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忘れもの図書室の夜間司書  作者: 明石竜


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第一話 閉館後の声

 閉館後の図書館には、昼間よりもたくさんの声が残っている。

 ページをめくる音。椅子を引く音。小さな子どもが物語の続きをせがむ声。カウンターの前で「延長できますか」と聞いた人の、少しだけ困った声。

 それらは利用者が帰ったあとも、棚と棚のあいだに薄く積もっている気がした。

 倉橋詩乃は、返却カートを押しながら児童書コーナーの前で足を止めた。

 窓の外はもう暗い。ガラスに映った自分は、エプロンの名札だけが妙に新しく見える。 肩にかかるくらいの黒髪は、仕事中に邪魔にならないよう低い位置で結んでいた。丸みのある顔立ちは、二十三歳の実年齢より少し頼りなく見えることがある。今日もガラスの中の自分は、司書というより、まだ図書館に慣れていない利用者のようだった。

 町立日向坂図書館で働き始めて、今日で十日目。

 まだ館内のどの棚に何があるのか、完全には覚えられていない。けれど、閉館後の静けさだけは少し好きになっていた。

 昼間の図書館は、誰かのために開いている場所だ。

 夜の図書館は、誰にも見られないまま、今日一日をひっそりと片づけている場所に見えた。

 詩乃はカートの上から、背表紙に月の絵が描かれた絵本を手に取った。

 返却期限は昨日。

 少しだけ角が丸くなったその本には、何度も誰かの手に開かれたやわらかさがあった。

 子どものころ、詩乃もこんなふうに同じ本を何度も開いた。読むだけでは足りなくて読み終えたあと、自分でも続きを考えたことがある。

 けれどそのことは今、仕事中に思い出すほどのものではない。

「倉橋さん、児童書の返却が終わったら、地下書庫の箱もお願いします」

 カウンターの方から、瀬尾灯里の声がした。

 詩乃より二つ年上の正規司書で、いつも声の温度が一定の人だった。黒髪をきっちり後ろでまとめ、細いフレームの眼鏡をかけている。白いブラウスの袖口まで、折り目が乱れていない人だった。

 冷たいわけではない。ただ、図書館の空気に合わせて、声まできちんと整えているように聞こえる。

「はい。地下書庫ですね」

 詩乃は返事をして、絵本を棚に戻した。

 そのとき、本のあいだから、しおりが一枚落ちた。

 古びた紙のしおりだった。茶色く日に焼けて、端には細い房がついている。

 拾い上げようとした瞬間、房がぴくりと動いた。

 詩乃は手を止めた。

 見間違いだと思った。

 閉館後の図書館は、昼間の声が残っているだけで、何かが動く場所ではない。

 けれど、しおりの房はもう一度、今度ははっきりと揺れた。

 それから、小さなくしゃみが聞こえた。

「……誰?」

 詩乃の声は、自分でも情けないくらい小さかった。

 棚の奥で、古い紙の匂いがふわりと濃くなる。

 しおりは、詩乃の手の中で丸まった。

 細い房がしっぽのように伸び、茶色い紙がふくらみ、豆粒ほどの耳が二つ、ぴょこんと立つ。

 次の瞬間、手のひらの上に、しおり色をした小さなねずみが座っていた。

「ようやく見える者が来たか」

 ねずみは胸を張って、詩乃を見上げた。

「新米司書。地下へ行くなら、われを連れていくのじゃ」

 詩乃はしばらく、自分の手のひらを眺めた。

 ねずみは、たしかに手のひらの上にいた。小さく、丸く、目がつやつやしていた。ただし、その色は本の紙そのもので、背中のしっぽはどう見てもしおりの房だった。

「あの……」 

「なんじゃ」

「あなたは、どこから出てきたんですか」

「見ておったじゃろう。本のあいだから出てきたのじゃ」

「それは分かるんですけど」

 詩乃は一呼吸おいた。落ち着こうとした。働き始めて十日目の臨時職員が、閉館後の図書館でしゃべるねずみに出くわすのは、おそらく通常の業務外だ。

「あなたは……生き物ですか」

「失礼なことを聞くのう」

 ねずみはぷくりとほっぺたをふくらませた。

「われは栞丸。忘れもの図書室の由緒正しき案内役なのじゃ。しおりとねずみの、どちらでもある。生き物かどうかで言えば、図書館にある本がすべて生き物でないとは言い切れぬのと、同じような話じゃ」

「……なるほど」

 なるほど、と言ったけれど、あまりなるほどではなかった。

 栞丸は詩乃の手首をするりとのぼり、肩の上に陣取った。軽い。本のしおり一枚よりは重いかもしれないが、それくらいの重さだった。

「さあ行くのじゃ。新米司書。地下書庫へ」

「地下は確かに行かないといけないんですが」

「ならよい。案内してやろう」

 詩乃はもう一度、肩の上のねずみを見た。

 栞丸は小さな前足を組んで、まるでもともとそこに座っていたかのようにしていた。

 地下書庫への階段は、カウンターの奥の、鍵つきの扉の先にある。

 灯里から合鍵を渡されていた。詩乃はそれを使って扉を開け、薄暗い階段を下りた。

 湿気を含んだ空気が、一段下りるごとに増していく。古い紙と、かすかな埃と、もうひとつ、表現のしにくいにおいがした。

「ここは、いつも本を保管してるんですか」

 小声で尋ねた。なぜか小声を使いたくなった。

「書庫はそうじゃな。ただし、地下には書庫だけではない扉がある」

「扉?」

「見れば分かる。見える者にしか見えんが、新米司書はたぶん見える」

 階段の下に着いた。

 天井の照明が、かすかにちらついている。古い棚が二列あって、段ボール箱が積まれていた。整理待ちの資料だろう。詩乃は確認しに来た箱を探しながら、ゆっくりと書庫の奥まで歩いた。  

 棚の端に、扉があった。

 観音開きの、木でできた古い扉。鍵穴のかたちが変わっていて、鍵は見当たらない。表面には何も書かれていないが、取っ手の部分だけがきれいに磨かれている。何度も誰かに触られてきた光沢があった。

「……これ、地図にない扉ですよね」

「そうじゃな」

「灯里さんから聞いた書庫の案内に、この扉のことはありませんでした」

「当然じゃ。知っている者が少ない扉なのじゃから」

 詩乃は扉に近づき、取っ手に手を触れた。

 冷たかった。石のような、ひんやりとした感触だった。

 けれど触れた瞬間、手のひらの奥に何かがじわりとにじむ気がした。言葉にするなら、温度ではなく、誰かの声に似た感覚。

「……何か、聞こえる」

「それが分かるなら、開けられるじゃろう」

 栞丸の声は、今度だけは少し穏やかだった。

 扉は、鍵なしで開いた。

 押すのではなく、引くのでもなく、少しだけ声をかけるように触れると、観音開きの扉が音もなく手前に開いた。

 中は、書庫とは別の空間だった。

 天井が低く、壁のすべてに棚がある。棚の一段一段は、本棚と似ているが、並んでいるのは本ではなかった。

 ノート。絵葉書。古い帳面。折りたたまれた手紙。雑誌の切り抜き。絵本に挟まっていた栞の束。棚の奥の方には、詩乃には形のよく見えないもの――光に近い、かたちをもった何かが並んでいる棚もあった。

 それらが整然と、けれどどこか息をしているように、棚に収まっていた。

「ここが……」

「忘れもの図書室じゃ」

 栞丸が肩の上から言った。

「返却期限を過ぎた本ではない。人が、人生の途中に置き忘れてきた言葉や記憶が、ここに届く。そして、夜間司書がそれを持ち主に返す」

 詩乃は部屋の中央に立って、棚を見渡した。

 言葉や記憶、と言われても、目に見えているのはノートや手紙や小さな絵本だった。けれど、それが「忘れもの」と呼ばれると、なぜか納得できる気がした。モノとして届いているが、それぞれに誰かの声がにじんでいるように見えた。

「わたしが、返すんですか」

「新米司書が見習いとして関わることになる。決めるのはわれではなく、堅物司書じゃが」

「瀬尾さんが?」 

「あの方は、夜間司書の先輩じゃ。もっとも、このところは慎重になりすぎていて、手が止まっておるがの」

 栞丸はそこで少し声を落とした。

「この図書室には、返せないまま抱えておるものがある。そのせいで、棚も少しずつ重くなっている」

「棚が、重くなるとどうなるんですか」

「忘れものが、届きにくくなる。届いても、形を保てなくなることがある」

 栞丸は奥の棚を見た。

「忘れものは、消えるわけではない。ただ、誰にも見つけられない場所へ沈んでしまう。そうなると、返すこともできぬ」

 詩乃は棚の奥を見た。

 そこにあるはずのものが、少しずつ沈んでいく。

 詩乃は部屋の端に視線を移した。 

 一番奥の棚の、一番上の段。そこだけ、他の棚と少し空気が違う。モノが置かれているのか、それとも何かが欠けているのか、詩乃には判断できなかった。

「返せないまま、というのは」

「それはわれの口から言うことではない」

 栞丸はそう言い切って、詩乃の肩からするりと降りた。部屋の中の棚を、当然のように歩き回る。低い段の棚に前足をかけ、ひょいと一段のぼり、絵本の背表紙に鼻を近づけてにおいを嗅いだ。

「新米司書」

「はい」

「怖いか」

「……少しだけ、はい」

「正直でよろしい。ここは怖い場所ではないが、軽い場所でもない。誰かが人生のどこかに置き忘れてきたものを、扱う場所じゃ。返してよいものと、まだ待つべきものがある。それを間違えると、忘れものは傷になる」

 詩乃は棚を見渡した。

 ここにあるものは全部、誰かにとっての何かだ。言えなかった言葉。言ったつもりでいた言葉。忘れていたのか、忘れたふりをしていたのか、自分でも分からなくなった何か。

「わたし、返し方を間違えないでいられるか、自信がありません」

「最初から自信がある者の方が、間違える」

 栞丸は棚の上から詩乃を見下ろした。小さいくせに、目だけは妙に落ち着いていた。

「さ、戻るのじゃ。地上の仕事がまだある。われはここに残る」

「ここに残るんですか」

「ここがわれの住まいじゃ。案内役ゆえ、普段はここを離れぬ」

「……分かりました」

 詩乃は扉の方へ向き直った。

 部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。低い天井。棚の列。その一段一段に、誰かの言葉が息をしている。 

 それがここにあるということは、まだ誰かに届いていないということだ。

 忘れもの図書室を出ると、地下書庫のLED照明の白い光が目に沁みた。

 確認しに来た段ボール箱はすぐに見つかった。詩乃はリストと照合し、必要事項を書きとめた。手は動いているのに、頭はまだあの部屋の中にあるような気がした。

 階段を上がり、扉を閉めて鍵をかける。

 カウンターへ向かうと、灯里がまだ残業をしていた。LED照明の下で、資料の確認をしている。

「地下書庫、確認できました」

「お疲れ様です」

 灯里は顔を上げず、そう言った。

 詩乃は少し迷ってから、続けた。

「あの……地下に、変わった扉がありました。古い観音開きの」

 灯里の手が、止まった。

 ほんの一秒だった。それからまた動き始めたが、詩乃にはその一秒が見えた。

「倉橋さん」

 灯里がようやく顔を上げた。

 表情は変わっていない。それでも、声の温度がごくわずかだけ、変化していた。

「そこは、まだあなたが入っていい場所ではありません」

「……はい」

 詩乃はその言葉を聞いて、ゆっくりと頷いた。

 灯里はもう視線を書類に戻していた。詩乃もカートへ戻り、残りの返却作業を続けた。

 図書館の夜は静かだった。

 棚のあいだに積もった昼間の声は、少しずつ薄くなっていく。

 詩乃は本を棚に戻しながら、あの扉のことを思った。忘れもの図書室のこと。栞丸のこと。

 そして、灯里が言った「まだ」という言葉のこと。

 まだ、ということは、いつかはある、ということだ。

 詩乃は名札を指先でそっと触れた。エプロンに縫い付けられた、新しい白い名前。

 わたしは今日で十日目で、ここのことをまだ何も知らない。

 それでも、あの扉は開いた。

 触れたら、開いた。

 それはたぶん、偶然ではないのだと、詩乃には理由もなく、そう思えた。


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