第二話 忘れものは本ではない
翌日の閉館後、灯里に「少し時間をもらえますか」と言われた。
声の温度はいつもと変わらない。それでも詩乃には、昨夜の「まだ」という言葉がまだ耳に残っていたから、少しだけ背筋が伸びた。
「はい、もちろんです」
「地下へ来てください」
それだけ言って、灯里は歩き出した。詩乃はエプロンのポケットに手を入れたまま、後を追った。
地下書庫への階段を下りる間、二人は何も言わなかった。灯里は詩乃に合鍵を渡したまま先に歩き、迷いなく書庫の奥へ向かった。棚と段ボール箱を抜けると、あの扉があった。昨夜と同じ場所に、昨夜と同じ静けさで、ただそこにある。
灯里は取っ手に触れた。
詩乃が昨夜したように、ただ触れる。扉は静かに開いた。
中の空気は昨夜と同じだった。低い天井、壁一面の棚、そこに並ぶさまざまな忘れもの。ただ一点だけ変わっているとすれば、棚のどこかから、かすかに灯りがにじんでいることだった。電球でもLED照明でもない、古い紙が光を溜めたような、やわらかい明るさ。
「昨夜、入りましたね」
灯里が振り向かずに言った。
「はい」
「栞丸に連れてこられましたか」
「……はい」
詩乃は正直に答えた。灯里は少し間をおいてから、「そうですか」とだけ言った。責めているのか、確認しているのか、どちらとも取れる声だった。
部屋の中央に進んで、灯里は詩乃の方を向いた。
「昨日、栞丸から少し聞いたと思いますが、改めて説明します。知らないまま関わらせる方が、よくないと思うので」
「お願いします」
「ここに届くのは、本ではありません」
灯里は棚を見渡しながら言った。
「傘や財布のような、置き忘れた物でもない。ここに集まるのは、人が人生のどこかで置き忘れた言葉や記憶です。言えなかった言葉。渡しそびれた言葉。ずっと抱えてきたのに、いつのまにか形をなくしてしまった思い。それが、ここには届く」
詩乃はもう一度、棚を見た。
ノートや手紙や絵本。それらはモノとして棚に収まっているが、灯里の言う通り、本当に届いているのはモノではないのかもしれない。
「なぜ、図書館に届くんですか?」
「図書館は、言葉を預かる場所だからだと、前任の夜間司書は言っていました」
前任、という言葉が少し引っかかった。聞こうかと思ったが、今ではないと判断した。
「夜間司書の仕事は、ここに届いた忘れものを、持ち主に返すことです。ただし」
灯里の声が、少し重くなった。
「返せばいいわけではありません。返すことで、持ち主の今の生活を壊すこともある。返すべき時ではないものを、返すべきではない」
「どうやって判断するんですか」
「それが難しい。正解があるわけではないので」
灯里は棚の一段を、指先でそっとなぞった。触れているのは棚の木の部分で、並んでいるものには触れなかった。
「わたしに、できるでしょうか」
詩乃が言うと、灯里はこちらを見た。
「昨夜、扉を開けた。それは、この仕事に関われる人間だということを意味します。鍵もなく開けられたなら、なおさら」
「栞丸が言っていました。見える者にしか見えない、と」
「見えるだけでなく、声が聞こえますか」
「声、ですか」
「忘れものに触れた時、何か感じましたか。音や、温度や、言葉のような何かを」
詩乃は昨夜のことを思い出した。扉の取っ手に触れた瞬間、手のひらの奥にじわりとにじんだ、声に似た感覚。
「……触れた時に、何かが聞こえる気がしました。声、というより、感触に近い感じで」
「それでじゅうぶんです」
灯里はそう言ったあと、
「試してみますか」
棚の一段から、一冊の絵本を取り出した。
小さな絵本だった。ベージュの表紙に、夜空とくまの絵が描いてある。角が丸く、背表紙がほんの少しだけ色あせていた。何度も手に取られてきた本だ、と詩乃は思った。
「これが昨夜、新しく届きました」
灯里が詩乃に差し出す。
「触れてみてください。何が聞こえるか」
詩乃はゆっくりと、両手でその絵本を受け取った。
最初は何もなかった。ただの古い絵本だった。
けれど、数秒後。
声が、聞こえた。
女の人の声だった。おそらく三十代か四十代、そのくらいの、低くてやわらかい声。物語を読み上げている。くまが月を見つける場面。主人公のくまが、月に向かって「おやすみ」と言う場面。その声は図書館の地下室には似合わないほど、日当たりのいい部屋の声だった。そばに小さな子どもがいる。息遣いが聞こえる。
詩乃は目を閉じた。
声は続いた。読み終えて、本を閉じる音。それから、子どもが言う。「もう一回」。そして女の人が笑う声。
詩乃は絵本を、そっと胸元で持ち直した。
「……お母さんの声が聞こえました」
目を開けると、灯里がこちらを見ていた。
「読み聞かせをしている。温かい部屋で、小さな子どもに」
「そうですか」
「この本の持ち主は、その子どもですか」
「おそらく。忘れもの図書室に届く忘れものは、その人自身が忘れていることが多い。でも、忘れているからといって、いらなくなったわけではない。どこかに置いてきただけで、その人の中にまだある」
詩乃はもう一度、絵本の表紙を見た。夜空と、くまと、月。
「この本の持ち主を、知っていますか」
「心当たりがあります」
灯里は言いにくそうに、少し間を置いた。
「三枝陽人。小学五年生の男の子です。図書館によく来ますが、本が嫌いだと言っている」
「本が嫌いなのに、図書館に来るんですか」
「居場所として来ているのだと思います。読書感想文の宿題でも来る。ただ本は読まない。棚の前に立って、背表紙だけを見て帰る」
詩乃は少しだけ、胸のあたりが痛くなった。
棚の前に立って、背表紙だけ見て帰る。本当は手を伸ばしたいのに、何かが邪魔をしている、みたいな姿が目に浮かんだ。
「この絵本を、陽人くんに返せばいいんですか」
「返す、と一言で言うのは、少し違います」
灯里は詩乃から絵本をそっと受け取った。
「この絵本を直接渡しても、陽人くんには意味が伝わらない可能性がある。ただの古い本として受け取るかもしれない。あるいは、亡くなったお母さんの記憶を突然つきつけられることになる」
「……お母さんは」
「病気で亡くなっています。陽人くんが幼いころのことです。本人は、あまり覚えていない」
詩乃は黙った。
灯里が続けた。
「だから、慎重に考える必要がある。どう返せば、陽人くんの今を壊さずに届けられるか。それを考えてから、動くべきです」
「今すぐ返してはいけない、ということですか」
「今すぐ返すことの是非を、わたしはまだ判断できていません」
それは正直な言い方だった。灯里は正解を持っているわけではなく、ただ慎重なのだと詩乃には伝わった。
「わたしは……この本を、陽人くんに返した方がいいと思います」
詩乃は言った。
灯里が視線を向ける。
「根拠は」
「根拠は……うまく言えないんですが。声が聞こえた時、あたたかかったんです。怖い声じゃなかった。それはたぶん、この記憶がその子を傷つけるためのものじゃなくて、いつか届いてほしくて待っているものなんじゃないか、と思って」
言いながら、詩乃は少しだけ声が小さくなった。根拠になっていないかもしれない、と自分でも思う。
灯里は何も言わなかった。しばらく絵本を見つめていた。
「……今すぐ、という話ではありません」
灯里はようやくそう言った。
「どう返すか。どんな形にすれば、今の陽人くんが受け取れるか。それを考えてから」
「はい」
「倉橋さん」
「はい」
「あなたの言う『あたたかかった』は、判断としては甘い。けれど、感じ取る力は、夜間司書に必要なものです」
それが褒めているのか、注意しているのか、詩乃には判断できなかった。灯里の声は相変わらず温度が一定だった。ただ、一定の中に、何かが一瞬だけゆらいだような気がした。
そのとき、部屋の奥の棚から、小さな気配がした。
低い棚の上を、しおり色の影がすたすたと歩いてくる。
「堅物司書。この絵本、われにも少し嗅がせるのじゃ」
栞丸が灯里の手元に飛び乗った。灯里は特に驚く様子もなく、絵本を差し出す。よく知った仲らしかった。
栞丸は鼻を絵本の表紙に近づけ、長い時間、においを嗅いだ。
それから、くしゃみをした。小さな、ぷしゅ、というくしゃみだった。
「持ち主が近い」
栞丸がぽつりと言った。
「明日か、明後日か。その子は図書館に来るのじゃ。持ち主の匂いが、この絵本には強く残っておる」
詩乃は栞丸を見た。栞丸は絵本から鼻を離して、今度は詩乃を見た。
「新米司書、急くでないぞ。急いだ返却は、たいてい余計な傷を作る」
「……分かりました」
「ただしの」
栞丸は一度、ぺたりと絵本の上に座った。
「この絵本の声は、泣いておらん。待っておるのじゃ。それはおぬしの感じた通りじゃ」
詩乃は少し、胸の詰まりが緩んだ。
灯里の方を見ると、灯里はもう棚に向き直っていた。絵本をそっと、元の段に戻す。
「今日はここまでです」
灯里が言った。
「返却の判断は、明後日までに考えます。倉橋さんも、考えておいてください。どんな形なら届けられるか」
「はい」
詩乃は頷いた。
部屋を出る前に、もう一度だけ絵本のある棚を見た。夜空とくまの表紙は、棚の中でひっそりと、何かを待っているように見えた。
地上に戻ると、図書館のLED照明が白く明るかった。
詩乃はカウンターに戻りながら、今日聞いたことを整理しようとした。
忘れもの図書室に届くのは、言葉や記憶。
それを持ち主に返すのが、夜間司書の仕事。
ただし返せばいいわけではない。
灯里の言葉は正しいと思う。慎重さにも、理由がある。
でも詩乃は、あの声を思い出すと、返したい、と思う。
あのあたたかい読み聞かせの声を、陽人くんに届けたい。届く形で。傷にならない形で。
どうすればいいか、まだ分からない。
でも考える、と詩乃は思った。
自分にできることを、ちゃんと考えてみる。
エプロンのポケットの中で、何かが動いた。
詩乃が手を入れると、しおり色の小さな体が、まるまって寝ていた。
「……栞丸、いつの間に。図書室を離れないんじゃなかったんですか」
「案内役は、見習いを放ってはおけぬのじゃ」
栞丸はそう言ったが、目は開けなかった。
詩乃はそっとポケットを閉じ、残りの閉館作業へ戻った。




