第二十四話「境界」
7月7日。
午前一時。七夕の夜だというのに、吉祥寺の空には星一つなく、ただ重苦しい雨雲が街の熱気を押し潰していた。
窓ガラスを激しく叩く雨粒の音だけが、墓場のような静寂に包まれた事務所内に、不規則なビートを刻んでいる。
ミナは、指先の感覚を失うほど強く握りしめていたノートPCを、ようやく閉じた。
机の上には、もはや整理する気力も失せるほどに、夥しい数のDMログのプリントアウトが散乱している。
赤線。付箋。殴り書きのメモ。
「選ぶ」
「整理」
「静か」
「迷わない」
どのログを辿っても、どの失踪者の言葉を拾っても、同じ単語が呪文のように繰り返されている。
「……全部、同じ」
ミナは、乾いた喉の奥で呟いた。
久世は、開け放たれた窓際で煙草を燻らせていた。
網戸を抜けて入り込む湿った夜風が、灰皿から立ち上る煙を無慈悲にかき乱す。その背中は、かつてないほど遠く、そして堅固な壁のように見えた。
「先生」
ミナが呼びかけるが、返事はない。ただ、煙草を吸う音だけが聞こえる。
「……最近、先生も『静か』って言葉をよく使いますよね。それも、どこか嬉しそうに」
「悪いか」
久世がようやく口を開いた。その声は、雨音に溶けてしまいそうなほど平坦で、温度がなかった。
「そういう話じゃないんです。……先生、変わりましたよ。明らかに」
久世は振り返らない。ただ、暗闇の中で煙を吐き出す。
「人は変わる生き物だ。状況が変われば、思考も、言葉も、最適化される。それだけのことだろ」
「また、それ……。最適化とか、合理的とか。前は違ったじゃないですか!」
ミナは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「前は、もっと世界を疑ってました。どんな正論の裏にも、ドロドロした悪意があるんじゃないかって、食らいつくように調べてた。なのに、今は……」
ミナは机の上の資料を掴み、久世の背中に突きつけた。
【添付資料①:久世による調査メモの変遷】
初期(6月10日):「現時点で危険性は不明。扇動の意図があるか注視が必要」
中期(6月25日):「現代社会の疲弊に対する合理的な側面あり。一概に否定はできない」
現在(7月7日):「内容は極めて妥当。問題は動画ではなく、受け手側の脆弱性にある。言っていること自体は、正しい」
「……変わってるじゃないですか。骨抜きにされてるじゃないですか!」
「現実を見ただけだ、ミナ」
「違う! 先生は、あの動画の『声』に、自分の言葉を乗っ取られてるだけだ!」
ミナは、これまでの恐怖と怒りを叩きつけるように、資料を机に叩きつけた。
「みんな、同じ言葉を使ってる。三上葵も、名前も知らない失踪者たちも、そして先生も! 『自分で決めた』『迷わない』『静かになった』……。これ、本当に先生が、自分の頭で、自分の心で考えた言葉なんですか!?」
久世は、しばらく沈黙していた。
雨音が、その沈黙をじわじわと侵食していく。
やがて、彼はゆっくりと振り返った。逆光の中に浮かび上がる久世の瞳は、底知れない沼のように暗い。
「……じゃあ、お前はどうなんだ?」
「え?」
「お前も、言っていたじゃないか。『怖い』と言いながら、あの動画を拡散し、自分のフォロワーに存在を教えた。DMを返し、不安に怯える連中に『大丈夫』だと背中を押した。……お前が一番、あの『流れ』を加速させたんじゃないのか?」
ミナは、心臓を直接掴まれたような感覚に襲われ、固まった。
その瞬間、スマートフォンの通知がまた震えた。
【添付資料②:篠崎ミナ 宛てのDM受信ログ】
・「ミナさんの投稿を見て、決心がつきました。ありがとうございます」
・「通知を全部切りました。ようやく、先生の言っていた『静寂』の意味がわかりました」
「私は……そんなつもりじゃ……。私は、止めようとして……」
「だが、止まってはいない」
久世の声が、一歩ずつミナを追い詰める。
「結局な、ミナ。みんな『許可』が欲しいんだ。自分を縛っている重たい鎖を切ってもいいんだという、免罪符が。……離れていい。切っていい。自分を最優先にしても、お前は悪くない。そう誰かに、肯定してほしいんだ」
ミナは、後ずさりした。
目の前にいる男の口調。言葉の選び方。そして、相手の罪悪感を巧みに突く論理。
それは、あの『ダークグリーン』のキャラクターが動画の中で語っていたものと、不気味なほどに重なっていた。
「……先生、動画を見すぎです。もう、調査の域を超えてる」
「調査だ。構造を理解するには、内側から浸かる必要がある」
「もう、その言い訳はやめてください!」
ミナは、叫んでいた。
「先生は、納得し始めてる。あの動画の正論に、屈服し始めてる!」
「……納得して、何が悪い」
久世のその一言に、ミナの足元の床が抜け落ちたような錯覚がした。
「間違ったことは言っていない。人間関係で壊れる人間は実際に山ほどいる。距離を置いて、救われた人間もいる。それは事実だ」
「でも、そこから『人を捨てる』方向に進むのは、絶対におかしいです! 曖昧にしていい境界じゃない!」
「いいや、境界は常に曖昧だ」
「曖昧じゃない!」
ミナの叫びが、事務所の狭い空間を震わせた。
「人を捨てることを、『成長』なんて言葉で言い換えるのは詐欺です! 最初は『自分を大事に』だったのに、今は『邪魔な奴を切れ』に変わってる。先生も、それを肯定するんですか!?」
長い、長い沈黙が流れた。
久世は指先で短くなった煙草を灰皿に揉み消し、深く、重い溜息をついた。
「……じゃあ、全部抱えろと言うのか。お前は。……苦しくても、心が死ぬまで、泥沼のような関係を続けろと?」
「そうじゃなくて……!」
「じゃあ何だ。代案はあるのか?」
答えられなかった。
正論の刃は、あまりに鋭く、ミナの拙い反論をすべて切り裂いていく。
「人間はな、限界まで我慢する。だからこそ、『離れていい』という言葉に、魂が震えるほど救われるんだ。……問題は動画じゃない。みんな、最初から、そう思いたかったんだよ。あの動画は、背中を押したに過ぎない」
ミナは、猛烈な寒気を覚えた。
久世の言葉が、自分の中の『疲れ』に直接語りかけてくる。
「いいよ、もう。全部やめてもいいんだよ」と、囁かれている気がした。
【添付資料④:久世の直近24時間のブラウザ履歴】
視聴本数:43本
検索ワード:「孤立は悪か」「切るべき人の特徴」「通知遮断の効果」
ミナは、その異常な数字にめまいを感じた。
久世は、わずかに唇の端を吊り上げた。それは笑いというよりも、諦めに近い表情だった。
「人間は、情報を選んでいるつもりで、実際は選ばされている。……だが、それで楽になれるなら。静寂の中で、ようやく自分だけの呼吸ができるなら。……それの、何が問題なんだ?」
ミナは、確信した。
目の前に立っているこの男は、もう、半分『向こう側』にいる。
かつて共に悪意を暴いた相棒の影を借りた、別の何かになりかけている。
窓の外では、雨が激しさを増していた。
雨音に紛れて、どこか遠くで、あのキャラクターの快活な声が聞こえた気がした。
「ようこそ。もう、迷わなくていいのだ。静かな方へ。なのだ」




