第六話 返せばいいわけじゃない
菜月が画集を返しに来たのは、四日後だった。
カウンターに本を置く時、少しだけ名残惜しそうな手つきをした。それだけで詩乃には、菜月がその四日間、何度もページを開いたのだと分かった。
「どうでしたか」
「よかったです」
菜月は短く答えた。それ以上は続けなかった。詩乃も続きを求めなかった。
「また借りたくなったら、いつでもどうぞ」
「……はい」
菜月は自習室へ戻った。詩乃は返却された画集を手に取った。表紙が少しだけ温かかった。何度も持ち返された本の温度だった。
その夜、詩乃は地下へ下りた。
あの絵に触れた。女の子と鳥の絵。色が変わっていた。以前より落ち着いた色になっていた。明るさは残っているが、悲しさが少し引いている。菜月が何かを受け取った、その後の色だと詩乃は思った。
そのぶん、忘れもの図書室の空気も少しだけ軽くなっていた。
けれど、一番奥の棚だけは変わらなかった。
棚板が、そこだけわずかに沈んでいるように見える。
その前に立った灯里は、手を伸ばしかけて、やめた。
「今日は、ここまでです」
そう言った声はいつも通りだったのに、指先だけが少し白くなっていた。
「灯里さん、この絵を返す時が近いと思います」
灯里は絵を見た。自分でも触れた。少し長い時間、そのままでいた。
「どういう形を考えていますか」
「図書館の小さな展示を使いたいんです」
詩乃は、閉館後に考えてきたことを話した。
「一階のエントランスに、ケースがあります。季節ごとに館内の展示を置く場所です。今月末で入れ替えのタイミングになります。そこに、子どもの頃に好きだった本や描いた絵をテーマにした展示を作りたくて」
「忘れもの図書室の絵を、展示に使う?」
「使う、というより……展示の中に置く、という感じです。他の本や資料と一緒に並べて、誰かが描いた絵として。菜月さんが自分で見つけられるように」
灯里は詩乃をまっすぐに見た。
「菜月さんが自分の絵だと気づくと思いますか」
「気づかないかもしれません。でも、触れた時に何か感じると思います。陽人くんの時みたいに」
「陽人くんとは状況が違います」
灯里の声が、少し固くなった。
「陽人くんの絵本は、記憶の忘れものでした。幼い頃のことで、本人が意識していない。でも宮原さんの絵は、本人が意識してやめたことに関わっています。自分で描くことをやめた子が、自分の昔の絵と再会した時、何が起きるか」
「何かが変わるんじゃないかと思って」
「変わることが、必ずいい方向とは限らない」
詩乃は反論しようとした。
灯里が続けた。
「今回は、返却を保留にします。今の宮原さんに必要なのが、昔の絵そのものなのか。それとも、もう一度好きだと思ってもいい場所なのか。まだ分かりません」
「でも、絵は待っている気がします」
「待っているからこそ、急がないんです」
灯里は、棚の上の絵に視線を落とした。
「忘れものは、早く返せばいいものではありません。受け取る準備がない人に返せば、それは忘れものではなく、突きつけられた過去になります」
詩乃は言い返せなかった。
菜月が画集を棚に戻した時の、迷う手つきを思い出した。あれは、まだ手放したくない手つきにも見えたし、触れるのが怖い手つきにも見えた。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
「返すのではなく、受け取れる場所を作ります。今の宮原さんには、進路の問題があります。安定した道を選ぶよう、周りから言われているのかもしれない。そこに昔の絵を返せば、宮原さんは揺れます」
「揺れることは、悪いことじゃないと思います」
「悪いことではありません。でも、揺れた結果を引き受けるのは、宮原さん自身です。家族との関係も、受験も、その後の道も」
「でも、このまま自分の好きなものを見ないふりして生きていく方が」
詩乃の声が少し強くなった。
「それは、宮原さんが選ぶことです。わたしたちが選ぶことではない」
灯里の声は穏やかだった。穏やかなまま、はっきりしていた。
詩乃は口を閉じた。
言い返したかった。でも、言葉が見つからなかった。灯里の言っていることは、正しい。正しいと分かるから、余計に苦しかった。
「では、どうするんですか」
「待ちます」
「いつまで」
「宮原さんが、受け取れる時まで」
詩乃は黙った。
待つ、という言葉が、詩乃には重かった。待っている間に、菜月は何かをあきらめるかもしれない。待っている間に、菜月の好きだという気持ちが薄くなるかもしれない。
「灯里さんは」
詩乃は声を低くした。
「待ちすぎることも、あると思います。返すべき時を、過ぎてしまうことも」
部屋が静かになった。
栞丸が棚の上でそっと目を開けた。詩乃には見えなかったが、栞丸は二人の間の空気を見ていた。
「……わたしが、返せなかったことがある、という意味で言っていますか」
灯里の声は変わらなかった。でも、その変わらなさが、今回は違う意味に聞こえた。
「そういう意味で言ったつもりはありませんでした」
詩乃は一度、唇を結んだ。
「でも、まったく考えなかったと言えば、嘘になります」
灯里はしばらく、絵を見ていた。
それから言った。
「展示の案は、形を変えれば使えます」
詩乃は顔を上げた。
「ただし、宮原さんの絵を直接置くのではなく、展示のテーマとして『子どもの頃に好きだったもの』を設定する。図書館の利用者から、子どもの頃に好きだった本や絵を募集する形にする。そうすれば、宮原さんが自分の意思で参加を選べます」
「菜月さんが参加するとは限らないですよね」
「限りません。でも、展示を見ることはできる。自分と同じように好きなものがあった人たちのことを知ることはできる。それだけで、何かが変わるかもしれない」
詩乃は考えた。
直接返さない。でも、受け取れる場所を作る。扉を開けておく、という形。
「……それの方が、いいですね」
詩乃は言った。負けた、とは思わなかった。灯里の言う形の方が、菜月への敬意があると思った。
「準備を手伝ってください」
「はい」
展示の準備には一週間かかった。
詩乃はエントランスのケースを整え、テーマを決め、手書きのポップを作った。灯里は利用者への告知文を書き、館内のあちこちに小さなお知らせを貼った。「子どもの頃に好きだった本や絵を、ぜひ見せてください」という内容だった。
菜月は毎日、自習室に来ていた。
展示の準備をしている詩乃と何度かすれ違ったが、特に声はかけなかった。ただ、ある日の夕方、帰り際にエントランスのお知らせを立ち止まって読んでいた。それだけだった。
展示が完成したのは、八月の終わりの方だった。
エントランスのケースに、利用者から集まった本や絵が並んだ。色褪せた絵本、切り抜きのスクラップ、小学生が描いた動物の絵、中学生が作った詩集の表紙。様々な人の「好きだったもの」が、ひとつの棚に収まった。
その中に、一枚の絵が混じっていた。
女の子と、不思議な鳥の絵。他の絵よりずっと丁寧で、線が細くて、物語の一場面のような絵。詩乃が展示の端にそっと置いた。作者名は記さなかった。
これは返却ではない。
詩乃はそう思うことにした。
ただ、扉を開けておくだけだ。菜月が通り過ぎるなら、それでいい。立ち止まるなら、その時に初めて、少しだけ届く。
菜月が展示に気づいたのは、翌日の昼すぎだった。
自習室から出てきて、エントランスを通る時に足を止めた。ケースの前にしばらく立っていた。詩乃はカウンターの内側から、そっと見ていた。
菜月の視線が、女の子と鳥の絵のところで止まった。
長い時間、そこにいた。
それから菜月は、鞄からノートを取り出した。裏表紙を開いて、何かを書いた。ノートを閉じて、また展示を見た。それから自習室には戻らず、そのまま図書館を出た。
詩乃はあとでそっとケースを確認した。
女の子と鳥の絵の下に、小さなメモが挟まっていた。菜月が置いていったものだった。
そこには一言だけ書いてあった。
「また描こうかと思います」
詩乃は紙を持ったまま、しばらく動かなかった。
泣くほどではないはずだった。でも、目の奥が少し熱くなった。
その夜、灯里に見せた。
灯里は紙を手に取って、読んだ。表情は変わらなかった。でも、紙を詩乃に返す時の手つきが、いつもより少しだけ丁寧だった。
「返せましたね」
灯里が言った。
「灯里さんのおかげです」
「あなたが展示の形を思いついた」
「でも、直接返そうとして止めてもらわなければ、違う結果になっていたと思います」
灯里は何も言わなかった。
詩乃は続けた。
「慎重さには、理由があるんですね」
「……あります」
「それを、もう少し教えてもらえますか。いつか」
灯里はすぐには答えなかった。
しばらくして、「いつか」とだけ言った。
忘れもの図書室の扉を閉めに行ったとき、棚の奥で、小さな音がした。
木が軋むような音だった。
灯里は立ち止まった。
けれど振り返らずに、「戻りましょう」と言った。
その夜遅く、詩乃が帰る支度をしていると、灯里がまだカウンターの奥にいた。
手元には古いノートがあった。
詩乃が声をかけようとした瞬間、灯里がそれを引き出しの中にしまった。
気づかれた、と分かったのか、灯里は顔を上げた。
「お先に失礼します」
詩乃はそう言って、荷物を持った。
灯里は「お疲れ様でした」と返した。
詩乃はエントランスを出る前に、展示ケースをもう一度だけ見た。女の子と鳥の絵は、まだそこにある。でも明日には、忘れもの図書室の棚に戻すつもりだった。届いたから。
届いた忘れものは、静かになる。
詩乃にはもう、そのことが分かる気がした。
灯里のノートのことは、聞かなかった。
いつか、と灯里は言った。
待てる、と詩乃は思った。




