表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れもの図書室の夜間司書  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/6

第四話 夜間司書見習い

 学校が夏休みに入ると、図書館は少し違う顔になった。

 子どもたちが、午前中から来る。読書感想文や自由研究の本を探す子、涼みに来る子、友達と連れ立って児童書コーナーに陣取る子。カウンターには「この本ありますか」という声が途切れなく続き、詩乃は昼過ぎまで返却と案内を繰り返した。

 忙しかった。それでも、悪くなかった。

 昼間の図書館は、誰かのために開いている場所だ。そのことが、最近は少しだけ身に沁みる。

 陽人が返した絵本は、今は忘れもの図書室の棚ではなく、地上の児童書コーナーに並んでいた。灯里が「返却は完了した」と判断したからだった。詩乃には、その判断の根拠がまだよく分からない。でも絵本を手に取ると、あの声は聞こえなかった。静かな、ただの絵本になっていた。届き終えた忘れものは、こうなるのだと詩乃は知った。

 八月に入って間もない日の閉館後、灯里に呼ばれた。

「話があります」 

 いつもの一定の声だったが、今日は少しだけ改まった気配があった。詩乃はエプロンを外しながら、「はい」と返事をした。

 地下ではなく、カウンターの内側だった。灯里は椅子を二つ並べて、詩乃に一つを示した。向かい合わせではなく、隣同士に置いてある。詩乃は少し意外に思いながら、腰を下ろした。

「陽人くんのことで、話ですか」

「いいえ。今後のことです」

 灯里は手元に、薄い冊子のようなものを持っていた。手書きで何かが書かれている。

「倉橋さんを、正式に夜間司書見習いとして関わらせることにしました」

 詩乃は少し、息を止めた。

「正式、というのは」

「これまでは成り行きでした。扉が開いて、栞丸が連れていって、わたしが説明した。でも今後は、きちんとした形にしたい」

「わたしでいいんですか」

「向いているかどうかは、まだ分かりません。でも、見える。声が聞こえる。そして、相手の立場で考えようとする」

 灯里はそこで一度、言葉を止めた。

「それだけあれば、始められます」

 詩乃は膝の上に手を置いた。向いているかどうか分からない、と言われた。正直な言い方だ、と思った。向いてると思います、とも、心配ですが、とも言わない。ただ、始められると言う。それが灯里らしかった。

「ありがとうございます」

「礼はいいです。ルールを説明します」

 灯里は冊子を開いた。手書きの文字が並んでいる。几帳面で、余白の取り方まで整った字だった。

「基本的なことを四つ。忘れもの図書室で守るべきことです」

 詩乃は背筋を伸ばした。

「一つ目。忘れものは、勝手に返してはいけない」

「はい」

「返却の判断は、必ず二人で行います。わたし一人でも、倉橋さん一人でもいけない。分からない時は、栞丸に聞く。それでも迷う時は、待つ」

「待つことも、判断ですか」

「返さないことも、一つの選択です」

 詩乃は頷いた。

「二つ目。持ち主の今を壊す返却はしてはいけない」

 これは先日も聞いた言葉だった。

「今の生活に、忘れものを突きつけることになる場合があります。記憶を戻すことで、今いる場所を失う人がいる。返す前に、持ち主の今を確認すること」

「どうやって確認するんですか」

「観察します。図書館という場所は、人がよく来ます。来た時の顔、借りる本、返却のタイミング。そういうところから、その人の今が見えることがある」

 詩乃は陽人のことを思い返した。棚の前で背表紙だけ眺めていた陽人。あれは確かに、何かを待っている人の顔だった。

「以前、返す時期を間違えたことがあります」

 灯里の声が、そこで少しだけ低くなった。

「持ち主は、忘れていた言葉を受け取った。でも、その人はまだ、それを受け取れる状態ではなかった。返した言葉を、自分を責める材料にしてしまった」

「それは……」

「返却は成功しました。でも、その人の今は少し傷ついた。だから、成功とは言えません」

 詩乃は膝の上の手を見た。

 返すことと、救うことは、同じではない。

 灯里が慎重すぎる理由が、少しだけ分かった気がした。

「三つ目。返せないものは、棚に戻す」 

「返せない、というのは、返すべき時ではないということですか」

「返せない理由はいくつかあります。持ち主が今は受け取れない。返す形がまだ見つからない。あるいは、持ち主がもうこの世にいない場合もある」

 詩乃は少し、胸が重くなった。

「そういう忘れものは、どうなるんですか」

「棚に残ります。ただし」

 灯里は少しだけ間を置いた。

「棚に戻したものが、消えるとは限らない」

「どういう意味ですか」

「棚に置かれた忘れものは、待ちながら変わることがある。持ち主の状況が変わる。時間が経って、受け取れる形になる。あるいは、別の誰かがその忘れものを必要とする場合もある」

 詩乃は棚を思い浮かべた。あの部屋にあるさまざまなもの。どれだけの時間、そこにあるのかわからないものも、あるはずだ。

「四つ目」

 灯里の声が、わずかに低くなった。

「夜間司書の仕事は、誰にも言わないこと」

「館長には言っていいですか」

「風間館長は、知っています。知っているから、あえて何も言わない」

 詩乃は館長の顔を思い浮かべた。いつも少し眠そうで、でも館内のことは誰よりもよく見ている、穏やかな女性。あの人が知っている、というのは、なんとなく納得できた。

「他の職員には、言わない。利用者にも、言わない。夜間司書の仕事は、昼間の図書館の仕事とは別のものです」

「はい」

「以上です」

 灯里は冊子を閉じた。詩乃はもう一度、四つのルールを頭の中で繰り返した。勝手に返さない。今を壊さない。返せないものは棚に戻す。誰にも言わない。

「質問はありますか」

「一つだけ」

「どうぞ」

「灯里さんは、いつから夜間司書をしているんですか」

 灯里の手が、膝の上で少し止まった。

「前任の方から引き継いだのは、三年ほど前です」

「どんな方でしたか」

「……よく笑う人でした。判断が早くて、わたしとは正反対の」

 灯里はそれ以上は言わなかった。詩乃も、それ以上は聞かなかった。

けれど灯里の視線は、一度だけ地下書庫の方へ向いた。

ほんの一瞬だった。

そこに置いてきた言葉を、今も確認してしまうような目だった。

詩乃はそれに気づいたが、質問を増やさなかった。

まだ聞いてはいけないことがあるのだと、なんとなく分かった。


 その日の夜、地下に下りると、栞丸が棚の上で丸まっていた。詩乃が入ってきても目を開けず、前足を顔の前で組んだままでいる。

「栞丸」

「……なんじゃ」

「ルールを聞きました。正式に見習いになることになったので、よろしくお願いします」

 栞丸は片目だけ開けた。

「堅物司書が認めたなら、われに異論はない」

「栞丸から教えてもらいたいことがあって」

「なんじゃ」

「忘れもの図書室の基本的な……仕組みといいますか。どういう忘れものがここに届くのか、もう少し知りたいんです」

 栞丸は起き上がった。眠そうな目のまま、胸を張る。

「仕方ないのう。教えてやろう」

 栞丸は棚の端から端まで、小さな足でゆっくりと歩いた。

「ここに届く忘れものには、種類がある。言葉の忘れもの、記憶の忘れもの、気持ちの忘れもの、の三種じゃ」

「それぞれ違うんですか」

「言葉の忘れものは、言えなかった言葉、あるいは言ったつもりで届いていなかった言葉じゃ。手紙や、メモや、書きかけのものとして届くことが多い」

「記憶の忘れものは」

「その人が忘れてしまった、あるいは忘れようとしている記憶じゃ。陽人の絵本は、これじゃった。モノとして届くが、中に声や場面が残っておる」

「気持ちの忘れものは」

 栞丸は一度、立ち止まった。

「これが一番、扱いが難しい。感情そのものが届く。形がなく、ただ滲んでおるような忘れものじゃ。持ち主が長い間、気持ちに蓋をしてきた場合に届くことが多い」

「返し方は」

「それが分からんのじゃ。返す相手に、届けられる形がない。気持ちをモノにして渡すことはできない。だから、一番長く棚に残ることが多い」

 詩乃は棚の奥の方を見た。形のよく見えない、光に近い何かが並んでいる場所。あれが気持ちの忘れものか、と思った。

「持ち主は分かるんですか」

「われが嗅ぎ分ける。ただし、気持ちの忘れものは匂いが薄い。持ち主が蓋をしているから、においも抑えられておる」

「それを開けるのが、夜間司書の仕事」

「開けるのではない」

 栞丸がきっぱりと言った。

「蓋を開けるのは、持ち主自身じゃ。夜間司書は、開けられる時を待って、そばにいる。それだけじゃ」

 詩乃はそれを聞いて、少し黙った。

 開けるのは持ち主自身。夜間司書は待って、そばにいる。

「……灯里さんに、返せないまま抱えているものがあると言っていましたよね」

「言うたかもしれん」

「あれは、三種類のどれですか」

 栞丸はしばらく詩乃を見た。それから棚の一番端に目をやった。

「言葉と、気持ちの、両方じゃ」

 それ以上は言わなかった。

 詩乃も、それ以上は聞かなかった。


 その夜遅く、一つ新しい忘れものが届いた。

 詩乃は栞丸に言われて棚の前に立った。一段目の、端の場所に、新しいものがある。

 紙だった。

 一枚の紙。図書館で使われるような、白い裏紙。その表面に、鉛筆で絵が描いてある。女の子と、不思議な鳥。物語の登場人物のような、線の細い、けれどのびのびとした絵。

「これは……」

 詩乃は紙に触れた。

 声は聞こえなかった。でも代わりに、色が見えた。感触、というより、気配に近いもの。明るくて、少し悲しくて、一番奥に怒りではないけれど怒りに近い何かがある。好きだ、という気持ちが、ある理由で行き場をなくした時の、あの感触。

「持ち主は、誰ですか」

「まだ分からん。においが弱い。でも若い。おそらく、まだ学校に通っておる」

 詩乃は絵を眺めた。女の子と鳥。丁寧に描かれている。好きで描いた絵だ、と思った。

 これが次の仕事になる、と詩乃は思った。

 まだ何も分からない。でも、この絵は誰かのもので、その誰かに届けるべき形がある。

「新米司書」

「はい」

「疲れたか」

「いいえ」

「そうか」

 栞丸はまた棚の上に丸まりかけた。

「続けるのじゃぞ。疲れたら言え。われが少しだけ、一番いい棚の場所を教えてやろう」

「一番いい棚の場所?」

「ここは紙の匂いが一番濃い場所がある。そこで寝ると、よく眠れる」

「栞丸のおすすめ寝床ですか」

「人間には使えるかどうか知らんが、気持ちの整理にはなる」

 詩乃は少し笑った。

 栞丸はもう目を閉じていた。

 詩乃は部屋を出る前に、もう一度だけ新しい忘れものを見た。一枚の絵。女の子と鳥。

 好きだったものの絵が、誰かを待って、ここにある。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ