第十九話「未読」
【警視庁武蔵野警察署・生活安全課臨場記録】
事案発生日:7月11日
臨場場所:武蔵野市御殿山 賃貸マンション「エルミタージュ吉祥寺」302号室
対象者:26歳 女性(都内法律事務所・事務員)
事由:マンション管理会社および実母からの「一週間以上にわたる連絡不通、および生活反応消失」に伴う安否確認。
真夏の熱気がコンクリートを焼く午後、警察官と管理会社の手によって開錠された302号室の内部は、外の喧騒が嘘のように冷え切り、恐ろしいほどの静粛が支配していた。
【室内状況・臨場捜査員による実況見分】
室内に一歩足を踏み入れた瞬間、捜査員たちは奇妙な違和感に襲われた。長期不在の部屋に特有の、饐えた生活臭や生ゴミの腐敗臭が『一切』しなかったからである。空気は無機質に乾燥し、まるで何年も誰も住んでいないモデルルームのようだった。
玄関には、汚れ一つない靴が揃えて並べられていた。
キッチンに洗い物はなく、シンクは乾ききって金属の鈍い光を放っている。冷蔵庫の扉を開けると、中身はほぼ空。賞味期限の切れた調味料すらなく、ただ無機質な冷却ファンが冷気を吐き出す音だけが「ブー」と低く響いていた。
リビングの遮光カーテンは完璧に閉め切られ、真夏の太陽光を完全に遮断している。
部屋の隅に置かれたアナログの置き時計は、電池が抜かれたかのようにピタリと針を止めていた。その時刻は『03:17』。
この部屋の住人は、外の世界の時間軸から自らを完全に隔離し、静寂のなかで何かを待ち受けていたかのような、狂気的なまでの整頓。そこには、突発的な事件に巻き込まれたような『乱れ』は微塵も存在しなかった。
【寝室・ベッド上の遺留品解析】
薄暗い寝室の中央、乱れのないシーツが敷かれたセミダブルベッドの真ん中に、それは遺されていた。
女性の私物であるスマートフォン。
発見時、端末のバッテリーは完全に枯渇しており、死骸のように冷たくなっていた。しかし、警察の技術班が特殊な電圧で強制給電を試みた瞬間、液晶画面がかすかに発光した。
長時間の静止画表示によって、有機ELディスプレイには、『画面の焼き付き』が発生していた。文字が液晶の素子自体に物理的に焦げ付き、電源を切っても、暗転した画面の奥からその文字列が幽霊のように浮かび上がってくる。
画面には以下の言葉が表示されていた。
『ようやく、世界が静かになった』
【通信履歴およびアクセスログの解析】
最終アクティビティ: 7月4日 22:11〜7月5日 04:54
アクセス先: YouTube に投稿された『自己啓発』関連の動画。
総閲覧時間: 6時間43分(一切のスクロールやページ遷移を行わず、同じ動画を視聴し続けていたと推測される)
彼女は、深夜の暗闇のなかで、6時間以上もの間、まばたきすら忘れてあの緑色の怪物の声に耳を傾けていた。そして、自らの指で、端末の全システム設定を『完全通知OFF』へと書き換えていた。
【端末内ローカルメモ機能より回収されたテキストデータ】
彼女が誰に送るでもなく、ただ暗闇のなかで画面に打ち付けていた『未送信メモ』の断片。そこには、他者のノイズにズタズタに引き裂かれた精神が、あの動画によって『完璧な平穏』へと調律されていく生々しい心理が残されていた。
『もう、誰の声も聞きたくない。誰にも会いたくない。スマホが震えるたびに、私の名前を呼ばれるたびに、自分の寿命がすり減っていくのが分かった。世界は私に、優しく微笑みながら「早く返事をして」と首を絞めてくる。でも、この画面の中だけは、何も聞こえない。誰も私を責めないし、誰も私に言葉を求めない。部屋の中に一人でいるのに、あのダークグリーンの髪の子に見つめられていると、不思議と寂しくない。少し、安心してる。静か。本当に、静か』
【隣人(303号室居住の主婦)の証言】
「一週間くらい前だったかしら、ゴミ出しの時に、廊下で偶然彼女とすれ違ったんです。いつもなら、法律事務所の仕事が大変みたいで、目の下に酷いクマを作って、スマホを睨みつけながら歩いている子だったんですけど……その日は違ったんです。メイクもしていないのに、肌が透き通るみたいに白くて、もの凄く穏やかな顔をしていて。私が『おはようございます』って声をかけたら、ふんわりと、本当に幸せそうに微笑んでくれたんです。あ、この子、やっと悩み事が解決して、今夜はぐっすり眠れそうなんだなって。そう思えるくらい、綺麗な顔をしていました。まさか、あの後に消えちゃうなんて……」
【室内設置のスマートスピーカー・常時録音バッファからの音声復元】
失踪当夜の午前3時17分、静まり返った部屋のなかで、彼女が最後に発したとされる『かすかな肉声』が、デジタルノイズの彼方から検出された。
(サワサワという、寝具の布が微かに擦れる、極めて静かな音)
(深く、満ち足りた長い吐息)
女性の声:「……あ、既読、ついた」
(数秒間の、絶対的な無音。エアコンの風の音すら途絶える)
女性(鈴の鳴るような、ひどく嬉しそうな声で):
「もう、見つけられたんだ」
それが、彼女が現世に遺した最期の言葉だった。
これまで、どれほど大量のメッセージが届いても『未読』のまま画面を伏せていた彼女が、世界からのすべての通知を断ち切ったその瞬間に、何者かとの『本当の接続(既読)』を完了させていた。




