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第四話「隣人」

【地域密着型情報掲示板『武蔵野ネット』・北町マンション住民専用スレッド】

アーカイブ回収日時:6月18日

特記事項:当該スレッドにおいて、特定の書き込みを行ったIPアドレスの所有者複数名が、現在すべて『連絡不能(行方不明)』となっている。



 梅雨の湿った空気が澱む夜、誰もが日常の些細な愚痴を吐き捨てるはずの匿名掲示板に、じわじわと、しかし確実に『冷たい狂気』が染み出し始めていた。

 

【スレッド名:『最近、このマンション変じゃない?』】

142:mia_27

303号室の人、また引っ越したのかな?

ここ二ヶ月くらいで、同じ階の人が三人、立て続けにいなくなってるんだけど。挨拶も何もないから、なんか不気味で。

 

143:rain03

夜逃げじゃない? 最近景気悪いし、家賃滞納とかよくある話でしょ。

 

144:mia_27

>>143

違うの。夜逃げなら家具とか持っていくじゃない? 荷物、全部部屋に残ったままなの。

郵便受けはチラシや新聞でパンパンに膨れ上がってて、駐輪場にはあの人のマウンテンバイクが置きっぱなし。誰も回収に来ない。

 

151:unknown

……それ、うちの階(5階)も同じです。

先週から隣の部屋の明かりがずっと消えたまま。

苦情を言うわけじゃないけど、みんな、急に、びっくりするくらい静かになる。


【行政回収資料:武蔵野警察署・市民相談受付記録(抜粋)】

相談日時:6月6日

相談者:三上 葵(24・会社員)

【相談内容】

「私が住んでいるマンションの住人が、次々と姿を消しています。最初は単なる引っ越しだと思っていましたが、誰も荷物を運び出していません。事件に巻き込まれたのではないかと思います。管理会社の人が部屋を確認したそうですが、争った形跡や血痕などは何一つなかったと言われました。むしろ、部屋の中が異様なほど綺麗に整理整頓されていたみたいで……。それが、逆に怖いんです。警察でも調べてもらえませんか?」

【担当署員のコメント】

「対象マンションにおける不審者の目撃情報、および強盗・暴行を示唆する通報は確認されず。成人の自主的失踪(家出、あるいは自発的な人間関係のリセット)の可能性が極めて高い。現時点での事件性はなしと判断し、何かあれば再度相談するように話す」



 彼女のスマートフォンのメモアプリには、周囲の『音』が削ぎ落とされていく恐怖が、微細な観察記録として遺されていた。

 

【個人メモアプリ同期ログ:所有者『三上 葵』】

6月1日

405号室の大学生、ここ数日見なくなった。いつも深夜まで友達とオンラインゲームで騒いでいてうるさかったのに、あの部屋から一切の物音が消えた。静かでいいはずなのに、耳が詰まったような変な感覚がする。

6月3日

302号室の主婦さんもいない。夕方になるといつも廊下まで聞こえていた、包丁がまな板を叩く音や、子供を叱るヒステリックな声が、まるごと消滅した。

6月5日

思い返せば、最近いなくなった人たち、みんな同じような「顔」をしていた気がする。

目の下に酷いクマを作って疲れ果てているのに、口元だけは、妙に穏やかに微笑んでいるような顔。まるで、ものすごく長い苦痛から解放されたような、笑顔。

6月6日

23時頃、仕事帰りのエレベーターで403号室の男の人と一緒になった。

彼、私の顔をじっと見つめて、ボソッと「通知を切って、静かな場所に行くと、本当に楽ですよ」って急に言ってきた。私が怯えて一歩下がると、彼はそれ以上何も言わず、ただ優しく笑っていた。あの目が、まだ頭の奥に焼き付いて離れない。


 

 エレベーターでの邂逅の直後、403号室の男性は、すでに人間の社会性を完全に脱ぎ捨てていた。


【マンション共用部・防犯カメラ映像解析】

 6月6日 23:48。

 403号室のドアが静かに開き、男性が廊下に現れる。

 服装はよれよれの部屋着。財布も、鍵も持っていない。ただ、右手にはスマートフォンを強く握りしめている。

 

 カメラが捉えた彼の表情は、生気を完全に失っていながらも、恍惚とした微笑みを浮かべていた。

 彼は目の前にあるエレベーターのボタンを押さず、まるで磁石に吸い寄せられるように、薄暗い非常階段の鉄扉を開けた。一歩、一歩、足音を立てないようにゆっくりと階段を降りていく。

 

 その途中、踊り場で彼は一度だけ立ち止まった。

 ゆっくりとスマートフォンを持ち上げ、その画面を見つめる。

 液晶から放たれる『深緑色の光』が、彼の青白い顔を、死人のように冷たく浮かび上がらせていた。

 防犯カメラに音声は記録されていない。しかし、解析により、彼の唇がかすかに、愛おしむように動いたことが判明している。

 

 彼はそのまま階段の闇の底へとフレームアウトし、二度と戻ってこなかった。


【三上 葵:私的録音データ(スマートフォンに遺されたボイスメモ)】

(ザ、ザサ……と、暗闇の中で彼女が布団を強く握りしめる擦れ音。怯えた、浅い呼吸音)

 

三上:「……最近、このマンション、どんどん音が減ってる。おかしいよ……」

 

(十秒間の、凍りつくような沈黙。遠くで、夜風が建物の隙間を吹き抜ける音だけが響く)

 

三上:「前は……前はもっと、生きてる生活音があったのに。テレビの音とか、隣の夫婦が喧嘩する声とか、赤ん坊の泣き声とか、笑い声とか……。あんなにうるさくて嫌だった音が、今は何ひとつ、聞こえない。コンクリートの箱の中に、私一人だけが取り残されてるみたい」

 

(ピン、という遠くのエレベーターの到着音。それが、静寂を切り裂くようにやけに大きく響く)

 

三上:「今は、何も聞こえない。……変なの。静かなのに、頭の中がずっとガンガン鳴ってる。落ち着かない。誰か、誰か喋ってよ……」


【東日本住宅管理・大井町支店 社内チャットログ】

社員A:「高陵北町マンションの404号室、今月の家賃引き落としが不能になってます。電話もメールも一切繋がりません」

社員B:「またかよ。今月だけでこれで四件目だぞ。どうなってんだあの物件」

社員A:「昨日、オーナー立ち会いのもとで室内を確認したんですけど、部屋の中、妙に整理整頓されてるんですよね。ゴミ一つ落ちてなくて、まるで最初から誰も住んでいなかったみたいに」

社員B:「まさか、自殺とか? 遺書とかはないのか?」

社員A:「遺書はなかったです。念のため、家族の方を呼んで確認してもらったんで、間違いないですね。ですが、一つ不可解な点がありまして……。実は、部屋に残されていたパソコンも、タブレットも、仕事用の携帯も……全部、電源は入っているのに、通知設定が『オフ』になっていたみたいなんです」

社員B:「マジかー。 やっぱ、心病んじゃった系かな?」

社員A:「可能性はありますね。それで、家族から警察に行方不明者届を出すと言っていました。ただ、今回みたいなケースは『一般家出人』と呼ばれていて、緊急性がないということで、警察も積極的には動かないらしいです」

社員B:「そうなんだ。それじゃあ、見つかる可能性は低そうだな」


【個人SNS投稿:@mia_room】

6月8日 02:14

「最近、私の住んでるマンションがおかしいの。住人が急にいなくなる。なのに、残された人たちも誰も騒がない。みんな、何かに納得したみたいに黙り込んでいく。怖くて、夜なのに廊下に出てみたら、どこの部屋も電気が消えていて、まるで行き止まりのない墓場みたいだった。誰か助けて」


【添付画像:深夜の共用廊下】

 淡い蛍光灯だけが点滅する、異常なほど長く続く暗い廊下。その最奥の闇に、人影のような、歪んだ黒い輪郭が映り込んでいる。

(※後の警察による画像解析:この黒い輪郭部分にのみ、地上波の地上デジタル放送が停波したときのような、激しい走査線ノイズの混入が確認された)


【その30分後に保存された、未送信のメモ断片】

 さっき、隣の部屋(303号室)から声がした。

 誰もいないはずの、荷物だけが残された無人の部屋なのに。

 

 女の子の声だった。

 「もう、無理しなくていいのだ」って。

 

 違う。耳を澄ませたら、これ、隣の部屋の壁の向こうから聞こえてるんじゃない。

 

 壁じゃなくて……私のスマホの中から、音が鳴ってないのに、私の頭の中に直接聞こえてくる。



 6月11日 03:17。

 マンションのエントランス前。防犯カメラの前に、三上葵がふらりと姿を現した。

 彼女は真夏の夜だというのに、靴も履かず、裸足のままコンクリートの上に立っていた。その胸には、スマートフォンの画面を内側に向けて、まるで壊れやすい宝物を抱くようにぎゅっと抱きしめている。

 

 彼女は、誰もいないはずの夜の道路の暗闇を、じっと見つめていた。三十秒間、呼吸すら止まっているかのように完全に静止する。

 やがて、彼女の頭が、視線の先の闇に向かって、誰かに呼ばれたかのようにゆっくりと、深くうなずいた。

 その表情には恐怖や焦燥は一切なく、ただ深海のような平穏だけが満ちていた。

 

 彼女はそのまま、ゆっくりとカメラの死角、暗黒の街へと歩き出した。

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