第二十三話「病室」
【医療安全管理委員会・危険事象報告書】
提出先:都立墨西医療センター 院長宛
発生日時:7月5日 02:13〜06:00
対象患者:3階精神科閉鎖病棟 302号室入院中/女性(29歳)
主訴・診断名:重度の全般性不安障害、遷延性うつ病、およびそれに伴う頑固な慢性的睡眠障害。
◇
その夜、病棟は奇妙なほど張り詰めた空気に満ちていた。窓の外で時折明滅する高層ビルの航空障害灯だけが、生き物の脈拍のように赤く部屋を浸食している。
◇
【夜勤看護師による詳細経過記録】
7月4日 23:30(消灯後):
対象患者はベッド上で激しい不穏状態。頭を抱え、「頭のなかがうるさい」「誰かがずっと話しかけてくる」と涙を流して訴える。医師の指示に基づき、抗精神病薬および睡眠導入剤を頓服投与するも、効果は薄く、過呼吸気味に過覚醒状態が継続。
7月5日 02:13:
302号室のナースコールが点灯。夜勤看護師が訪室したところ、患者はベッドの真ん中で、まるで精巧な人形のように直立不動の姿勢で座っていた。先ほどまでの涙や過呼吸、怯えきった表情は完全に消失しており、その瞳は酷く冷たく、どんよりと濁っていた。
患者の第一発言は、きわめて平坦な、針のように細い声だった。
「……音を、止めてください」
看護師が問いただす。病室には、深夜の静寂以外の音は存在していないはずだった。
「音って、何の音? ナオさん」
患者はゆっくりと首を傾げ、天井の角、あるいは壁の向こうを指差した。
「全部です。そこら中で、何かがずっと、私を呼んで、急かしているの。……消してください」
【病室環境・バイタルセンサー稼働ログ】
患者の執拗な要求、および情緒の『異常な硬化』を危惧した看護師は、主治医の許可を得て、病室内の一切の稼働音を物理的に停止、または最小限に絞る処置を行った。
・心拍・呼吸モニター: アラーム警告音ミュート処理。
・輸液ポンプ(点滴): 終了予告通知音をカット。
・ナースステーション: インタホン転送音の音量をゼロへ変更。
機器が発していた微弱な高周波や、機械的な駆動音が完全に途絶えた瞬間、病室はまるで底のない泥の沼に沈んだかのような、不気味な無音に包まれた。
看護師の目から見ても、その瞬間の患者の変化は戦慄を覚えるものだった。
それまでびっしりと肌を覆っていた脂汗が引き、こわばっていた肩の筋肉が、まるで肉の塊が弛緩するようにストンと落ちた。
「……静か」
患者は唇の端をわずかに吊り上げ、誰もいない暗闇に向かって、陶酔したように呟いた。
「これで、ようやく、ちゃんと考えられる。もう、誰にも邪魔されない」
看護師は彼女の表情に、長年精神科に勤務していても見たことのない、根源的な『狂気』の兆候を嗅ぎ取り、背筋に冷水を浴びせられたような悪寒を覚えた。それは回復した人間の安らぎではない。完全に精神の電源を落とした、死体の静けさだった。
【病室監視映像(赤外線暗視カメラ)詳細解析】
03:11──
患者は唐突にベッドから起床すると、自身の左腕に刺さっていた点滴の針を、躊躇なく、素手で一気に引き抜いた。
逆流した暗い血がシーツに点々と滴り落ちるが、患者は自らの肉体の損傷に一瞥もくれない。痛覚そのものが摩耗し、消失しているかのようだった。
しかし、そこから外へ逃亡しようとする意志や焦燥は、彼女の動きからは一切感じられない。
03:13──
患者はふらつく足取りで窓際へと移動。外の夜景──無数の窓の明かり、街灯、遠くを走る車のヘッドライトがうごめく、過剰な情報量の街をじっと見つめる。
そこから、彼女は『18分間』、瞬きすら忘れたかのように、指先一つ、髪の毛一筋すら動かさずに完全静止した。カメラの故障を疑うほどの、生物としての連続性を否定された異様な静止だった。
【音声復元・指向性マイクによる収音データ】
(遠くの道路を走る深夜トラックの、微かなロードノイズ)
(患者の、浅く、温度の低い呼吸音)
患者:「……きれい。あんなに、たくさん点いているのに」
患者:「誰も……もう、私を呼んでこない。誰も、私に言葉を求めてこない」
患者: 「静か。本当に……静か」
その声は、深淵の底から響くように澄み切っており、同時に、人間の血の通った感情がすべて消された、ぞっとするほどの虚無に満ちていた。
【午前06:00:朝の検温時の記録】
夜が明け、病棟に朝の光が差し込んだ頃、看護師が302号室の扉を開けた。
病室は、もぬけの殻だった。
ベッドのシーツには、深夜に点滴を引き抜いた際の赤黒い血痕が、乾いた花の模様のように虚しく残されている。
ただ一つ、ベッドの脇、サイドテーブルの上に、一冊の小さなメモ帳が残されていた。
そこには、鉛筆の芯が押し潰されるほどの凄まじい筆圧で、一言だけ、殴り書きにされていた。
『生きるって、こんなにうるさかったんだ』
その文字の周りには、何度も何度もペンを往復させたような黒い跡が残っており、彼女がその『正論』にいかに深く納得し、狂信していったかを無言で物語っていた。




