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第三話「依頼」

 20XX年6月18日。

 東京は、朝から厚い雨雲に覆われていた。

 

 吉祥寺駅北口。濡れたアスファルトを叩く雨音が、行き交う人々の足音をかき消している。メインストリートを外れ、路地裏へ入った先にある、築四十年は優に超えているであろう古い雑居ビル。

 

 エレベーターは『点検中』の黄色のテープが貼られたまま、三階で止まっている。湿気でカビ臭い階段を上った先、剥がれかけたテナント案内の一角に、色褪せたプレートが掲げられていた。

 

 『久世調査事務所』。

 依頼人の女——佐藤(仮名)は、冷えたドアノブの前で立ち止まった。

 震える指先を握り込み、一度、深く息を吐き出す。肺の奥まで湿った空気が入り込む。

 覚悟を決め、二回、控えめにノックした。

 

「……どうぞ、開いてます」

 

 中から聞こえたのは、平坦で若い女の声だった。

 

 室内は狭く、そして不健康なほどに静かだった。

 壁一面を埋め尽くす古いスチール製の書類棚。日光を遮るように積まれた段ボールの山。空中に舞う埃が、窓から差し込む僅かな灰色の日光に反射している。

 窓際のデスクでは、オーバーサイズのパーカーを着た小柄な女が、三枚のモニターに向かってキーボードを叩いていた。年齢の割に幼く見える顔立ちだが、その瞳には感情の起伏が見られない。

 

「依頼……ですよね?」

 

 助手のミナは、椅子をくるりと回しながら言った。

 

「あ……はい。予約していた者です」

 

「先生、依頼人が来ました。例の失踪の件の人です」

 

 ミナの声に応じるように、部屋の奥、山積みの資料の影から一人の男が姿を現した。

 寝癖のついた髪に、手入れのされていない無精髭。三十代半ばだろうか。着古したシャツの袖を捲り、ひどく眠そうな目で依頼人を見た。

 

「久世です」

 

 差し出された名刺には、飾り気のないフォントで名前だけが記されていた。

 『久世調査事務所 代表 久世 透』。

 依頼人は勧められるまま、合皮の剥げかけたパイプ椅子に腰を下ろした。膝の上でバッグを握りしめる拳が、白く強張っている。

 

「友人が……いなくなったんです。急に」

 

 久世は表情ひとつ変えず、デスクの隅にあった黒い灰皿に手を伸ばした。

 

「警察には?」

 

「相談しました。でも、二十歳を過ぎた大人の失踪ですし、書き置きのようなメモもあったから……事件性がないって。受理はしてくれましたけど、本格的に動いてはくれません」

 

「いなくなってから、どれくらい経ちますか?」

 

「今日で一週間です」

 

 久世は机の端にあった付箋を引き寄せ、愛用のボールペンを構えた。

 

「お名前は?」

 

三上みかみ あおいです」

 

 その名を口にした瞬間、ミナの指がピアノを弾くような速度で動き出した。

 

 事務所内に乾いた打鍵音だけが響く。

 

「……SNS、全アカウント沈黙してますね。Instagram、X、スレッズ。六月十日の深夜を境に更新停止。投稿の削除跡もあります」

 

「最後に会ったのはいつですか?」

 

 久世の低い声が、雨音の隙間に割り込む。

 

「六月八日、ちょうどいなくなる二日前です。ランチの約束をして。でも、その時から……なんか、変だったんです」

 

「具体的に、どう変だったんです? 服装とか、言動とか」

 

「言動です。……急に『人間関係を整理する』って言い始めて。最初は『断捨離にはまってるのかな』くらいに思ってたんですけど。でも、だんだん目が笑わなくなっていって……『疲れる人とは距離を置くべき』とか、『自分の人生の主導権を握る』とか。普段、そんな難しい言葉を使う子じゃなかったのに」

 

 久世の手が止まった。

 

「……自己啓発ですか」

 

「多分……でも、本を読んでるとかじゃなくて。動画です」

 

「動画?」

 

「ダークグリーンの髪のキャラの解説動画みたいなやつです。本人は『癒やされるし、すごく真理を突いてるんだ』って楽しそうにスマホを見せてきました」

 

 部屋の中が、ふっと冷えたような気がした。

 窓を打つ雨音が、急に激しさを増す。

 

 ミナが検索画面を久世の方に向けた。

 複数のモニターのうちの一枚に、ダークグリーンの髪のキャラクターが笑っているサムネイルが並ぶ。

 

『人間関係で消耗しない考え方3選なのだ』

 再生数:972,841回

 

「これです。この動画です」

 

 依頼人は画面を指さし、声を震わせた。

 

「これを見始めてから、彼女は変わってしまってて……」

 

 彼女はバッグから数枚のプリントを取り出した。

 

「これを見てください」

 

 それは、三上葵の部屋に残されていた日記のコピーだった。久世がそれを受け取り、ゆっくりとページをめくる。

 

『6月8日。変わらない人に時間を使いたくない。私はもう、搾取されない』

 

『6月9日。もう流されたくない。邪魔なものは、排除していい』

 

 そして、最後の一節。

 

『6月10日。ちゃんと選ばないといけない』

 

 ミナが横からそれを覗き込み、眉をひそめた。

 

「先生。これ、コメント欄にあった定型文と一致する箇所があります。……たかがネットの動画で、人が消えるなんて」

 

 久世は日記を閉じ、デスクの上に置いた。

 その指先が、最後の「選ばないといけない」という一文を軽く叩く。

 

「ただの動画じゃないよ、ミナ。……大事なのは『言葉』だ」

 

 久世の瞳が、初めて鋭い光を宿した。

 

「人間は、他人に強制された命令には反発する。だが、『自分の意志で考え、選んだ』と思い込まされた言葉には、絶対に逆らえない。これは一種の感染症みたいなものだ」

 

 雨音が激しく事務所を叩く。まるで外の世界が、この部屋の対話を拒絶しているかのように。


 

【調査資料:KJ-017追記】

調査依頼書(抜粋)

案件番号: KJ-017

依頼内容:失踪者『三上 葵』の所在調査

依頼者証言:

対象は失踪直前、特定の動画チャンネルを繰り返し視聴。

次第に周囲との接触を絶ち、動画内の言葉を多用するようになった。

 

【久世の調査メモ】

 対象者の言語体系が、短期間で動画内のフレーズに同化している。

 『消耗』という言葉をトリガーに、既存のコミュニティを破壊するプロセス。

 これは単なる自己啓発ではない。

 被験者を社会から孤立させ、特定の『流れ』へ誘導するシステムの一部である可能性がある。

 

【追記】

 調査中、ミナの端末にも同動画の広告が表示され始めた。

 クッキー情報は削除済みだが、不自然な追跡が続いている。

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