第一話 04. 心当たり
◆一
5月14日 20:40
20時を過ぎた永田町は、車が途切れると信号の切り替わる小さな音まで聞こえる。
国会議事堂の窓にはまだ半分ほど灯りが残っているが、議員会館の前の通りを行き交う車はまばらで、歩道の人影も立番の警察官くらいだ。昼間は陳情の人間や秘書たちが慌ただしく出入りしていた正面玄関も、今は自動ドアの向こうに警備員の姿が1つ見えるだけだった。
新田は正面玄関から少し外れ、会館の角に立って裏手の通りを見ていた。昼の熱の抜けた風が植え込みの青い匂いを運んでくる。
通用口を見下ろす裏通りの歩道。街路樹と街灯の間。
2通目の添付にあった画像の1枚は丁度あの場所を写していた。正確には、そこに立つ男の横顔をこちら側のどこかから撮った物だ。”顧 凌峰”。
今、そこには誰もいない。街灯の光が歩道の敷石を白く照らしているだけだ。
「……冷えますね」
背後から声を掛けられて振り返ると、木村が両手をポケットに突っ込んで立っていた。いつもの替え上着ではなく、ダークスーツを着ている。
「5月だぞ」
「コレ着とると汗かいて、かえって冷えるんですわ」
木村は自分の胸の辺りを軽く叩いた。スーツの下で防弾衣が鈍い音を立てた。
少し離れた所に停めた2台の車の脇では、木村班の3人がそれぞれの持ち場で通りに目を配っている。その中の1人、木村班で2番目に若い男がさっきからネクタイの結び目を緩めては締め直している。昼の課長室でも同じ手付きをしていた男だ。昼に拳を握っていた坂口の顔は3人の中に無い。
木村はその男を一度だけ見た。
「あいつ、昼に田舎の親へ電話しとったそうです。
”議員会館の警護や”言うて……」
笑いもせずにそう言うと、木村は直ぐに裏通りの歩道に目を戻した。新田と同じ場所を見ている。
新田は何も言わなかった。
20:45。1台のセダンが会館の前に滑り込み、2人の男が降りて来た。ダークスーツの襟にSPの文字を象ったバッジ。警視庁警備部警護課のSPだ。
年嵩の方が新田と木村の前まで来て、軽く頭を下げた。こちらが主任らしい。
「警護課の者です。
本日から池山議員の警護に就きます。
外事4課の方ですね」
「新田です。
こちらは木村。
ウチからも4名、出します」
「伺っています」
SPの主任は木村班の4人を一通り見渡した。値踏みに近い目だった。ネクタイの若い男が慌てて結び目から手を離す。主任の視線は替え上着の新田の上でも一瞬だけ止まった。
「念の為、確認させてください。
議員の身辺は我々が主、そちらが従……
議員の傍に立つのは我々2名で、
そちらには周辺の警戒と、移動の時の前後の車両をお願いしたい」
「それで結構です」
「一般の議員に我々が付くのも異例ですが、
公安の方が警護の現場に出て来るのは、正直、もっと珍しい」
「表向きは身辺警戒の応援です」
「”表向きは”ですか?」
主任は、それ以上は聞かなかった。
「議員はまだ中に?」
「はい。
夕方からの党の会合が長引いているそうで、
21時過ぎには出て来ると、秘書から連絡がありました」
「議員ご本人には、まだ理由を伝えていません。
警護が付く事だけは事務所を通じて伝わっているはずです。
理由は私から直接」
主任の目が、一度だけ新田の顔に留まった。
「……解りました。
では最初の接触はお任せします」
主任は若い方のSPに短く指示を出し、2人は正面玄関の両脇に分かれて立った。立ち位置を決める動きに迷いが無い。
木村が首を傾け、口元を新田の耳に寄せた。
「SPさんは、さすがに慣れてはりますな」
「本職だからな」
「……ウチは、本職じゃないのが3人と、班長が1人ですわ」
冗談には聞こえなかった。新田は答えずに腕時計に目を落とした。
20:58。
◆二
5月14日 21:07
正面玄関の自動ドアが開き、2人の男が出て来た。
先を歩く男は50歳前後。中背で少し撫で肩。地味なグレーのスーツに地味なネクタイ。サイトのトップで笑っていた写真より目の下の影が濃い。後ろに鞄を2つ抱えた秘書らしい若い男が続いている。
参議院議員 池山 修。
――この男が、王手か。本命か――
主任が一歩前に出て池山に身分証を示した。池山は一瞬足を止め、それから、ああ、と口の中で言った。
「警護の……事務所から聞いています。
本当に付くんですね。私なんかに……」
「今夜から、お傍に付きます。
それと、こちらの方から”お話”が……」
主任が半身を引くと、新田が前に出た。
「警視庁公安部、外事4課の新田です。
夜分に申し訳ありません。
少しだけ、お時間をいただけますか」
「公安……?」
疲れた顔に似合わない、よく通る声が僅かに上ずった。後ろで、秘書が鞄を抱え直した。
「”警護が付く理由”という事ですか?」
「はい」
「……ここで、ですか?」
池山は周りを見回した。正面玄関の両脇にSPが2人。少し離れて木村と木村班の3人。通りの向こうには立番の警察官。自分を囲む男たちの数を初めて数えたような顔だった。
「立ち話で済む話じゃなさそうですね。
事務所に戻りましょう。
10分くらいなら……」
エレベーターを降りると照明を半分落とした廊下の奥で、事務所の戸口だけが白い。
応接セットと呼ぶには小さ過ぎるソファに、新田と池山が向かい合って座った。木村はドアの脇に立ち、SPの主任は廊下に残る。秘書は茶を出そうとして池山に止められ、隣の部屋に下がった。
壁には海の写真が掛かっている。冬の”鉛色”の日本海……。
その下の棚に色褪せた法被が畳んで置かれ、背中の”新発田”の文字が覗いていた。
「単刀直入に申し上げます」
新田は手帳を開かずに言った。
「”議員の身に危険が及ぶ可能性がある”という情報が入りました」
池山は直ぐには答えなかった。視線が新田の顔から卓の上へ落ち、また戻って来る。
「”危険”というのは?」
「”命に関わる”という意味です」
「……誰が、そんな」
「情報の出所は申し上げられません。
ただ、これまでに一度も外れた事の無い筋です」
池山は膝の上で両手を組んだ。親指同士を、何度も擦り合わせる。
「なぜ、私が?」
新田が一番聞きたかったのも、それだった。
「それを伺いに来ました。
何か、心当たりは?」
「ありません」
即答だった。
「私は2期目とはいえ、ただの陣笠です。
大臣も副大臣もやった事が無い……
委員会で目立つ質問をした覚えもありません。
党の中で誰かと揉めた事も……
少なくとも、命を狙われるような揉め方は」
「海外との繋がりはいかがですか?
特定の国や団体と、何か……」
「海外?」
池山は鸚鵡返しにしたまま、暫く新田の口元を見ていた。
「視察で2度ほど出た事はあります。
アメリカと、インドと……それくらいです」
――インド――
中国と国境を挟んで睨み合っている国だ。リストの中国人の名前を頭の中で並べながら、新田は相槌だけを打った。
「議員のホームページに、”新しい日本”という言葉がありました」
「ああ……」
池山の肩から、少しだけ力が抜けた。
「あれは受け売りですよ。
お世話になっている方の言葉を、そのまま使わせてもらっているだけです。
中身は正直、私にはまだ大き過ぎて」
「”お世話になっている方”というのは?」
「……それはこの件と関係があるんですか?」
ほんの一瞬、池山の目が壁の写真へ逃げた。隠し事をする人間の逃げ方ではない。不意を突かれた人間のそれだ。
「解りません。
解らないから、伺っています」
「……申し訳ないが、それは勘弁してください。
その方にご迷惑を掛けたくない……
狙われる理由になるような方でもありません」
新田はそれ以上は押さなかった。”新しい日本”の出所なら、久保田班の洗い出しで出る。今夜ここで取り付けるべき事は別にある。
ドアの脇で、木村が小さく咳払いをした。10分が過ぎようとしていた。
◆三
「最後に1つお願いがあります」
「警護の関係上、
今週末は東京から離れないようにしていただく事は可能ですか?」
池山は目を瞬いた。
「今週末……ですか。
明日の夜の新幹線で、新潟に帰るつもりでいました。
土曜は新発田で後援会の集まりがあるんです。
年に一度の、大きな……」
池山の声が途中で小さくなり、そのまま途切れた。
「新幹線のホームも駅も地元の会場も、こちらでは守り切れません」
――2通目の添付には、新潟の、地元事務所の前の写真もあった――
「東京にいてくだされば、議員宿舎と議員会館の往復だけで済みます。
その間はSPが傍に、ウチの人間が周りに付きます」
”根拠が少ない”。昼に聞いた言葉が喉の奥に残っている。銃器対策部隊は来ない。手元にあるのはSPが2人と木村班の4人だけだ。
それでも東京なら手が届く。
池山は壁の写真を見上げ、鉛色の海を暫く黙って見ていた。長い溜め息が漏れる。
「……解りました」
「後援会には私から連絡します。
”急な公務が入った”とでも言っておきます。
怒られるでしょうけどね……
年寄りが多いもので」
池山は棚の法被に目をやった。
「……今年は、これの出番は無しか」
「ご協力、感謝します」
「感謝されるような事じゃない。
守っていただくのは、こちらですから」
池山は初めて、口の端だけで少し笑った。
立ち上がる時、池山の目が新田の替え上着の肘の辺りを一度だけ通る。何も言わなかった。
◆四
5月14日 21:32
新田が廊下で週末の件を伝えると、主任は「解りました」と短く返しただけだった。守る側にとって、それ以上の話は無い。
車に乗り込む前に、池山は木村に軽く頭を下げた。
「夜は冷えますね。
遅くまで、すみません」
「5月ですわ」
木村はそう言って、ちらりと新田を見た。
池山を乗せた車が会館の前を離れた。運転は秘書で、助手席と後部座席にSPが1人ずつ。その前後を木村班の2台が挟んでいる。議員宿舎までは車で10分も掛からない。
後ろの車の助手席で、木村が片手を上げたのが見える。ハンドルを握っているのは、あのネクタイの若い男だった。
新田は歩道に立って、テールランプが角を曲がるまで見送った。
裏通りの方でエンジンの掛かる音がする。
振り向くと、通用口の先の暗がりに停まっていた白いワンボックスがライトを点けないまま動き出すところだった。池山の車列とは反対の方へ、ゆっくりと角を曲がって行く。ナンバーは街路樹の陰に入って読めない。
新田は木村の番号を押した。
「後ろに付いて来る車は無いか」
『……ありません。何か?』
「いや。そのまま行け」
新田は手帳を開き、21:33、白のワンボックス、と書き付けた。
1人になると急に夜の音が耳に入ってきた。遠くを走る車、会館の空調の唸り、立番の警察官の靴音。議事堂の窓の灯りは来た時より減っている。
新田はもう一度会館の角まで歩き、裏通りに目をやった。
街路樹と街灯の間。誰もいない歩道……。
――アイツは、ここから顧 凌峰を撮った――
だとすれば、”アイツ”は今夜もどこかでこの景色を見ていたのかもしれない。池山の車を。SPを。まだここに立っている、自分を。
会館の窓から向かいのビルの屋上、暗い植え込みへと、新田はゆっくり目を移した。
どこにも、何も見えなかった。
ポケットの中で、スマートフォンが震える。木村からだった。
『無事、宿舎に入りました。
SPの2人が玄関まで付いてます。
ウチは2人が外で張り番、残りは朝の交代まで一旦戻します』
「解った」
『ほな、明日の朝、また連絡します』
電話が切れた。
新田は黒田の番号を呼び出す。面会の中身と週末の事を伝えた。
『……そうか』
黒田の返事は、それだけだった。
胸ポケットの煙草の箱に指が行く。千代田区の歩道では火は点けられない。箱から指を離し、新田は暫くスマートフォンを握ったまま立っていた。
――お世話になっている方、か――
国会議事堂の灯りが、また1つ消えた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回「第一話 5. 温度差(1)」




