第十三話「同じ言葉」
6月24日。
昼過ぎの吉祥寺。空は、太陽の存在を忘れたかのような分厚い鉛色の雲に覆われていた。窓の外からは、湿気を帯びた排気ガスの匂いと、遠くで鳴り続ける工事の重低音が、事務所の澱んだ空気の中に染み込んできている。
久世調査事務所の窓際には、この数週間で集められた『人生の断片』が山積みになっていた。
無造作に積み上げられたコピー用紙、黄ばんだ新聞の切り抜き、そして夥しい枚数のSNSのプリントアウト。
その白黒の文字列の上には、血のような赤インクで無数の線が引かれ、特定の単語が暴力的なまでに強調されていた。
「先生……また寝てないですよね」
デスクの向こう側から、ミナの低い声が飛ぶ。彼女は、青白いモニターの光に顔を半分溶け込ませたまま、久世を睨んでいた。
「寝た」
久世の声は、擦り切れたレコードのように乾いている。
「……何時間ですか」
「覚えてない。時間を数えるほど、俺の生活は暇じゃないんだ」
ミナは深い溜息をつき、コンビニの袋から出したばかりの冷めた茶を久世の前に置いた。
机の上には、これまでの調査で浮上した失踪者たちの顔写真が並んでいる。
大手企業のOL、中堅のサラリーマン、夢を追う大学生、独り暮らしのフリーライター。年齢も性別もバラバラだ。本来なら交わるはずのない彼らの人生。
だが、その視線の先には、共通の「終着点」があった。
【添付資料①:類似案件一覧】
案件A(20代女性):失踪直前に全SNSアカウントを削除。友人宅に「自分を大切にすることにした」とメッセージ。
案件B(30代男性):勤務先で「通知を切る勇気が必要だ」と漏らし、翌日から無断欠勤。
案件C(大学生):サークルのグループLINEを「関係の整理」という理由で退会後、消息不明。
案件D:検索履歴に特定の動画チャンネルへの数千回のアクセス。
【共通事項】
1. 自己啓発系動画の過剰な継続視聴
2. 「人間関係の整理」を公言
3. 「主体性(自分で決める)」を強調する独特の言語変化
4. デジタル・オフライン両面での急速な孤立
「全員が、口を揃えたように『自分で決めた』と言っている」
久世は、死んだ魚のような目で資料の束を眺めたままつぶやいた。
「なのに、その全員が、見えない糸で引かれているみたいに同じ方向に進んでいる。妙だと思わないか」
「……はい。不気味です」
換気扇が、湿った重い音を立てて回り続けている。
ミナは震える手でノートPCを操作し、新しい解析画面を久世に向けた。
そこには、複数の動画サイトから抽出されたコメント欄のスクレイピングデータが、滝のように流れていた。
【添付資料②:コメント抽出・比較解析】
動画Xのコメント欄:
「ようやく決められた」「流されるのは終わり」「もっと早く気づきたかった」「もう迷わない」
動画Y(別チャンネル)のコメント欄: 「逃げなくていい」「自分で選ぶ」「関係を整理した。空気が綺麗になった」
動画Z(SNS投稿)の反応:
「ちゃんと決める」「切って楽になった」「ようやく、世界が静かになった」
「これ、投稿時間も場所もバラバラ。全部、別人のはずです」
ミナの声が僅かに上擦る。
「でも、使っている言葉が近すぎる。まるで、あらかじめ用意されたスクリプトを、自分の言葉だと思い込んで出力しているみたいで」
久世は椅子に深くもたれかかり、天井の染みをじっと見つめた。
「人間なんて、似たような状況に追い詰められれば似たような言葉を使う。……ただの類型化だ」
「先生、本気で言ってます? 先生らしくない」
「何が言いたい」
「……なんていうか、これ、みんな『考えてる』感じがしないんです」
ミナはマウスを握りしめ、画面を激しくスクロールさせた。
「みんな、テストの『正しい答え』を書き込んでいるだけに見える。誰かに正解を教えてもらって、それを自分の意志だと錯覚して喜んでる。……空っぽなんです」
少しの沈黙。久世は、ゆっくりと上体を起こした。
「……正しいんだろ。それが」
「え?」
「実際、無理な関係で心を壊す人間は山ほどいる。自分の身を守るために距離を置く。それが『正解』なら、全員がそこに辿り着くのは、計算上、何もおかしくない」
「でも、それじゃ……」
「違うか?」
久世の瞳が、ミナの視線をまっすぐに射抜いた。その瞳の奥に、かつての冷徹な好奇心ではなく、何か『固着』したような光があることに気づき、ミナは言葉に詰まった。
──正論だ。あまりに正論すぎて、反論する隙がない。
それが、何よりも恐ろしかった。
【添付資料④:匿名掲示板スレッド抜粋】
スレタイ:【報告】人間関係全部切ったら人生変わった
1: 通知全部切った。めちゃくちゃ静か。自分の呼吸の音しか聞こえない。
2: 最初は怖かったけど、慣れるとこの「楽」さは異常。
5: 結局、自分を守れるのって自分だけ。邪魔な奴らはゴミ箱へ。
12:「切るべき人」を間違えなければ、人生は勝ち。
30:もう流されたくない。私は、私を選ぶ。
「最近、こういうスレッドが爆発的に増えています。まるで、誰かが種を撒いたみたいに」
ミナは、もはや恐怖を隠そうともせずに言った。
「珍しいことじゃない。ネットの流行だろ」
「でも! みんな同じ定型文なんです! これが本当に自然なことなんですか?」
「自然じゃないものなんて、この世にいくらでもある」
久世の言葉は、冷たい雨水のようにミナの体温を奪っていく。
「……先生、最近変です。言い方が、その……あの動画に似てきてる」
久世は笑わなかった。皮肉のひとつも言わず、ただ、机の端にある『調査対象共通フレーズ』の統計資料を引き寄せた。
「……『普通』って何だ。ミナ」
「え……」
「全員が同じ方向を向き始めたら、それはもう『流行』じゃない。それが新しい『普通』だ」
久世は資料の文字を、一つひとつ指でなぞりながら読み上げた。
「人間関係を整理する」
「自分を守る」
「流されない」
そして、彼は顔を上げた。
逆光で表情が見えない。ただ、窓の外の曇天を背負ったシルエットが、ひどく巨大に見えた。
「……どれも、間違ったことは言っていない。違うか?」
ミナは、初めてはっきりと、心臓が凍りつくような寒気を感じた。
目の前にいるのは、自分が知っている久世透なのだろうか。それとも、あの動画の『ダークグリーン』のキャラクターが、彼の声を借りて喋っているのだろうか。
【添付資料⑦:復元キャッシュ・データ】
動画タイトル:「あなたはもう選んでいるのだ」
再生数: [ERROR]
投稿者: [削除済み]
【動画説明欄】
「気づいた時には、もう終わっている。あなたが選んだのではない。この『流れ』が、あなたを選んだのだ」




