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第十二話「エレベーター」

【大東京ビルマネジメント・施設管理センター異常事態報告書】

発生日時:7月4日 01:22〜03:17

対象物件:コンフォリア杉並高円寺(単身者向け高級賃貸マンション・地上11階建)

事象概要:2号機エレベーター内における特定居住者の不審行動。


 深夜一層の静寂に沈むコンクリートの巨塔。防犯カメラの無機質なレンズは、一人の男が『日常の重量』に耐えかね、自らを密閉していく過程を克明に記録していた。

 

【エレベーター内設置・防犯カメラ映像ログ】

01:22──

エントランス階(1階)より、ビジネスバッグを抱えた男性(32歳・IT企業勤務、当マンション503号室居住)が乗車。衣服はひどく皺寄っており、肩を落としたその姿からは、深夜まで終わらないリモートワークや数字の波に揉まれ、心身ともに限界まで擦り切れていることがうかがえる。

男性は無造作に『7階』のボタンを押下。

01:24──

ケージが静かに上昇し、目的地である7階に到着。電子音とともに滑らかに鋼鉄の扉が開く。

しかし、男性は動かない。開かれた扉の向こうに広がる廊下の薄暗闇を見つめたまま、一歩も足を動かそうとしない。やがて自動センサーにより、再び重々しく扉が閉まる。男は、外の世界へと戻ることを明確に「拒絶」した。

 

【管理室・エレベーター内インターホン通話記録】

モニターの異常停止アラーム(同一階での長時間ドア閉鎖警告)を検知した深夜管理人が、状況確認のために通話の受話器を上げた。

(プー、プー、という接続音のあと、ガサリと受話器が拾う微小なノイズ)

 

管理人:「はい、夜分遅くに恐れ入ります、管理室です。2号機のエレベーターでお止まりのお客様、大丈夫ですか? 気分でも悪いんでしょうか」

男性:「……はい。大丈夫です」

管理人:「あの、7階に到着しておりますが、降りられないのですか? 何か不具合でもありましたか」

男性:「いえ……ここ、静かなので」

管理人:「はい? 静か、って……困りますよ、他のお客様も使われますし、降りていただかないと──」

男性:「もう、誰も入ってこないでください。ここが、一番静かだ」

 

男性の声は、どこか遠い異界から響いているかのように低く、同時に、恐ろしいほどの潤いを含んで滑らかだった。

 

管理人がカメラ映像を最大までズームしたとき、そこに映し出されたのは、到底「閉じ込められた人間」とは思えない、戦慄すべき表情だった。

 

男性はエレベーターの隅に寄りかかり、ゆっくりと両目を閉じている。その唇の端は、まるで最愛の母の胎内に抱かれているかのように、恍惚とした歪な微笑を湛えていた。

彼の両耳には、白いワイヤレスイヤホンが深く差し込まれている。

 

その隙間から漏れ出す微小な音声信号を、管理室の高感度マイクが拾い上げていた。


『……もう、誰にも、返事をしなくていいのだ』

 

『誰もあなたを見つけられない、静かな場所では、あなたは完璧に自由なのだ……』

 

合成音声の呪文が、鉄の密室に優しく反響する。


02:11──

システムが安全装置により、2号機を完全に全階層の稼働から隔離し、1階と2階の中間付近でシャフト内にロック。


完全に孤立した空間のなか、男性は抱えていたビジネスバッグを床に落とし、自らもゆっくりと冷たい床へと腰を下ろした。


彼は、肺の底にある『濁った空気』をすべて入れ替えるように、深く、長く息を吐く。

その後、彼は完全に静止した。心臓の鼓動すら止まったかのような、生物としての気配を完全に断絶した、静かなる石化。


03:17──

日付が変わる瞬間、防犯カメラの映像に激しいスクランブルノイズが発生。持続時間、約2秒。

映像が復旧した瞬間、画面が切り替わる。

──鏡張りのエレベーターの内部には、誰もいなかった。

 

【現場残留物の回収およびスマートフォン解析】

 管理会社と警察官がマスターキーでエレベーターの扉を強制開放したとき、狭い密室の床には、彼の『人間としての証明』だけが、まるで抜け殻のように遺されていた。

 

・床上の遺留品: 会社の社員証、高級ブランドの腕時計、そして、彼が最後まで握りしめていたスマートフォン。

 

 警視庁の技術班がスマートフォンの電源を強制起動した瞬間、液晶画面が血を吐くように明滅した。

 画面に並んでいたのは、『未読通知:487件』。

 メール、チャットワーク、LINE、社内システムからのタスク催促。それらのおびただしい文字列が、彼を現世へと引き戻そうと狂ったようにうごめいていた。しかし、端末のシステム設定は、すべての着信を拒絶する『完全通知OFFサイレントモード』に書き換えられていた。

 487本の『見えない鎖』を、彼はこの鉄の箱のなかで、すべて笑顔で叩き切って消えたのだ。

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