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第六話「トレンド」

 6月21日。

 吉祥寺は、昼間だというのに薄暗かった。

 止まない雨が街の輪郭をぼかし、駅前の喧騒さえも水を通したように、どこか遠く、不明瞭に響く。

 

 久世は、サンロードの裏路地にある古い喫茶店の窓際で、黄ばんだ紙の資料を読み耽っていた。店内は焙煎された豆の香りと、湿った雨合羽の匂いが混じり合い、低い音量で流れるジャズが、思考を深く沈み込ませる。

 

 向かいでは、篠崎ミナがノートPCの青白い光に照らされていた。

 彼女はイヤホンを片耳だけ外し、指先でトラックパッドを弾くように操作している。画面には、夥しい数の動画のサムネイルが、まるで増殖する細胞のように並んでいた。

 

「先生」

 

 ミナの声は、いつもより少しだけ低かった。

 

「なんだ?」

 

「これ、多分もう『特定の動画一本』の話じゃないです。もっと、ずっと質の悪いことが起きてます」

 

 ミナがノートPCを回し、画面を久世に向けた。

 そこに並んでいるのは、TikTokやYouTubeショート、Instagramのリールといった、数十秒単位の短尺動画の群れだ。


・「人間関係を整理するべき理由なのだ」

・「優しい人ほど損をするのだ」

・「自分を守れるのは自分だけなのだ」

・「距離を置く勇気が人生を変えるのだ」

 

投稿者はバラバラ。アイコンも風景写真だったり、AI生成の美女だったり、あのダークグリーンの髪のキャラクターだったりと統一性がない。

 だが、そのすべてに共通する『何か』があった。


「全部同じに見えるな」

 

 久世が資料から目を離さずに言う。

 

「言ってること、ほぼ一緒なんです。フォントも、音楽の盛り上げ方も、結論の出し方も。……まるで、一つの大きな意志が、複数のアカウントを操って喋らせているみたいに」

 

 ミナは画面をスクロールし続ける。

 ハッシュタグには、自己肯定感を高めるための言葉が並んでいる。

 

 #人間関係整理 #自分を守る #もう我慢しない #自己決定

 

「今、これがいわゆる『トレンド』です。アルゴリズムが、精神的に弱っているユーザーや、仕事に疲れている層を正確に狙い撃ちして、この動画を流し続けてる」

 

 久世は懐から煙草を取り出しかけたが、レジ横の『禁煙』の札を見て、指先で箱を叩くだけに留めた。

 

「……アルゴリズム、か」

 

「一回でも最後まで見たら最後、おすすめ欄はこれ一色になります。逃げ場がないんです」

 

「お前は、それを最後まで見たのか?」

 

 一瞬の沈黙。雨音が窓を叩く音だけが大きくなった。

 

「……仕事ですから。深入りはしてません。でも……」

 

 ミナは言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 

【添付資料①:動画プラットフォーム分析ログ】

推薦アルゴリズムの遷移(再現データ)

1. 導入段階(共感):

「疲れる人との付き合い方」「あなたは悪くない」といった、傷ついた心に寄り添う内容。

2. 中期段階(選別):

「切るべき人の特徴」「優しさを捨てる勇気」など、能動的な拒絶を肯定し始める。

3. 最終段階(決定):

「もう決めているのだ」「迷う必要はない」。具体的な行動への背中押し。

 

【分析コメント】

 視聴が継続するにつれ、主語が『私たち』から『あなた』へ、そして『自分で決める』という強固な自意識へと誘導される。


 久世は手元の資料を閉じた。そこにはミナが集めた、類似する失踪案件の記事が並んでいる。

 

【記事資料①:WEBニュース抜粋】

【20代女性がマンションから失踪】

 友人によると、失踪前に「人間関係を整理する」という言葉を繰り返していた。部屋には荷物がそのまま残されており、自発的な失踪と見られている。


【記事資料②:週刊誌デジタル版】

【縁切り自己啓発の危険性】

 専門家は『孤立を加速させるアルゴリズムの罠』を指摘。SNSで『縁を切ること』が美徳として扱われ、若者が社会から自ら隔離されるケースが急増。


「……全部、同じテンプレートだな」

 

「最初は普通なんです。先生」

 

 ミナの声が、僅かに震えていた。

 

「『自分を大切にしよう』っていう、誰にでも言える正しいことから始まる。でも、それは入り口に過ぎない。奥に行けば行くほど、言葉のナイフが鋭くなっていく」

 

 ミナが再生した動画の一つ。

 無機質な合成音声が、楽しげなBGMに乗せてこう告げる。

 

『……その人、本当に必要なのだ? 答えはもう、分かってるはずなのだ』

 

 画面の下に流れるコメント欄には、

 

「ようやく楽になれた」

 

「今日、親との連絡先を消しました」

 

「選んだのは自分。後悔はない」

 

といった、『救済された人々』の言葉が、墓標のように並んでいた。

 

「……『切る』、か」

 

 久世が低くつぶやく。

 

「誰が最初にこの流れ(トレンド)を仕組んだのか、探っても探っても、元のアカウントはすでに消えてるんです。まるで、ウイルスをばら撒いただけの使い捨てのアカウントみたいに」

 

「……正しいからだろ?」

 

 久世が、ふと言った。

 

「え?」

 

「言っていること自体は、正しい。人間関係を整理し、自分を壊す相手から逃げる。それは生存戦略として間違っていない」

 

「でも先生、それじゃあ……」

 

「……距離を置くこと自体は合理的だ。だからこそ、誰も否定できない。否定できない正論は、時としてどんな暴力よりも確実に人を追い詰める」

 

 久世の横顔は、影になっていて読めない。

 ミナは、自分の背筋を冷たいものが這い上がるのを感じた。


 

【調査メモ(久世)】

 現段階で動画内容に違法性はない。

 だが、この『自己決定』という言葉の使い方は異常だ。

 人は『自分で決めた』と思った瞬間に、それが誰かに植え付けられた思想であることを忘れる。

 

 ターゲットは、社会的に孤立した人間ではない。

『周囲に気を遣いすぎる、真面目な人間』だ。



 喫茶店を出た二人は、駅前の雑踏に立っていた。

 雨は小降りになっていたが、湿った空気は肌にまとわりつく。

 ふと、ミナが駅ビルの大型ビジョンを見上げた。

 そこには、無音の広告が流れていた。色鮮やかなグラフィック。流れるようなアニメーション。

 

【ここからは】

【あなたが、自分で選ぶ】

 

 音声はない。ただ、白地に黒の文字だけが、雨の夜に明滅している。

 その文字の形が、あの動画のテロップと酷似していることに、ミナだけが気づいた。

 

 久世は少しだけ、そのビジョンの前で足を止めた。

 彼のガラケーがポケットの中で一度だけ震えたが、彼はそれを確認しようとはしなかった。

 

「先生、確認しないんですか?」

 

「……ああ」

 

 久世は何も言わず、雨の街へと歩き出した。

 その背中が、いつもより少しだけ遠く見えた。

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