第二十話「拡散者」
7月5日。
午後。吉祥寺の街は、前日までの長雨が嘘のように珍しく晴れ渡っていた。
しかし、洗い流されたはずのアスファルトからは、じっとりとした不快な熱気が這い上がり、街全体をどんよりと包み込んでいる。
久世調査事務所の窓からは、傾きかけた西日の遮光がナイフのように鋭く差し込み、室内の埃を白くきらつかせていた。古びたブラインドの隙間から差し込むオレンジ色の光は、部屋を暖めるどころか、かえって不気味な陰影を作り出している。
ミナは事務机に突っ伏したまま、文字通り身動きが取れなくなっていた。
デスクの木肌に直に置かれたスマートフォンのバイブレーションが、短い周期で「ヴー……ヴー……」と文字通り絶え間なく鳴り響き、その微弱な振動が机を通じてミナの骨にまで伝わってくる。それはまるで、自らの皮膚の下を無数の虫が這い回っているかのような、生理的な嫌悪感を伴う振動だった。
「壊れるぞ、それ」
対面のデスクで、うずたかく積まれた過去の失踪者の紙資料を捲っていた久世が、視線を上げずに低くつぶやいた。
「もう、壊れてます。スマホも……私の心も。……手遅れなんで、いいんです」
ミナは声のトナーを完全に枯らせたまま、顔も上げずに答えた。
久世がようやく、カサリと紙をまくる手を止め、眼鏡の奥の鋭い目をミナに向けた。
「何があった?」
ミナは鉛のように重い腕を動かし、画面のバックライトが狂ったように明滅するスマートフォンを、投げるようにして久世の前に滑らせた。液晶画面に映し出されていたのは、彼女自身のSNSアカウントが、見たこともない桁の数字で埋め尽くされている光景だった。
【添付資料①:篠崎ミナ 投稿アナリティクス解析】
対象ポスト:「最近こういう動画よく見るけど、ちょっと怖い。みんな、大丈夫?」(※7月2日投稿)
インプレッション(表示回数):4,872,103回
リポスト:81,492件
引用リポスト:27,110件
エンゲージメント率:異常高値を記録。特定のクラスタ(20〜30代の都市部在住者)へ集中拡散。
「ずいぶんと伸びたな」
久世の声は、どこか他人事のように平坦だった。
「そんなレベルじゃないです!」
ミナはたまらず顔を上げ、すがるように久世を見た。
「最初はただの注意喚起だったんです。『こんな不気味な動画が流行ってるから気をつけよう』って、ただそれだけだったのに。通知欄を見てください。誰も私の『怖い』っていう言葉を聞いてない」
画面をスクロールするたび、網膜を焼き切るような速度で新しいコメントが下から上へと湧き上がってくる。そのどれもが、ミナの意図を完全に無視し、歪んだ熱狂をはらんでいた。
【添付資料②:リプライおよび引用コメントの抽出】
「この動画の存在を教えてくれてありがとう。本当に救われました」
「怖がってる人いるけど、言ってることは100%正しいよね。もっと広まるべき」
「否定してる人って、他人に依存しないと生きていけない側の人でしょ? 可哀想」
「私もこれを見て通知を全部切りました。ようやく、楽になれた気がします」
「今までいかに自分が他人に流されていたか分かった。自分の意志で関係を整理します」
「私、別にこれを広めるつもりなんて……あいつらの手助けをするつもりなんて、一ミリもなかったのに……」
ミナの指先が、恐怖で細かく震えていた。自分の放った些細な一言が、怪物を育てるための巨大な餌袋になってしまったのだ。
「お前の意図に関わらず、結果的に広がった。情報はそういうものだ。器が大きければ、注がれる水も多くなる」
「先生……」
「ネットというインフラの上では、感情の質は関係ない。恐怖だろうが共感だろうが、強い感情は等しく『拡散』というエネルギーに変換されるだけだ」
久世の冷徹な言葉に、ミナは反論する言葉を失い、唇を噛み締めた。
再び画面に視線を落とす。二次災害はすでに始まっていた。ミナの投稿を引用した切り抜き動画、インフルエンサーによる解説動画、まとめサイト。それらが細胞分裂のように増殖し、さらに深い場所へと『動画』を浸透させていく。
【添付資料③:二次拡散コンテンツの観測記録】
YouTube動画タイトル:『【警告】今、ネットで話題の人間関係整理動画が怖すぎる件について考察してみた』
再生回数:1,920,411回(投稿から18時間)
ナレーション書き起こし:
「……一見、よくあるダークグリーンのキャラを使った癒やし系動画なんですけど、後半の展開がちょっと変なんですよね。でも、不思議と最後まで見ちゃうっていうか、頭に残るんですよ」
【視聴者コメント欄】
「怖いけど、言ってることはめちゃくちゃ合理的」
「『静かな方が楽』って、現代人の真理だと思う」
◇
「……変なんです」
ミナがかすれた声でつぶやく。
「みんな、口を揃えて『怖い、不気味だ』って言いながら、誰も再生を止めない。怖いって言いながら、食い入るように見続けて、最後には納得してる」
「人間は、本能的に不安なものほど確認したがる生き物だ。毒だと分かっていても、それが自分に効くかどうかを確かめずにはいられない」
「……先生。最近、そういう他人事みたいな、突き放した言い方増えましたよね」
ミナの指摘に、久世は答えなかった。
その代わり、彼は自分のデスクの上に広げられた失踪者たちの資料を、ただじっと見つめていた。その視線の先にあるのは、三上葵が残したメモの写し──。「ようやく楽になった」という、あの歪な手書きの文字だった。
久世は、その文字の筆跡をなぞるように、無意識に指先を動かしている。その目は、何か深淵を覗き込んでいるかのように、酷く遠くを向いていた。
「先生」
「なんだ?」
「……その言葉、最近の動画でも、ネットの書き込みでも、そればかりですよね」
「だから何だ?」
「先生も……ちょっと、納得し始めてません? あの動画の言ってることに」
事務所の空気が、ピキリと凍りついたように止まった。
西日のオレンジ色が、久世の顔の半分を濃い影で覆い隠す。
「……合理的な部分はある」
久世は、静かに、しかし明確に言った。
「またそれ……!」
「事実を言っているだけだ。人間関係の過剰な連結によって摩耗し、精神を損なう人間は現代社会において飽和している。そこから距離を置き、自らを守るために『遮断』を選択すること自体は、生存戦略として何ら間違いではない」
「でも、あの動画の終着点はそこじゃない! 『自分を守る』から、最後は『いらない奴を切り捨てる』っていう、冷酷な選別に行き着いてる。先生、それはもうただの孤立ですよ!」
「区別は曖昧だ」
「曖昧じゃないです!」
ミナの悲鳴のような叫びに、久世は初めて、明確な不快感をその顔に浮かべた。眉間を険しく寄せ、手に持っていたペンをデスクに強く叩きつける。硬いプラスチックの音が、静かな室内に銃声のように響いた。
「じゃあ、どうしろと言うんだ!」
「え……」
久世の、これまでに聞いたこともないような剥き出しの苛立ちに、ミナは言葉を詰まらせた。
「全てのノイズを、全ての他者を、壊れるまで抱え込み続けろとでも言うのか? 画面の向こうで今も通知の音に怯え、精神をすり潰している人間に、『それでも我慢して繋がっていろ』と強いるのがお前の言う正義か?」
「そうじゃなくて……私は……」
「違うだろ?」
久世の声が、急激に元の温度へと戻っていく。それは、怒りが引いたからではない。完全に『冷徹な論理』として固定されてしまったからだ。
「これは、『許可』なんだ」
「許可……」
「誰もが、誰かに言われたかったんだ。『もう我慢しなくていい、すべてを捨てて、静かな場所へ逃げていい』と。あのダークグリーンの髪の少女は、その強烈な免罪符を、彼らに与えている。だから広がる。止められるはずがない」
ミナは、目の前にいる男の顔を、戦慄を覚えながら見つめていた。
久世透という探偵の皮を被った、何か別の、もっと冷たくて巨大なシステムが、彼の口を借りて喋っているような──そんな錯覚が、彼女の脊髄を駆け上がった。
【添付資料④:篠崎ミナ 個人DM受信ログ(一部抜粋)】
「ミナさんの投稿を見て、あの動画を知りました。ずっと人間関係に悩んでいましたが、背中を押されました。もう逃げずに、ちゃんと『選ぶ』ことにします。ありがとうございました」
「今日、親友の連絡先を消しました。驚くほど頭の中が静かです。きっかけをくれたミナさんに感謝します。楽になりました」
◇
「……これ、私のせいなんですかね。私が拡散の引き金を引いたから、この人たちは消えちゃうんですか?」
ミナの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、デスクの上のスマートフォンを濡らした。
「違う」
久世は、短く、そして拒絶するように強く言った。
「人間は、自分が最初から納得している言葉しか受け入れない。お前の投稿は、彼らの心の中に元からあった『引き金』に、ただ指を触れさせただけに過ぎない」
言葉を交わす間にも、スマートフォンの画面は明滅を止めない。ハッシュタグのトレンドは、もはや一つの思想のようにネットを支配し始めていた。
【添付資料⑤:SNSトレンド急上昇データ(18:00時点)】
#流されない(前日比:+412%)
#自分で決める(前日比:**+917%**)
#通知切った(前日比:+520%)
#ようやく楽になった(前日比:+680%)
「……異常ですよ。みんな、同じ言葉で、自分の殻にこもっていく。まるで、一つの大きな生き物みたいに……」
「そうか? 人間が、自らにとって『正しい』と思う選択をし、それを同胞に広めているだけだ。至極当然の行動パターンだろう」
ミナの皮膚に、粟立つような激しい寒気が走った。
『正しい』。
最近の久世は、事件の解明や真相の究明ではなく、その『正しさ』という言葉ばかりを口にする。彼の天秤は、もう完全に傾いていた。
【添付資料⑥:ショート動画プラットフォームにおけるハッシュタグ生成数】
関連ワード:『もう我慢しない』『流される人生は終わり』『あなたは間違ってない』
新規投稿数(過去72時間):12,481件(指数関数的に増加中)
夜。
太陽が沈み、西日の狂気から解放された事務所は、深い闇と、青白い電子の光だけに照らされていた。
ミナは帰る気力すら失い、ソファの隅に丸くなって、ぼんやりとスマートフォンの画面を眺めていた。
通知欄、DM、コメント。
そこにあるのは、罵詈雑言ではない。
純粋な共感。
心からの感謝。
そして、救済の報告。
それらが、泥のように彼女の精神にこびりついていく。私も『正しい』ことをしたのだろうか。この人たちを『楽』にしてあげられたのだろうか。そんな危険な思考が、脳裏を過り始めた、その時だった。
画面が不意に暗転し、一つの新しいメッセージがポップアップした。
それは、数千、数万と届いたどの言葉よりも短く、そして鋭利だった。
『次は、誰を切る?』
ミナは、肺の空気をすべて吐き出すように息を止めた。
心臓が破裂しそうなほどの音を立てて波打つ。震える指先でメッセージをタップし、送信者のプロフィール画面を開こうとした。
【エラー:このアカウントは存在しません】
アカウントは既に削除されていた。
しかし、チャット画面の末尾には、血のついた足跡のように、冷厳な二文字がしっかりと刻まれていた。
──既読。
ミナが読むよりも早く、その画面の向こう側の何かは、彼女の『内側』を覗き込んでいた。
暗転したスマートフォンの液晶画面に、恐怖で引き攣った自分の顔と、その後ろの暗闇で、一言も発さずにじっと手元の資料を見つめ続けている久世の横顔が、逃げ場のない現実として深く、深く、映り込んでいた。




