第二十八話「起源」
7月9日。
朝。吉祥寺の街は、泣き出しそうな鈍色の雲に低く抑え込まれていた。
事務所の空気は、湿気を帯びて重い。昨夜、ミナが強制的に電源を落として以来、二人の間にはまともな会話がなかった。
ミナは、充血した目でノートPCの画面をにらみ続けていた。
まぶたが重い。目の下には、一夜明けても消えない薄暗い隈が、疲弊の証として刻まれている。キーボードを叩く乾いた音だけが、今の彼女と現実を繋ぎ止める唯一の鎖だった。
久世は窓際で、モニターの光ではなく、黄ばんだ古い紙資料の束を読んでいた。
珍しく、あの『ダークグリーン』の少女の動画は開かれていない。だが、静かに資料をめくるその横顔からは、かつての鋭利な知性は影を潜め、どこか遠くの音を聴いているような、虚脱した平穏がにじみ出していた。
「……先生」
ミナの声は、湿った空気に吸い込まれるようにかすれた。
返事は、数秒遅れて届いた。
「……なんだ?」
声の主が、自分のよく知る『久世透』であることを、ミナは祈るような気持ちで確認する。
「動画の初出……追えそうです。あの動画が、どこで生まれたのか」
久世の手が、ピタリと止まった。
「……見つかったのか。あの『声』の源流が」
「完全じゃないですけど。アーカイブの底の方に、残骸が落ちていました」
ミナは震える手で画面を旋回させ、久世に見せた。
【添付資料①:アーカイブ検索ログ】
検索対象: 削除済み動画キャッシュ、魚拓サイト、短縮URLの遷移履歴
最古確認日時:3年前
最古タイトル:『無理しなくていいのだ』
画面に映し出されたのは、あまりにも簡素な、古い動画のキャプチャだった。
現在の過剰なまでの色彩や、神経を逆撫でするような編集技術はない。再生数もわずか二桁。どこにでもある、凡庸なメンタルケア動画のなり損ない。
「最初……本当に、普通なんです。どこにでもある、ありふれた『癒やし系』だったんです」
【添付資料②:初期動画書き起こし】
・「疲れた時は、ちゃんと休むのだ」
・「全部抱え込まなくていいのだ。肩の力を抜くのだ」
・「無理しすぎると壊れるのだ。たまには自分を甘やかすのだ」
「この頃は、今みたいな『断絶』を煽る感じじゃない。ただの、不器用な励ましに見えます」
「……それが、変化したというのか?」
「はい。何者かの手によって、少しずつ、確実に……」
ミナは別のウィンドウを展開した。それは、動画が『猛毒』へと進化していく過程を記録した、おぞましい系統図だった。
【添付資料③:動画フレーズの変遷比較】
初期:「休もう」
中期:「距離を置こう」
後期:「選ぼう」
末期:「捨てよう」
「誰が少しずつ、セリフを変えていった……というわけか」
久世が資料を握る力が、わずかに強まる。
「そうです」
ミナはキーボードを叩き、復元した編集ログの差分を表示させた。
【添付資料④:編集履歴断片(テキスト修正)】
「無理しなくていい」→「もう、無理しなくていい」
「距離を取るのも大切」→「距離を取るべきだ」
「一度考えてみて」→「君は、もう分かっているはずだ」
事務所から、音が消えた。
「……少しずつ、表現が強くなっているな。違和感が出ないギリギリのラインで、思考の『逃げ道』を塞いでいくように」
久世は資料を見つめたまま、独り言のようにつぶやいた。
「君は、もう分かっている」
その一節をなぞる久世の目が、一瞬、陶酔したように細められるのを、ミナは見逃さなかった。
「……先生」
「なんだ?」
「今……納得しかけましたよね。その言葉に」
久世は答えない。代わりに、ミナが提示した資料とは別の、古い掲示板のプリントアウトを引き寄せた。
【添付資料⑤:削除済み掲示板ログ『検証:この動画、誰が作ってる?』】
投稿01:「最初は普通のメンタルケアだった。救われた時期もあった」
投稿03:「同じ動画を何度も見返すと、内容が少しずつ変わっている気がする。気のせいか?」
投稿04:「最近、『選べ』って圧が強くなってないか? 怖いんだが」
投稿05:「でも……言ってることは間違ってないんだよな。実際、楽になったし」
「これなんです」
ミナの声が震える。
「みんな、『怖い』って言いながら、最後には納得してしまう。抗えない正論という重力に、自分から身を投げてしまうんです。そこが一番……一番危ないんです、先生」
久世は黙ったまま、最後に残された禁断のデータ──動画作成ソフトのプロジェクトログを読み進めた。
【添付資料⑥:動画編集ソフトログ(復元)】
プロジェクト名:manual_final
更新履歴:
Version 1:self_affirmation(自己肯定)
Version 3:self_defense(自己防衛)
Version 7:selection(選択)
Version 9:adapted(適合)
「……『適合』って、何なんですか。メンタルケアのゴールが、適合だなんて」
久世は、視線を資料から外さずに、ゆっくりと口を開いた。
「……完成、という意味だろう」
「完成?」
「迷わなくなることだ。自分を疑わず、ノイズを切り捨て、完全に一つの思想に適合する。それが、この動画の最終目的地だ」
ミナは、息を止めた。
今の言葉のイントネーション、言い回し。それは、昨夜ビデオの中で怪物が語っていた結論と、一字一句違わない。
「……先生、今の。動画と同じです」
沈黙が、重く、粘りつくように二人を包み込む。
久世は、憑き物が落ちたような、あるいは魂が抜けたような足取りで、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「人間という生き物は、決断できない時が一番苦しい。揺れている間が一番、心を削るんだ。……だから、『選べ』という言葉は、何よりも甘い救済になる。……そうだろう、ミナ」
その言葉を聞いたミナは確信した。
論理で防壁を築いていたはずの久世の精神は、もう、その論理そのものを乗っ取られている。
【添付資料⑦:非公開メモ(作成者不明・システムルートから発見)】
「重要なのは、強制ではない。対象が、『自らの意思で選んだ』と錯覚すること。選択したと確信した瞬間、対象の精神は自発的に進行を開始し、後退不能となる」
【添付資料⑧:復元フォルダ一覧】
/manual/
/selection/
/adapted/
/quiet/(※最終更新フォルダ)
◇
「……quiet」
ミナがその単語を読み上げた。
「静か、か……」
久世は、窓の外の灰色の空を見つめた。その瞳は、もうこの事務所の雑多な資料も、目の前の助手も捉えていないようだった。
「静かな方が、楽なんだろうな。……誰の声も、誰の視線も、届かない場所は」
ミナは、何も言えなかった。
目の前にいるのは、かつて共に戦った男の『抜け殻』のように見えた。
暗転したモニターの裏側で、少女がほくそ笑む気配がした。
【添付資料⑨:復元テキスト断片】
「次は、あなたが選ぶ」




