第十七話「ミュート」
【東日本ビジネスソリューションズ株式会社・内部監査およびコンプライアンス委員会 調査報告書】
調査期間:7月5日〜7月8日
対象部署:カスタマーサポート統括部・システム運用保守課(総員14名)
事象:部署内における「組織的通信遮断」の蔓延、およびそれに伴う業務遅延、最終的な複数名の一斉音信不通。
都内の一等地に位置する高層ビル。その一角にあるカスタマーサポート統括部は、文字通り「絶え間ないノイズの戦場」だった。
秒単位で押し寄せるクライアントからのクレーム、画面の端で明滅し続ける社内チャットツール『Slack』の通知、赤く点滅する緊急対応のリマインダー。社員たちは、他者から常に『即時の反応』を求められ、精神の髄まで摩耗させる毎日を送っていた。
しかし、7月に入った頃から、部署全体の『空気』が不自然なほどに静まり返り始めた。外部へのレスポンスが致命的に遅延し、何かがおかしいと察知した監査部が各社員のPCログを解析したとき、そこには静かに進行していた『システム的サボタージュ』の跡が刻まれていた。
【端末制御ログおよびプロファイル解析】
設定変更履歴:
全社共通メール通知:OFF(デスクトップポップアップの無効化)
社内コミュニケーションチャット通知:OFF(バッジ表示、サウンドの完全消去)
IP電話・着信音:ミュート(サイレントモードへの強制移行)
Googleカレンダー 会議リマインダー:OFF
すべての端末の『理由記入欄』には、人事評価の目をすり抜けるための、もっともらしいビジネス用語が並べられていた。
『集中力向上による業務効率化のため』
『精神衛生改善に伴うケアの実施』
『環境ノイズ削減によるタスク処理精度の向上』
しかし、それは効率化のためなどではなかった。彼らはただ、合法的に『世界からの電波』を遮断し始めていたのだ。
【7月6日 定例ミーティング音声ログ(会議室Cにて録音)】
レスポンスの著しい低下を問題視したマネージャー(上司)と、社員たちの間で行われた実際の会話である。
上司:「……というわけで、ここ数日、サポート課全体のレスが明らかに遅れてるんだよ。チャットを送っても1時間以上既読がつかない人が何人もいる。最近、反応が遅い人が増えてるよね? 何かシステムトラブルでもあった?」
社員A(20代後半・女性):「トラブルじゃないです。……ただ、通知を切ったんです。そうしたら、かなり楽ですよ、頭が」
上司:「楽って、お前なぁ……。仕事なんだから通知に気づかないと困るだろ」
社員B(30代前半・男性):「僕も真似して切ってみたんですけど、最初は不安だったんですよね。メッセージを見落としてるんじゃないかって。でも、慣れると、驚くほど静かで……世界にはこんなに余白があったんだって思いました」
社員C(20代半ば・男性):「誰にも急かされない感覚、自分のタイミングだけで画面を見る感覚が、すごく快適なんです。脳の奥のヒリヒリした痛みが、すっと消えていくような……」
(約5秒間の、誰も声を発しない重苦しい沈黙)
社員B(微かな吐息混じりの声で):「……もう、通知が鳴り響くあの頃には、戻れないかも」
上司の叱責の声は、彼らの平穏な表情に届く前に、すべて虚空へ霧散していった。彼らの顔には、規律を破る背徳感など微塵もなく、ただ『救済』を見出した宗教信者のような、深く穏やかな笑みだけが浮かんでいた。
◇
彼らの反逆は、社内の目を盗んで、より強固なネットワークへと発展していた。社内の匿名雑談チャンネルで、1本の投稿が信じられないほどの支持を集めた。
【社内コミュニケーションツール 隠しチャンネルログ】
投稿者:anonymous_09
本文:『通知を全部切ってから、人生がかなり楽になった。他人に自分の時間を切り売りするのをやめて、耳栓をして仕事をしてごらん。自分がどれだけ贅沢な静寂の中にいるか気づくから』
リアクション総数:312件(全部署の社員の約4割が同調のスタンプを押下)
否定的な返信・コメント: 0件
それは、現代のシステムに組み込まれた歯車たちが、一斉に『回転を止める』ことを決意した瞬間だった。
◇
7月7日、02:41。
深夜、人影のない無音のオフィス。監視カメラの映像には、社員Aが一人、自身のデスクに残って作業をしている姿が映っていた。
彼女は、周囲の防音壁がすべてのノイズを吸い尽くした空間で、巨大なノイズキャンセリングヘッドホンを装着していた。
彼女がモニターで見つめていたのは、業務システムではない。
あの『ダークグリーンの髪の少女』の動画の暗転画面。そして、漆黒の画面に浮かび上がる、緑色のシステムフォントのような字幕だった。
『あなたは、よく頑張ったのだ』
『通知に怯える必要はないのだ。あなたは、ようやく自分を優先できている。そのまま、すべての音を消し去るのだ……』
彼女の口元が、ゆっくりと弧を描く。それは、過酷な労働環境に狂った人間のそれではない。全ての重荷を下ろし、完璧な自由を手に入れた子供のような、無垢で、恐ろしいほど綺麗な微笑だった。
◇
翌週月曜日(7月10日)。
ミーティングで発言していた社員A、B、Cを含むシステム運用保守課の主要メンバー計4名が、事前連絡なしに一斉に無断欠勤。
彼らのデスクには、会社の身分証、PCのパスワードが書かれたメモ、そして支給されたスマートフォンが、規則正しく並べられていた。
私物のマグカップも、家族の写真も、すべて置かれたまま。
人事部が彼らの緊急連絡先に電話をかけても、全ての回線は「現在使われておりません」という無機質な電子音を返すだけだった。
彼らは、社会的な繋がりという名のすべてのログを消去し、完全に世界から退場したのだ。




