは、書いたことがありますか」
聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。でも灯里は表情を変えなかった。
「少しだけ。昔」
それだけ言って、話は終わった。
読み聞かせ会は、うまくいった。
小学生十二人が床に座り、詩乃が三冊を読んだ。一冊目は笑い声が上がり、二冊目は静かになり、三冊目は終わった後しばらく誰も立たなかった。静かな時間が好きだと詩乃は思った。言葉が届いた後の、静けさ。
灯里は会の間、後ろの壁際に立っていた。
子どもたちを見ているようで、詩乃の読み方を聞いているようでもあった。終わった後、「よかったと思います」とだけ言った。温度の一定な声だったが、詩乃にはその言葉が、今日一番のことのように聞こえた。
九月になって以降、詩乃は周囲からぽつぽつと言われるようになった。
一度目は、図書館の近くのコンビニで会った大学時代の知人だった。「図書館で働いてるの、臨時でしょ。ちゃんとした仕事、探してないの」と言われた。悪意はなかった。ただの心配だった。それでも、詩乃はうまく返せなかった。
二度目は、母親からだった。電話で「いつまでそこにいるつもり」と聞かれた。「好きな仕事をしてるんだからいいじゃない」と言おうとして、声が出なかった。
自分の人生の続きを、どう書けばいいのか分からない。
そのことは、図書館で働き始めた日から変わっていない。変わったのは、夜間司書の仕事ができたことで、少しだけ、今いる場所に意味を感じられるようになったことだ。でもそれを、誰かに言える言葉を詩乃はまだ持っていない。
九月のある夜、地下に下りた時、詩乃はいつもより少しだけ黙っていた。
栞丸が気づいた。
「新米司書、顔が暗いのじゃ」
「少し、疲れています」
「昼間の疲れか、別の疲れか」
「別の方です」
「言いたくなったら言えばいいのじゃ。言いたくなければ、棚を拭け。手を動かすと、気持ちが落ち着くことがあるのじゃ」
詩乃はそれに従って、棚を拭いた。古い布巾が、棚の木の表面をゆっくりと撫でる。栞丸は棚の上に座って、前足を組んでいた。
「栞丸は、ここにずっといるんですか」
「ずっとおる」
「忘れもの図書室が始まった時から?」
「それより前からおる。この図書館ができる前から、この土地にはおった。図書館ができて、忘れもの図書室ができて、われはここの案内役になったのじゃ」
「何年くらいですか」
「数えたことがない。人間の年の数え方は、われには合わない」
詩乃は棚を拭きながら言った。
「たくさんの夜間司書を見てきましたか」
「見てきたのじゃ」
「どんな人たちでしたか」
栞丸はしばらく考えた。
「いろいろじゃ。泣きながら返した者。笑いながら返した者。返せないまま去った者。返せないまま居続けた者」
最後の言葉が、詩乃には刺さった。
「居続けた者、というのは」
「堅物司書のことじゃ」
栞丸は淡々と言った。
「あの方は、返せないまま、ここに居続けておる。それが良いことかどうか、われには判断できん。ただ、棚が少しずつ重くなっておることは、分かる」
「それは、灯里さんが悪いということですか」
「責める意味で言ってはおらん」
栞丸は、棚の奥を見た。
「ただ、夜間司書が抱えた忘れものは、図書室の重みになる。返せないまま居続けるというのは、何もしないことではない。抱えたまま、この場所に重さを預け続けることでもある」
「灯里さんは、待っているんじゃないんですか」
「待つことと、止まることは違う」
栞丸の声が、いつもより低く聞こえた。
「堅物司書がどちらなのかは、われにも分からん。けれど、あの方が苦しんでおることは分かる」
詩乃は、奥の棚を見た。
一番上の段。あの、灯里が触れようとしない場所。
そこから、かすかな軋みが聞こえた。木の棚が鳴っている音ではなかった。誰かが長いあいだ閉じたままにしてきた言葉が、内側から押しているような音だった。
「……あのノートが、棚を重くしているんですか」
「ノートだけではない。返せなかった言葉と、返さないまま守ろうとした時間じゃ」
栞丸は、奥の棚を見上げた。
「堅物司書は図書室を守ってきた。じゃが、守るために返さなかったものが、今は図書室を重くしておる」
詩乃は何も言えなかった。
灯里が悪い、とは思えなかった。
でも、灯里が抱えたままのものが、この部屋を重くしている。
そのことだけは、棚の軋む音が教えていた。
詩乃は布巾を持ったまま、棚の列を眺めた。
どれだけの忘れものが、ここで待っているのか。どれだけの声が、届く時を待っているのか。
「わたしに、できることはありますか」
「今はただ、返せるものを返すことじゃ」
詩乃は頷いた。
作業を続けていると、栞丸は棚の上で鼻をひくひくさせた。
「新米司書、違う。そっちではない」
「え?」
「この忘れものは、悲しいにおいだけではない。少しだけ、怒っておる」
「怒っている?」
「好きなものを取り上げられた時のにおいじゃ。自分で手放したつもりでも、心の奥では納得しておらん」
詩乃は菜月の顔を思い出した。
画集を戻す時の、あの迷った手。
「じゃあ、菜月さんは本当は」
「本人が言うまで決めつけるな」
栞丸はぴしゃりと言った。
「においは手がかりじゃ。答えではない」
地下の作業を終えて地上に戻ると、灯里がまだいた。閉館から三時間が経とうとしているのに、カウンターの奥の小さな机で、何かを読んでいた。
詩乃が近づくと、灯里は視線を上げた。
「お疲れ様です」
「灯里さん、まだいたんですね」
「少し調べ物があって」
灯里の手元には、資料が広げてあった。地域資料のコーナーから出してきたらしい、古い冊子だった。でも詩乃が目に入ったのは、その隣にある別のものだった。
ノートだった。
古い、表紙が薄く日に焼けたノート。先日、灯里が引き出しにしまうのを見たのと、同じものだと詩乃には分かった。
表紙には、薄くなったインクで文字が書かれていた。
灯里と透子。
詩乃はその名前を読んで、地下で聞いた軋みを思い出した。
棚の奥で、言葉が内側から押していた音。
あの音と、このノートは、たぶん同じ場所につながっている。
「……灯里さん」
詩乃は声をかけた。それ以上は言わなかった。
灯里は詩乃の視線がどこに向いているか、分かったはずだった。でも今夜は、ノートを隠さなかった。ただ、手を重ねた。ノートの上に、自分の手をそっと置いた。
「このノートは」
灯里が言った。独り言のようでもあった。
「わたしの忘れものです」
詩乃は何も言わなかった。
「返せていない。ずっと」
灯里の声は一定だった。でも今夜は、その一定さが何かを抑えているためのものに聞こえた。
「……いつか、話してもらえますか」
詩乃は、陽人の絵本の時と同じように聞いた。
灯里はしばらくノートを見ていた。
それから顔を上げた。
「いつか」
今夜で二度目の「いつか」だった。
でも今夜のそれは、前よりも少し近い距離にある気がした。
「お先に失礼します」
詩乃は荷物を持った。
エントランスに向かいながら、棚の間を歩いた。夜の図書館は静かで、昼間の声が薄く積もっている。
地下で聞いた軋みが、まだ耳の奥に残っていた。
あれは、棚の音ではなかった。
灯里が返せないまま抱えている言葉が、少しずつ外へ出ようとしている音だったのかもしれない。
外に出ると、九月の夜風が少しだけ涼しかった。
夏の名残が、少しずつ遠ざかっていた。
詩乃は空を見上げた。星はあまり見えなかったが、月が出ていた。
あのノートのことを、どうするべきか、詩乃にはまだ分からない。
ただ、待つだけでいいのかどうかも、分からなかった。
灯里が自分で言葉を見つけるまで、無理に動かしてはいけない。
それでも、その時が来た時に、そばにいることはできる。
それがまだ、形になっていないだけで。




