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第十六話「境界線」

 7月3日。

 夜。吉祥寺駅前は、叩きつけるような激しい雨に見舞われていた。

 街灯の光が、濡れたアスファルトの上で油のようにぎらぎらと反射し、家路を急ぐ人々の足元を不気味に照らしている。

 

 久世調査事務所の室内は、湿り気を帯びた空気と、古びた蛍光灯が発する「ジジジ……」という低い唸りに支配されていた。時刻は22時を過ぎ、窓の外の喧騒は雨音に塗りつぶされている。

 ミナはソファの隅に深く沈み込み、スマートフォンの画面を凝視していた。

 その眉間には、刻み込まれたような深い皺が寄っている。画面から放たれる青白い光が、彼女の瞳を執拗に焼き続けていた。

 

「……帰らないのか」

 

 デスクで紙資料を捲っていた久世が、視線を上げずに問いかけた。

 

「帰る予定だったんですけど……ちょっと、変なんです」

 

 ミナはそう言って、震える手でスマートフォンを机の上に滑らせた。

 そこには、止まることのない通知の奔流があった。

 

【添付資料①:SNS通知ログ】

対象アカウント:@mina_clip(篠崎ミナ)

通知:99+(表示上限超過)

・「動画の紹介ありがとうございます。救われました」

・ 「ずっと悩んでたけど、この動画を見て決心がつきました」

・「ようやく楽になれた気がします。感謝します」

 

「紹介したのか。例の動画を」

 

 久世の声は、以前よりも一層低く、感情の起伏を失っている。

 

「……いえ、そんなつもりじゃ。ただの調査記録として、スクショを載せて『最近こういうのが流行ってて怖い』って書いただけなんです。注意喚起のつもりだったのに……」

 

 ミナが画面をスクロールする。そこには、彼女の意図を飲み込み、肥大化した『熱狂』の様子が広がっていた。

 

【添付資料②:投稿ログと拡散状況】

投稿日時:7月2日 23:14

「最近こういう動画よく見るけど、ちょっと怖い」(※ずんだ色のキャラクターのスクショを添付)

いいね:5.2万

リポスト:1.8万

【コメント欄の変容】

初期は「確かに怖い」「不気味」という反応が目立っていた。しかし、拡散されるにつれ、コメントは急速に『肯定』へと塗り替えられていった。

「でも、言ってること正しくない?」「実際、これ見て楽になったし」「怖いって言ってる方が、依存体質なんじゃない?」

 

「……自然な反応だろ。毒も薬も、受け取り方次第だ」

 

「先生」

 

 ミナが、すがるような、あるいは詰問するような声を出す。

 

「なんだ」

 

「最近、ずっとそれ言いますよね。『自然だ』とか、『正しい』とか……」

 

 久世は答えない。窓の外を、中央線の快速電車が轟音を立てて通過していく。その振動が、事務所の床を、そして二人の境界線を揺らしていた。


 ミナは、吐き気を堪えるように新しいリプライ画面を表示させた。

 

「見てください。みんな、同じことばかり言ってるんです」

 

【添付資料③:リプライ抽出】

・「この動画を見て、通知を全部切りました。人生で一番静かな夜です」

・「人間関係を整理したら、驚くほど楽になった。今までが無駄だった」

・「ようやく自分で決められた。もう、誰にも流されない」

 

「怖くないですか? 違う人間が、違う場所で、全く同じフレーズを、自分の意志だと思い込んで叫んでいるんですよ」

 

 久世はペンを置き、ゆっくりと立ち上がった。コーヒーを淹れるため、給湯室へと向かう。

 

「別に。人間関係で摩耗し、精神を病む人間はごまんといる。距離を置いて楽になるという『結果』が出ている以上、それは生存戦略として正しい選択だ」

 

「でも! 最初は『自分を大切にしよう』っていう優しい言葉だったはずなのに……今は、『いらない奴は捨てろ』っていう選別になっている。これ、もう救いじゃないですよ」

 

 背を向けた久世の肩が、微かに揺れたように見えた。

 

「……先生、あの動画を見ましたね?」

 

 湯気の向こうで、久世の動きが止まる。

 

「……見た」

 

「何本ですか」

 

「……覚えていない」

 

 ミナは顔を引きつらせた。かつての久世なら、「34本だ」と正確な数字を答えたはずだ。


【添付資料④:久世のブラウザ履歴(復元)】

「人間関係で消耗しない考え方3選なのだ」

「あなたはもう選んでいるのだ」

「切るべき人の特徴」

「流されないために」

累計視聴時間:9時間43分

 

「見すぎです……調査の域を超えてる」

 

 久世は淹れたてのコーヒーをデスクに置き、一口も飲まずにその黒い水面を見つめた。

 

「理解するためだ。なぜ、これほどまでに人々が熱狂するのか……見ていれば分かる。人間はな、ミナ。『許可』を求めているんだ」

 

 ミナは息を呑んだ。

 

「『離れていい』『切っていい』『逃げていい』。そう誰かに、あるいは何かに、太鼓判を押してほしいんだ。自分で決断する責任を、あのダークグリーンのキャラの『正論』に肩代わりさせている。……だが、肩代わりさせた先にあるのが救いなら、それを否定する権利が誰にある?」

 

「でも、失踪者が……!」

 

「因果関係は不明だと言ったはずだ」

 

 久世は資料の隅に書かれた「ようやく静かになった」という文字を、愛おしむような、どこか遠くを見るような目で見つめていた。その瞳には、もはや疑念の欠片も残っていないように見えた。

 

【添付資料⑤:SNSトレンド急上昇】

「静かになった」:前週比+824%

主な投稿内容:自室の静寂を称賛し、他者との決別を祝う『儀式』のような投稿。

 

「……これ、異常ですよ。集団感染だ」

 

「そうか? 人間関係を減らせば、世界が静かになるのは道理だろ。至極……合理的だ」

 

 ミナの全身に、鋭い針で刺されたような恐怖が走った。

 言葉の内容ではない。その、抑揚のない、温度を失った『言い方』が。

 

 事務所の窓を打つ雨音が、一層激しくなる。

 ミナは帰宅の準備をしながら、最後に一度だけスマホを確認した。

 リプライ欄。おびただしい『救済』の声の中に、一つのコメントが張り付いていた。

 

「次は、あなたが選ぶ番。なのだ」

 

 ミナは震える指でスマホの電源を切った。

 だが、暗転した画面には、自分の顔と、その後ろで静かにコーヒーをすする久世の影が、逃げ場のない現実として映り込んでいた。

 

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