第二十七話「終電」
【東日本旅客鉄道株式会社・施設内異常事態事後報告書】
発生日時:7月7日 00:51〜03:17
発生場所:JR中央線 某駅 3番線ホーム(高架階)
事象概要:営業終了(終電発車)後における、特定旅客の居残り。
深夜の中央線。すべての喧騒が鉄路の彼方へと吸い込まれた後、凍りついた熱気のなかに『彼』は残されていた。
【当直駅員へのヒアリング記録(午前4時10分回収)】
「本当に、最初はよくある泥酔客だと思ったんです。ベンチの端で頭を垂れて、スマホをいじったまま動かない奴なんて、毎日のように見ますから。金曜の夜ですしね。でも、ホームの消灯作業を始めるために近づいていって、声をかけようとした瞬間、全身の毛穴が逆立つような感覚がしたんです。その人、寝てなんていませんでした。完全に覚醒しているんです。瞬きもせず、ただ手元のスマホの画面を凝視している。その画面から漏れる青白い光が、彼の顔の凹凸を骸骨みたいに不気味に浮かび上がらせていました。周囲はもう、電車の風圧も、乗客の足音も、何もないただの巨大なコンクリートの空洞です。なのに、その男はまるで、そこが世界で一番心地いい特等席であるかのように、深く、深くベンチに腰を沈めていたんです」
鉄のレールが冷えていく夜の底。定点カメラは、一人の人間が『帰るべき日常』を静かに破棄していく瞬間をとらえていた。
【ホーム設置防犯カメラ映像ログ(アングル:高尾方面最端部)】
00:51──
下り最終列車を待つ僅かな乗客のなかに、対象者(20代後半とみられるスーツ姿の男性)を確認。男性は激しく点滅するスマートフォンを凝視している。画面の反射から、夥しい数のメッセージ通知が絶え間なく彼を襲っていることが推察される。
01:03──
当駅止まりの最終列車が発車。乗客は全員改札階へと移動し、ホームの照明が半分以上減光される。
しかし、男性は立ち上がらない。帰路につこうとする素振りを一切見せず、ただ冷え切ったベンチに根を張ったように座り続けている。
01:44──
異変を察知した当直駅員がホームに登り、男性に接近。懐中電灯の光が男性の足元を照らす。
【音声復元・駅員携帯無線機からの漏洩音】
駅員:「お客さん、もう終電終わってますよ。シャッター閉めちゃうんで、下りてもらえますか」
(数秒の、粘りつくような無音。遠くの幹線道路を走るトラックの音だけが響く)
男性:「……知ってます」
駅員:「知ってるって……帰らないんですか? タクシー乗るならロータリーに──」
男性:「ここ、静かなので」
男性の声には、狂乱も、怒りも、怯えもなかった。ただ、あまりにも透き通った、完全な『納得』だけがそこにあった。駅員はその異様な気配に圧され、応援を呼ぶために一度インターホンへと引き返した。
【追加監視記録・タイムライン】
02:12──
一人残された男性は、ゆっくりとした動作で両耳に白いワイヤレスイヤホンを装着。スマートフォンの画面をタップし、例の『ダークグリーンの髪の少女』の動画を再生する。
ホームの遮音壁に反射し、音漏れした音声が静粛を破る。
『……もう、無理して繋がらなくていいのだ。あなたの世界の音量を、ゼロにするのだ……』
02:44──
動画の再生が終了した瞬間。男性はスマートフォンの電源ボタンを長押しし、その機能を完全にシャットダウンした。
彼は、誰もいない、何も走ってこない暗黒の線路を見渡した。そして、肺の底から、長年溜め込んでいた泥を吐き出すように、深く、深く息を吐いた。
その顔に浮かんだのは、不気味なほど綺麗な笑顔だった。
03:11──
突如、防犯カメラの映像に激しい砂嵐が発生。持続時間、約4秒。
03:12──
映像が復旧。
──ベンチには、誰もいなかった。
【現場遺留品の写真データおよび解析ログ】
男性が座っていたベンチの上には、綺麗に整頓された状態で、彼の『人生』の残骸が遺されていた。
・遺留品一覧: 本革の財布、通勤定期券、モバイルバッテリー、ビジネスバッグ。
・スマートフォン: ベンチの真ん中に、液晶を上にして直に置かれていた。




