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第十五話「帰宅」

【警視庁交通管制センター・事案発生即報】

発生日時:7月4日 17:35

発生場所:東京都世田谷区代沢 府道交差点付近

事象:歩行者の往来妨害、および自動車の運行障害を引き起こした特定対象者の『直立不動事案』。


 夕暮れ時の住宅街。帰路を急ぐサラリーマンの足音、買い物袋を下げた主婦たちの雑談、そして家路を急ぐ自動車の列が、狭い二車線の道路を埋め尽くしていた。その熱病のような喧騒の中心に、その男は突如として現れた。


【近隣店舗の屋外設置防犯カメラ映像ログ】

17:35──

ビジネス街からの帰宅途中とみられるスーツ姿の男性(41歳・大手ハウスメーカー管理職)が、横断歩道の途中で突如として歩みを止める。信号が青から黄、そして赤へと変わっても、男性は一歩も動かない。

17:40──

道路中央に直立したままの男性を避けるため、対向車が次々と急ブレーキを踏み、クラクションのけたたましい金属音が夕暮れの街に響き渡る。車列が完全に途絶え、大渋滞が発生しているにもかかわらず、男性の視線は手元のスマートフォンの画面に吸い付けられたまま、指一本、眉一つ動かない。彼は激しい非難のクラクションの渦中で、まるでそこだけ時間が凍りついたかのように、完璧な『物質』と化していた。


【臨場した警察官のウェアラブルカメラ・音声復元データ】

(パトカーのサイレン音)

(激しく鳴り響く何台ものクラクション、および運転手たちの怒鳴り声)

警察官: 「おい! 危ないですよ! 何やってるんですか、歩道に上がってください! 車が通れないでしょう!」

警察官が男性の肩を強く掴み、揺さぶる。しかし、男性の身体は死後硬直でも起こしたかのように硬く、路面に根を張っていた。

男性:「……帰りたくなくて」

警察官:「え? 帰りたくない? とにかくここは危ないから、あっちで話を聞きますから!」

男性:「家も……会社も、どこに行っても、通知ばっかりだから」

男性の声には、泣き叫ぶような感情の昂ぶりは一切なかった。ただ、極限まで乾燥した砂のように、カサカサとした無機質な響きだけがあった。

男性:「ここ、静かだったんです。車が、私を避けて走っていく間だけ……誰も、私に触ってこないから」

周囲を埋め尽くす怒号や排気音、ブレーキの軋みといった『物理的な騒音』を、彼の脳は完全にシャットアウトしていた。彼にとって、スマートフォンから放たれる精神的なノイズに比べれば、目の前の現実の危険など、存在しないも同然の『完全な無音』だったのだ。


男性が握りしめていたスマートフォンの液晶画面は、彼の体温で不気味に温まっていた。画面には、あのダークグリーンの髪の少女が、静かに首を傾げている動画が映し出されていた。

・タイトル: 『あなたは疲れすぎているのだ』

・再生位置: 03:17

・表示字幕: 『誰にも、応えなくていいのだ。あなたの時間は、あなたのものなのだ。すべてのスイッチを、切っていいのだ』

液晶のバックライトが放つ、深い緑色の光が、男の疲れ果てた顔を照らし続けていた。


【家族への事情聴取記録】

証言者:対象男性の妻

「……最近、ずっとおかしかったんです。家に帰ってきても、玄関で鞄を持ったまま、10分も20分も突っ立っていることがあって。理由を聞くと、『音が多い、音が多すぎる』って、耳を塞ぐんです。テレビの音も消して、子供たちがリビングでゲームをしていると、血走った目で『静かにしろ』って……。でも、怒鳴り散らすんじゃないんです。床に膝をついて、頭を抱えて、まるで神様に祈るみたいに、小さく『お願いだから静かにしてくれ』って……あれは、怒っていたんじゃありません。完全に、何かから逃げ回るように、懇願していたんです。あの日も、会社から『今から帰る』ってLINEが来たあとに、メッセージの既読がつかなくなって。気がついたら、警察から連絡がありました。あの人は、私たちの声すら、自分を痛めつけるノイズだと思っていたんでしょうか……」



 男性は『急性一過性精神病性障害』として病院の閉鎖病棟へ保護された。

 しかし、退院後の彼の行動は、医療従事者たちの予想を裏切るものだった。激しい錯乱を起こすわけでもなく、彼はきわめて理性的かつ冷静に、自らの『存在の消去』を開始した。

 

 まず、長年使い込んでいた全てのSNSアカウントを削除。

 その後、家族に対して一言の感情的な言葉も交わさないまま、弁護士を通じて離婚の手続きを淡々と進めた。財産分与の書類にサインをする彼の顔には、微塵の迷いも、怒りも、悲しみもなかったという。

 

 全てのしがらみを捨て去った後、彼は静かに消息を絶った。

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