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忘れもの図書室の夜間司書  作者: 明石竜


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第三話 読書感想文が嫌いな少年

 三枝陽人が図書館に来たのは、翌々日の午後だった。

 詩乃は児童書コーナーの棚を整理しながら、入り口の方向に気づいた。小学五年生くらいの男の子が、リュックサックを背負ったまま、入り口で少し立ち止まっている。背が高く、髪が少し伸びすぎていて、図書館の中を入るかどうか迷っているような顔をしていた。

 けれど迷ったのは一瞬で、すぐに中に入ってきた。慣れた足取りで、棚の間を歩く。詩乃とすれ違う時、軽く目が合った。男の子は特に何も言わず、通り過ぎた。

 ポケットの中で、栞丸がくしゃみをした。

 詩乃は手の中の本を棚に戻しながら、さりげなく陽人の方向を見た。陽人はいくつかの棚の前で立ち止まり、背表紙を眺めていた。手を伸ばしそうになって、伸ばさない。また別の棚へ移る。それを繰り返している。

 灯里が言っていた通りだった。本を手に取らない。棚の前に立って、背表紙だけ見て、また歩く。

 詩乃はカートを押しながら、少しずつ陽人に近づいた。

「こんにちは」

 声をかけると、陽人は振り向いた。警戒しているわけではないが、愛想もそこまでない、小学生らしい顔をしていた。

「……こんにちは」

「よく来てくれてるよね。図書館」

「べつに」

「何か探してる?」

 陽人は少しだけ口を曲げた。

「読書感想文、書かないといけなくて」

「夏休みの宿題?」

「そう。本、選ばないといけないんだけど」

 詩乃は棚の方に目をやった。

「どんな本が好き?」

「好きじゃない」

「本が?」

「読んだあとに何を書けばいいか分かんないから嫌い」

 陽人はさらりと言った。嫌いという言葉に、力みがなかった。事実として言っている、そういう口調だった。

「感想文って難しいよね」

「何が面白かったかとか、主人公から何を学んだかとか、そういうこと書けって言われても、分かんないし」

「うん」

「分かんないのに書けって言われても」

「それは確かに困るね」

 詩乃は陽人の隣に並んで、棚を一緒に眺めた。児童文学の棚だった。厚い本から薄い本まで、色とりどりの背表紙が並んでいる。

「本を読んだあとって、何か残らない? 気持ちとか」

「残るけど」

「どんな気持ち?」

「なんか……なんか、ふわってする感じ」

「ふわって」

「説明できないけど、なんかふわってする」

 詩乃はそれを聞いて、少し笑った。陽人は「笑わないでよ」という顔をしたが、声には出さなかった。

「それ、感想だよ」

「え」

「ふわってする、それが感想。それを言葉にしていくのが感想文だから、最初のところはもう持ってるじゃん」

 陽人はしばらく考えた。

「でも先生は、主人公に共感しましたとか、そういうの書けって言う」

「それは形の話だから、あとでいい。最初は、ふわってしたとこから始めればいいよ」

「……そんなんでいいの?」

「感想文の一行目に書けって言ってるわけじゃなくて、考え方の話ね」

 陽人はもう一度、棚を見た。

「本、選んでもらえる?」

「わたしが?」

「司書でしょ」

 詩乃は少しだけ迷った。

 栞丸が、またポケットの中で動いた。

「ちょっと待ってて」

 詩乃はカートを端に寄せ、児童書コーナーをゆっくり歩いた。今どんな本を陽人に差し出すべきか、考えながら。

 直接、あの絵本を渡すのは違う、と思っていた。亡くなったお母さんの声が残っている本を、突然「どうぞ」と渡せばいい、という話ではない。それは灯里の言う通りだった。

 では、どう届けるか。

 詩乃は児童書コーナーの端の小さな棚に目を止めた。図書館員が「今月のおすすめ」として選んだ本を並べる、小さなコーナーだった。今は四冊が立てかけられている。詩乃はその隣に少し空白があることに気づいた。

 夜間司書として返す、というのは、直接手渡すことだけじゃないかもしれない。

 詩乃の中で、何かが静かにかたちをとった。

「三枝くん、ちょっとこっちに来てもらえる?」

 詩乃は陽人を呼んだ。陽人がのそのそとやってくる。

「感想文にするなら、読みやすくて、読んだあとに何か残る本がいいよね。どのくらいのページ数がいい?」

「短い方がいい」

「正直でよろしい」

 陽人は「よろしいって何」という顔をした。

 詩乃はいくつか候補を引き出した。動物の話。友達と冒険する話。少し不思議な世界を旅する話。陽人はぱらぱらとめくり、「これでいいかな」と薄い一冊を選んだ。

「それにする?」

「まあ」

「読んでみたら、何かふわってしたとこ、また教えて」

「別に教えなくていい?」

「教えたくなったら、でいい」

 陽人はふんと鼻を鳴らし、貸出カウンターへ歩いて行った。

 詩乃はその背中を見送って、ゆっくりと息を吐いた。


 その日の夜、閉館後。詩乃は灯里に申し出た。

「忘れもの図書室のおすすめ棚に、あの絵本を置いてもいいですか」

 灯里が顔を上げた。

「おすすめ棚、というのは」

「児童書コーナーの端に、小さなコーナーがあります。今月のおすすめを並べるための棚で、今は四冊置いてあります。そこにあの絵本を一冊足して……陽人くんが自分で手に取れるようにしたいんです」

 灯里はしばらく、詩乃を見た。

「直接、渡さない?」

「はい。押しつけたくなくて。自分で見つけた方が、ちゃんと届く気がして」

「……根拠は」

「今日、陽人くんと話しました。本は嫌いって言うけど、読んだらふわってする、って言ってたんです。感情を受け取る力はある子だと思って。だから、自分のペースで手に取れる形にした方が、いいんじゃないかと」

 灯里はすぐには何も言わなかった。

 詩乃は続けた。

「間違ってたら、言ってください。わたし、まだ判断の仕方がよく分かってないので」

「……正しいかどうかは、やってみないと分かりません」

 灯里がようやく言った。

「ただ、直接渡さないという判断は、悪くない。忘れものを返す時、受け取る側に選択肢を残すことは大切です」

「やってみても、いいですか」

「一つだけ条件があります」

「はい」

「棚に置く前に、絵本に触れてみてください。声が、昨日と変わっていないか確認して」

「変わることがあるんですか」

「忘れものは、持ち主の状況によって変わることがある。返す準備ができている忘れものと、まだ早い忘れものは、触れれば分かるはずです」

 詩乃は頷いた。

 地下の忘れもの図書室で、詩乃は棚からあの絵本を取り出した。夜空とくまの表紙。昨日と同じように、両手でそっと持つ。

 声が聞こえた。

 昨日と同じ声だった。あのやわらかい、日当たりのいい部屋の声。読み聞かせの声。そして最後に、小さな子どもが「もう一回」と言う声。

 変わっていない。

 それ以上に、今日は声が少し近い気がした。陽人がこの図書館に来たからかもしれない、と詩乃は思った。

「堅物司書の言う通り、確認は大事なのじゃ」

 棚の上から、栞丸が言った。

「変わってないか?」

「変わってないです。むしろ、近くなった気がします」

「うむ。持ち主が今日ここに来た。絵本も感じておるのじゃ」

「栞丸は、どう思いますか。おすすめ棚に置く、という方法」

 栞丸はしばらく前足を組んでいた。

「忘れものは、押しつけると逃げる。差し出すと、受け取られる。新米司書のやり方は、差し出す方じゃ。悪くない」

「ありがとうございます」

「礼はいらん。礼を言うなら、ちゃんと返せてからにするのじゃ」


 翌日、詩乃は開館前に児童書コーナーのおすすめ棚を整えた。今月の四冊はそのままに、端に一冊だけ場所を作った。夜空とくまの絵本を、他の本と同じように、表紙が見えるように立てかける。

 特に説明書きはつけなかった。ただ、一冊。


 陽人が次に図書館に来たのは、三日後だった。

 詩乃は返却作業をしながら、さりげなく陽人の動きを追った。陽人はいつもと同じように棚の間を歩き、背表紙を眺め、また歩く。

 おすすめ棚の前で、足が止まった。

 詩乃は手を止めなかった。本を棚に戻しながら、横目で見た。

 陽人はおすすめ棚の前にしゃがんで、絵本を手に取った。表紙を眺める。ぱらぱらとめくる。

 表情は、詩乃からは見えなかった。

 陽人はしばらくそのままでいた。立ち上がって、また一ページめくった。それから、そっと本を閉じた。

「これ、知ってる気がする」

 陽人が呟いた。独り言だった。詩乃に向けていない。

「なんでだろ」

 陽人は絵本を持ったまま、貸出カウンターへ歩いた。

 詩乃はそちらに向かった。灯里がカウンターにいたが、詩乃が来るのを見て、すっと場所を空けた。

「借りたい?」

「うん。感想文のやつはもう決めたけど、これも読んでみようかと思って」

「いいね」

 詩乃は陽人の図書カードを受け取り、貸出の処理をした。絵本のバーコードを読み取り、カードに記録する。

「三枝くん、その絵本、どこかで見た覚えある感じがする?」

 詩乃は何気なく聞いた。

 陽人は少し首をかしげた。

「なんか……なんかあたたかいな、と思って。本なのに変な感じだけど」

「ふわって?」

「……ちょっと違う。ふわよりもっと……なんか、近い感じ」

 陽人は言葉を探してやめた。小学生の語彙では追いつかないような何かを、受け取っているのだと詩乃には分かった。

「読んでみたら、また教えてね」

「別に教えなくて……まあ、いいか」

 陽人は絵本を大事そうにリュックサックに入れた。いつもより少し丁寧な手つきだった。


 一週間後、陽人はまた図書館に来た。

 絵本を返しに来た。カウンターに本を置く時、少し口を開いた。

「読んだ」

「どうだった?」

「嫌いじゃなかったかも」

 それだけ言った。陽人らしい言い方だった。詩乃はそれ以上聞かなかった。

「また来てね」

「べつに来ようと思えば来る」

 陽人は返却された絵本には触れないまま、カウンターを離れた。

 詩乃は絵本を手に取った。

 声が、聞こえた。

 同じ声だった。日当たりのいい部屋の読み聞かせの声。ただ今日は、その声のそばに、もう一つ気配があった。小学生くらいの、少しぶっきらぼうな、でも本を持つ時だけ丁寧になる、そういう気配。

 声は、まだ泣いていなかった。

 待っていたわけでもなかった。

 ただ、届いた。それだけだった。

 詩乃は絵本を返却棚に置いた。

 今夜、忘れもの図書室に戻せるかもしれない。いや、戻さなくていいかもしれない。この絵本はもう、届くべきところに届いた。


 その夜、灯里に報告した。灯里は詩乃の話をひととおり聞いて、しばらく黙った。

「うまくいきましたね」

「はい」

「よかった」

 それだけだった。

 褒めているのか、確認しているのか、相変わらず判断のつかない声だった。けれど今回だけは、声の中に何か一枚、薄いものが重なっていた気がした。

「でも、倉橋さん」

「はい」

 灯里は詩乃をまっすぐに見た。

「次も同じようにうまくいくとは限りません」

 詩乃は頷いた。

「分かってます」

「分かった上で、続けますか」

「はい」

 詩乃は迷わずに答えた。

 灯里は何も言わなかった。ただ、また書類に視線を戻した。


 閉館作業のあと、二人で地下へ下りた。


忘れもの図書室の扉を閉める前に、詩乃は一番奥の棚を見た。

陽人の絵本が届き終えたぶん、部屋の空気は少し軽くなった気がした。

けれど奥の棚だけは、変わらなかった。

そこには、まだ触れられない何かがある。

灯里はその棚を見なかった。

見ないようにしているのだと詩乃には分かった。


 地上に戻ると、図書館の明かりがいつもより白く見えた。

 詩乃はカウンターの外に出ながら、胸の中を確かめた。

 怖い、という気持ちはある。次は違うかもしれない。うまくいかないかもしれない。傷にしてしまうかもしれない。

 それでも、陽人があの絵本を「嫌いじゃなかったかも」と言った声を、詩乃はまだ耳の近くに持っていた。

 続けよう、と思った。

 うまくできなくても、考えながら続けよう。

 ポケットの中の栞丸が、すうすうと寝息を立てていた。

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