第七話「生徒」
【私立成育学園高等学校・生徒指導および個別面談ケース記録】
対象:2年B組 男子生徒(17)
日付:6月4日
記録者:学年主任および生徒指導担当
【担任教諭による行動観察・所見】
正直に申し上げて、これを『問題行動』として報告すべきなのか、職員室でも意見が分かれています。
一ヶ月前までの彼は、成績も中位で、授業中に少し私語が目立ったり、休み時間には友人たちと廊下で騒いだりする、ごく一般的な、少し手のかかる生徒でした。
それがここ二週間ほどで、文字通り『激変』したんです。
授業中の私語は完全に消失。教科書を開き、前を向いて、微動だにせず板書をノートに写し続けています。以前所属していたサッカー部の友人グループから昼食に誘われても、穏やかに微笑んで首を振るだけで、最近は中庭の隅のベンチで、一人で静かに文庫本やスマートフォンを眺めて過ごすことが増えました。
特筆すべきは、定期考査の成績が学年上位10%にまで急上昇したことです。提出物の遅れもなくなり、遅刻や規律違反も一切ありません。
生活指導の観点から見れば、完全に『落ち着いた模範生徒』になったと言えます。ですが……彼と目を合わせるたび、私は形容しがたい薄気味悪さを感じるんです。怒っているわけでも、塞ぎ込んでいるわけでもない。ただ、人間らしい感情の起伏が、彼の内側から完全に消去されてしまったかのような、不気味な平穏があるんです。
【保護者記述面談記録(抜粋)】
面談者:対象生徒の母親
記録:カウンセリングルームにて実施
先生、私はむしろ安心しているんです。あの子、去年の冬くらいまでは本当に反抗期が酷くて。部屋のドアを大きな音を立てて閉めたり、「うるせえな!」って私に怒鳴り散らしたり、夜遅くまでスマホで誰かと通話してゲラゲラ笑ったり……本当に毎日がノイズの塊みたいで、私の頭がおかしくなりそうだったんです。
それが、ここ最近は本当に静かで。
学校から帰ってきたら、すぐに自分の部屋に入って、静かに勉強しているか、ベッドでスマホを見ているかなんです。夕食の時も、話しかければ「うん」って優しく微笑んで返事をしてくれる。あんなに乱暴だった子が、急に大人になって、反抗期が終わったんだなって。家族全員、本当にホッとしているんです……。
(面談室に、約四秒間の張り詰めた無音。時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く)
……でも、なんて言うんでしょう。たまに、怖いくらい静かなんです。
夜中、あの子の部屋の前を通ると、物音が一切しないんです。明かりはついているのに、寝返りを打つ音も、衣服が擦れる音も、スマートフォンの操作音すら聞こえない。まるで、部屋の中に誰もいないんじゃないかって、何度もドアを開けて確認したくなるくらい……。
あの子、本当に大丈夫なんですよね?
◇
彼の机の引き出しの奥から回収された、使い古された方眼ノートの断片。そこには、乱雑な落書きに混ざって、彼の精神が世界からの接続を拒絶していくグラデーションが、痛々しい筆跡で遺されていた。
【ノートの殴り書き断片】
通知って、小さい悲鳴みたいだ。
ポケットの中でスマホが震えるたびに、脳みそを細い針で直接突つかれるような気がする。ポップアップが光るたびに、誰かの感情や、誰かの都合が、私の服の袖を強く引っ張って、自分の場所に引きずり込もうとしてくる。
返事をしなきゃいけない。すぐに。そうしないと、繋がっていられないから。
でも、誰と? 何のために?
画面を裏返して、真っ暗にすると、頭の中の騒音が少しだけ静かになる。
静かな方が、ちゃんと考えられる。自分のことだけを、静かに、優しく、考えられる。
◇
警察の技術班が押収した、彼のスマートフォンのシステム設定ログには、彼が外部世界とのコードを一本ずつ、極めて意図的に切断していった執拗な足跡が残されていた。
【スマートフォン内・設定変更履歴】
6月1日 23:11──アプリごとの個別通知設定:全体の40%(主にゲーム、ニュースアプリ)を『非表示』に変更。
6月2日 18:45──SNSアプリ(X、Instagram)の『プッシュ通知』を完全OFF。
6月3日 14:22──主要メッセージアプリ(LINE)のすべてのグループチャットを『通知オフ・非表示』に設定。
6月4日 01:03──システム基本設定:すべての着信およびバイブレーションを『無音(完全サイレントモード)』へ移行。
【自宅学習机設置の音声教材用レコーダー・環境音解析】
(ブー、という微かな空調の駆動音。時折窓の外を通り過ぎる、遠いバイクの排気音)
(それ以外の、ペンを動かす音や、紙が擦れる音は一切存在しない)
◇
深夜2時。暗闇の中に、スマートフォンの画面が放つ、かすかな緑色の光だけが彼の顔を照らしていた。彼は耳にイヤホンを差し込み、あの『ダークグリーンのキャラクター』の自己啓発動画を、吸い込まれるように見つめている。
男子生徒:「……静かだ」
その声は、重荷をすべて下ろした旅人のように、深く、平坦に澄んでいた。
男子生徒:「やっと、頭の中が落ち着いた」
彼がスマートフォンの画面を伏せた瞬間、部屋を支配する闇は、完璧な『静寂』へと完成された。それは、孤立という恐怖ではなく、脳を侵食するノイズからの、至高の救済だった。




