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忘れもの図書室の夜間司書  作者: 明石竜


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第五話 好きだったものの絵

 夏休みに入ってから、開館日にはほとんど欠かさず自習室に来る高校生がいた。

制服で来る日も私服の日も、いつも自習室の同じ席に座り、参考書を広げて黙々と問題を解いていた。休憩する様子もなく、水を飲む時だけ手を止める。詩乃が返却作業で自習室の前を通るたびに、その子はそこにいた。

 真面目な子だ、と詩乃は思っていた。

 ただ、真面目さと疲れは別のものだ。その子の背中は、どちらも帯びていた。

 詩乃がその子と初めてまともに話したのは、八月の中旬だった。 

 自習室の閉室時間が近くなってもその子が出てこないので、声をかけに行った。

「もうすぐ閉室時間ですよ」

 少女は顔を上げた。目が少し充血していた。勉強しすぎというより、眠れていない目の充血だった。

「すみません、今片づけます」

 参考書を重ねながら、少女は詩乃の名札を見た。

「司書さんですか」

「臨時職員ですけど、はい」

「図書館って、何時まで開いてますか」

「閉館は六時です。自習室はその三十分前に閉まります」

「そうですか」

 少女は鞄に参考書を詰めた。丁寧な手つきだった。本の扱いが丁寧な人は、話し方も丁寧な場合が多い、と詩乃は経験上思っている。

「よく来てくれてますよね、自習室」

「家だと集中できなくて」

「どうぞ、使ってください。それ向けの場所ですから」

 少女は小さく頷いた。それだけで出て行こうとして、ドアのところで少し止まった。

「あの、参考書以外の本も借りられますか」

「もちろん。何か探してますか」

「いえ……なんでもないです」

 少女は出て行った。

 詩乃は自習室の窓の外を見た。まだ明るい、夏の夕方だった。

 その夜、詩乃は地下の忘れもの図書室で、あの絵に触れた。

 女の子と鳥の絵。前回と同じように、触れると色が見えた。今日はその色が、昨日より少しだけ鮮やかだった。持ち主が近くにいる、と詩乃は思った。

「栞丸、今日、持ち主が来ましたか」

 栞丸は棚の上で片目を開けた。

「来たのじゃ。においがした」

「自習室に来ていた女の子ですか」

「知らん。どこにいたかまでは分からん。ただ、近くに来た。それだけじゃ」


 翌日、詩乃はその子の様子を少し意識して見た。

 いつも通り自習室に来て、いつも通り同じ席に座った。昼すぎに一度だけ席を立ち、棚の方に来た。参考書のコーナーではなく、文芸書の棚の前に立った。背表紙を眺める。手は伸ばさない。それから自習室に戻った。

 陽人と同じだった。手を伸ばしそうになって、伸ばさない。

 詩乃は灯里に、その日の夕方に話した。

「自習室の女の子が、あの絵の持ち主かもしれないと思って」

「根拠は」

「昨夜、絵に触れたら色が近くなっていました。今日もその子が来ていた。それと……棚の前に立った時の顔が、本を選べない顔をしていて」

「名前は分かりますか」

「宮原菜月さんだと思います。自習室の利用者名簿に名前がありました」

 灯里は少し考えた。

「高校生ですか」

「はい。制服から、近くの進学校の生徒だと思います」

「進路の時期ですね」 

 灯里の声が、わずかに曇った。詩乃には、その曇り方が単なる判断からではないような気がした。

「あの絵について、どう思いますか」

「好きなものを描いた絵です。かなり丁寧に描いてある。描くことが好きな子だと思います」

「進路と、好きなこと」

「はい」

 灯里は窓の外を見た。

「詩乃さん」

 詩乃は少し驚いた。灯里が詩乃を下の名前で呼んだのは初めてだった。

「あなた自身は、好きなことを諦めた経験がありますか」

 詩乃は答えに迷った。迷ってから、正直に言うことにした。

「あります」

「何を」

「小説を書くことです。大学の時まで書いていたんですが、やめました」

 灯里は詩乃を見た。何かを確認するような目だった。

「宮原さんの絵と、重なりますか」

「……重なると思います」

「それを分かった上で、この仕事をしますか」

「どういう意味ですか」

「自分の過去と重なる忘れものを扱う時、踏み込みすぎる危険があります。助けたいという気持ちが、自分のための行動になる場合がある」

 詩乃はその言葉を聞いた。

 踏み込みすぎる。自分のための行動。

 分かる、と思った。分かるから、少し怖い。

「気をつけます」

「気をつけるだけでは足りないことがある。その時は、止めます」

「はい」

 灯里の言い方は相変わらず一定だった。でも「止めます」という言葉には、止めることも仕事のうちだという確かさがあった。詩乃はそれを、頼りにしていいと思った。


 菜月が次に棚の前に来たのは、三日後だった。

 今度は文芸書の棚ではなく、画集の棚の前だった。詩乃は少し離れた場所で、返却作業をしながら見ていた。

 菜月は画集を一冊抜き出した。西洋絵画の画集だった。表紙を眺め、ぱらぱらとページをめくる。その時の菜月の顔は、自習室で参考書を見ている顔と全然違った。眼差しが柔らかく、少しだけ口が開いて、呼吸がゆっくりになった。

 好きなんだ、と詩乃は思った。

 絵が、本当に好きなんだ。

 菜月は画集を棚に戻した。戻す手が、少し迷っていた。それでも戻した。自習室に帰っていく。

 その少しあと、自習室の前を通りかかった時、菜月がスマートフォンを耳に当てているのが見えた。

「分かってる。ちゃんと勉強してる」

 声は小さかった。けれど、詩乃にはその一言だけが聞こえた。

「絵は……今は描いてない。大丈夫」

 菜月はそう言って、少し笑った。電話の向こうの誰かを安心させるための笑い方だった。

 通話を切ったあと、菜月はしばらく画集の棚を見ていた。けれど手は伸ばさなかった。

 詩乃は、その横顔を見て思った。

 好きなものをやめる時、人は「嫌いになった」とは言わないのかもしれない。

 ただ、大丈夫、と言うのかもしれない。

 詩乃は動かなかった。 

 声をかけたかった。でも、何を言うべきか分からなかった。好きなら描けばいい、とは言えない。そんな簡単な話ではないことは、詩乃自身が知っている。


 その夜、灯里と地下に下りた。

 詩乃はあの絵に触れた。

 今日の色は、昨日より濃かった。鮮やかというより、複雑だった。明るさと悲しさが、前より混ざり合っている。菜月が画集を手に取った、あの時の顔に似た色だった。

「近づいてます」

「そうですか」

「でも、どう返せばいいか、まだ分からなくて」

 灯里は棚を見ながら言った。

「無理に返そうとしなくていいです。まず、宮原さんのことを知ることです」


 翌日の午後、菜月が自習室から出てきた時、詩乃は声をかけた。

「宮原さん、少しいいですか」

 菜月は少し警戒した顔をした。

「なんですか」

「画集、見てましたよね。昨日」

「……はい」

「絵、好きですか」

 菜月は少し固まった。答えようとして、答えをひとつ飲み込んだ。詩乃にはそれが見えた。

「まあ、少しは」

「描くのも好きですか」

 また間があった。今度は長かった。

「昔は、描いてました」

「今は」

「今は……描いてないです。描く時間がないので」

 時間がないのではなく、描くことを選んでいない、と詩乃には聞こえた。でも言わなかった。

「画集、借りてみませんか。館外貸出もできますよ」

「勉強しないといけないので」

「息抜きに」

 菜月は少し迷った。

「……少しだけ、見てもいいですか。ここで」

「どうぞ」

 菜月は画集の棚に戻り、さっきと同じ一冊を取り出した。カウンターの近くのテーブルに座り、ゆっくりとページをめくる。詩乃は少し離れた場所に立っていた。

「倉橋さんは」

 菜月が顔を上げずに言った。

「はい」

「好きなことをやめたことがありますか」

 詩乃は一瞬だけ息を止めた。

 灯里が先日、同じことを聞いた。

 今度は菜月が聞いている。

「あります」

「どうして、やめたんですか」

 詩乃は少し考えた。正直に言うべきか、どこまで言うべきか。

「うまくいかなかったから、というのと……やめる理由を探していたから、というのと、両方あります」

 菜月はページを一枚めくった。

「やめる理由なら、いくらでも見つかるんです」

 菜月の声は小さかった。独り言のようでもあった。

 詩乃はすぐに返事ができなかった。

 菜月の言葉が、思っていたより深いところに落ちたからだった。


 やめる理由なら、いくらでも見つかる。


 それは、詩乃もよく知っている言葉だった。

 課題が忙しいから。就職の準備があるから。書いても誰にも読まれないから。今さら続けても意味がないから。

 そうやって一つずつ理由を並べていくと、最後には、好きだったことの方が間違いだったような顔をしてしまう。

 菜月を止めたいのか。

 それとも、あの頃の自分を止めたいのか。

 詩乃には、その境目が少し分からなかった。

「そうですね」

「好きなことって、続けるほど怖くなりませんか」

「なります」

 詩乃は正直に言った。

「続けるほど、本当に好きかどうか試されてる気がして。うまくできない自分と、何度も向き合わないといけなくて。そっちの方が、やめた方がずっと楽で」

 菜月はページをめくる手を止めた。

「でも、やめたら……」

 詩乃は続きを待った。

「やめたら、どうなりましたか?」

 詩乃は少し、答えに時間をかけた。

「楽にはなりました。でも……何かを、ずっと棚の上に置きっぱなしにしている感じがして。取りに行けないまま、そこにある感じが、ずっと続いています」

 菜月はしばらく黙っていた。

 それから画集を閉じた。

「借りていってもいいですか」

「もちろん」

 菜月は画集を抱えてカウンターに来た。貸出手続きをしながら、詩乃は何も言わなかった。余計なことは言わなくていい、と思った。


 菜月が画集を鞄にしまうのを見て、詩乃はほっとした。

 けれど、その安心のすぐあとに、小さな怖さが来た。

 自分は今、何を喜んだのだろう。

 菜月が本を手に取ったことか。

 それとも、昔の自分に似た誰かが、まだ引き返せる場所にいるように見えたことか。

 嬉しい、と思う気持ちの中に、自分のためのものが混じっている。

 そのことに気づいて、詩乃は少しだけ手を握った。


 その夜、詩乃は灯里に今日のことを話した。話しながら、自分が菜月と話した内容を振り返った。

 菜月に向けたつもりの言葉の中に、自分自身へ向けた言葉が混じっていなかったか。

「踏み込みすぎましたか」

 詩乃が尋ねると、灯里は少し考えた。

「自分の経験を話すことと、相手の選択を誘導することは、違います」

「自分の経験を話しただけでしたか」

「おそらく。ただ」

 灯里が詩乃を見た。

「あなたが菜月さんに重なっているのは、分かります。気をつけてください」

「はい」

「止める時は、止めます」

「はい」

 詩乃は頷いた。

 重なっている、と灯里は言った。その通りだと思う。菜月の「やめる理由なら、いくらでも見つかる」という言葉は、かつての自分の言葉でもある気がした。

 ただ、それでも詩乃は、菜月に何かを届けたいと思っていた。

 その気持ちが本当に菜月のためのものなのか、確かめながら。

 まだ、届けられる形を探すことはできる。


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