第一話 05. 温度差(1)
◆一
5月15日 6:40
顔を洗って寝室に戻ると、ベッドの上にグレーの背広が1着、白いワイシャツと紺のネクタイと一緒に広げて置いてあった。
新田は暫くそれを見下ろしてから椅子の背のいつもの替え上着に手を伸ばした。
「それじゃない」
振り返るとマグカップを片手に妻が寝室の入口に立っていた。もう黒のニットと細身のパンツに着替えていて、短い髪を片方だけ耳に掛けている。
「偉い人の傍に行くんでしょ。
そのジャケットで行くつもり?」
「……何で知ってる」
「情報源は秘匿します」
妻はマグカップの縁越しに新田を見たまま、コーヒーを一口飲んだ。
――……飯田か――
「昨日も、それで会ったんでしょ。
その人、何か言ってた?」
「何も」
「言わないのよ、そう言う人は。
……見てるだけ」
妻はベッドの上の背広を目で指した。
「去年、私が選んで、2回しか袖を通してないやつ。
ネクタイは紺……柄物は駄目。
相手より目立つから」
「……肩が凝る」
「それも仕事の内の一つでしょ」
新田は黙って、替え上着を椅子の背に戻した。
妻はマグカップを置き、ネクタイを取って新田の首に掛ける。結び目を作る指は迷わなかった。ただ、目だけは新田の顔を見なかった。
「……危ない仕事じゃ、ないよね」
「議員会館は、日本で一番安全な建物だ」
「そう」
妻は結び目を締め、一歩下がって出来を確かめるように新田を眺めた。
「うん。これなら、ちゃんとした人に見える」
新田は鏡を見なかった。玄関でいつもより少しだけ硬い革靴を履いた。
5月15日 8:30
定時捜査会議は時間通りに始まった。
今朝は新田も8時前には席に着いていた。慣れない背広の肩はどこか窮屈だったが、前日の遅刻を蒸し返す者はいない。ただ、会議室に入って来た飯田が一瞬だけ新田のネクタイに目をやり、何も言わずに自分の席に向かった。
「始める前に各府県警からの情報だ」
新田は警察庁経由で届いたばかりの紙を手に取った。1通目の画像は5月12日のうちに全国の警察と共有してあり、その網に、ようやく幾つか引っ掛かり始めていた。
1人目は中国人傭兵の”劉 建軍”らしき男。5月9日に福岡空港で確認されていた顔が、昨日の14:20頃、新大阪駅の中央改札の外のカメラに映った。乗り換えではなく、大阪で降りて地下鉄の方へ歩いて行ったという。
手元の紙をめくる音が、あちこちで重なった。
2人目はタイ人傭兵の”ナロン・シーサワット”らしき男。新潟駅の万代口で確認されていた男が、昨夜、敦賀駅の防犯カメラに映っていた。北陸新幹線を降り、大阪・京都方面の特急に乗り換えている。新潟から東京を通らずに北陸回りで西へ向かった事になる。
――新潟――
池山の地元で、本当なら今夜、本人が新幹線で帰るはずだった場所だ。2通目の添付には地元事務所の前を写した1枚もあった。
――いつだ。池山が帰省を取りやめる前か、後か――
新田は一瞬、紙から目を上げかけたが、そのまま続けた。
「3人目は京都府警から。
”ヴィクトル”とだけある殺し屋だ。
”ロシア語を話す”と付記がある……
昨日の夕方、京阪の三条駅の改札を出て、
三条大橋の方の出口へ上がって行くのが映っていた」
今回の3人の中で、殺し屋はこの男だけだった。
堀内が付箋だらけの資料から顔を上げた。
「大阪、敦賀、京都……全部、西ですね」
「ああ。
京都府警は、”連中の集合場所は関西ではないか”と見ている……」
誰かがペンを机に放る乾いた音がして、背凭れの軋みが後ろの方から続く。
「関西なら、ウチの出番は無さそうですね」
後ろの方の席からの冗談めかした声だった。前の何人かが小さく肩を揺らす。
「出番があるなら、木村さんですね。
通訳が要らない……」
別の声が続いた。あちこちで笑いが起きる。
木村は笑わなかった。腕を組み、黙って前を見ている。堀内がその声の方を一度だけ振り返った。
昨日から警護に付いた木村はこの朝もダークスーツで、上着の胸の辺りが僅かに厚い。同じ木村班でも後ろの席の坂口と相方は、いつもの替え上着のままだった。
新田も何も言わず、紙を置いた。
「……では各班、報告を頼む」
新田の声に最初に立ったのは久保田だった。
「久保田班は池山議員の身辺を洗いました。
結論から申し上げますと……
何も出ません」
会議室のどこかで小さく息を吐く音がした。
政治資金の収支に不自然な点は無く、献金の額は当選2回の議員としてはむしろ少ない。反社会的勢力や外国の団体との接点も無い。委員会で質問に立つのは年に数回で、外交や安全保障に関わる物は殆ど無かった。久保田は手帳をめくりながら、それを淡々と並べていく。
「党内での評判は?」
「党の関係者や秘書仲間に聞いて回ると、出てくる言葉は2つだけです」
久保田は手帳に目を落とした。
「”ヤジ要員”と、”パシリ”」
会議室のあちこちで失笑が漏れた。
「悪く言う人間はいませんが、良く言う人間もいない。
本会議場では党で一番声が通るそうです。
委員会では殆ど口を開かないそうですが」
「選挙は?」
「2度とも、俗に言う”タナボタ当選”です」
1度目は7年前の参院選。前任の”新潟のドン”、大河原 恒雄は、選挙の4か月前に、銀座のホステスとの関係を週刊誌に書かれて消えた。割れた票の隙間に池山が滑り込んでいる。
2度目は去年、2025年。知名度で上回っていた元アナウンサーの相手が選挙戦の中盤に昔のSNSの書き込みを掘り起こされ、自滅している。
「……大河原の相手の女性は、記事が出た直後に店を辞めています。
それきり所在が解りません」
――”ハニートラップ”か――
久保田は手帳をめくって続けた。
「海外渡航は議員団の視察でアメリカとインドに一度ずつ。
どちらも党の公式な視察です」
昨夜、池山自身の口から聞いた通りだった。裏が取れただけで、それ以上のモノは何も出てこない。
「他に何か引っ掛かる事は?」
「強いて言えば、超党派の勉強会に幾つか顔を出しています。
ただ、どれも議員なら珍しくない物で、
名簿に載っている議員は他に何十人もいます」
「続けてくれ」
「はい。引き続き、当たります」
久保田が座ると、入れ替わりに堀内が立った。
「堀内班は顧 凌峰とコンテナヤードの男の足取り、それに議員会館周辺の防犯カメラを当たっています。
顧 凌峰は5月10日に青山のホテルを出た後の足取りが、依然として掴めていません。
コンテナヤードの男も同様です」
「議員会館の方は」
「それなんですが……」
堀内は手元の資料をめくった。
「画像の男が立っていた裏通りの歩道ですが、
あの位置を映している防犯カメラが1台もありません。
会館側のカメラは通用口の出入りを真下に向けて映していて、
裏通りの歩道までは入っていません。
周辺の官庁、ビルのカメラも当たりましたが、どれも角度が合いません」
「1台も、か?」
「1台もです。偶然かもしれませんが……」
堀内はそこで言葉を濁した。資料の端の付箋を堀内の親指が1枚、剥がし掛けては戻している。顧 凌峰はカメラの死角に立ち、”アイツ”はその顧 凌峰を、どこからか撮っている。
「映ってないって事は本当にそこにいたのかも解らないって事ですよね」
さっきと同じ辺りの席から声が上がった。今度は半分は本気に聞こえた。
「合成じゃありませんよ」
村上は資料をめくる手を止めない。
「2通目の画像も5枚全部、前回と同じ”クセ”です。
加工の跡もありません。
あれは、あの場所で撮られた写真です。
晩メシを賭けても良いですよ」
後ろの席の声の主は、それ以上は何も言わなかった。
「新田班」
新田に促されて、飯田が立った。
「成田のAI判定に引っ掛かった男ですが、ICPO経由の照会の返事待ちです。
航空会社の搭乗記録は押さえましたが、
名義は手配の人物とは別の名前でした。
偽造か、それとも本当に別人なのか、今の段階では何とも」
「急がせてくれ」
「はい」
飯田の返事は昨日と同じく短かった。
村上が当たっている800mmの販売記録は返事待ちのまま、件名の謎にも進展は無かった。
「木村班」
木村が立ち上がった。目の下にうっすらと隈があり、前置きの冗談も無く、手帳も開かずに話し始めた。
「昨夜21:32に議員会館を出て、宿舎まで異常なし。
夜間は2名で宿舎の外を張って、今朝7:30に交代しました。
議員は8:40に宿舎を出て、今は会館です。
後ろの車は班員が付いてます……
今日は午前が本会議、午後が委員会で、
夕方まで会館に詰めて、その後は宿舎に戻る予定です。
宿舎と会館の間の道は今朝、自分で一度走っておきました」
「週末の予定は?」
黒田が会議室に聞かせるように訊いた。
「土曜、日曜とも東京です。
議員会館と宿舎の往復だけ、と聞いてます。
地元の後援会の集まりは昨日の夜のうちに議員本人が断りの電話を入れたそうです」
黒田は腕を組んだまま、窓の外に目をやった。新田は手元の紙の”新潟”の2文字に目を落としてから立ち上がった。
「昨夜、池山議員に直接会った。
本人にも心当たりは無い。
少なくとも、本人が知っている範囲では、だ。
狙われる理由が出てこない以上、こちらは守りを固めるしかない。
西の動きは各府県警と警察庁に任せる。
ウチは池山から目を離すな。
木村班はSPと連携して、今の体制を維持。
それと、昨夜、会館の裏の暗がりに白いワンボックスが停まっていた。
池山の車列が出た後、ライトも点けずに反対の方へ消えている。
ナンバーは読めていない。
見掛けた者は、直ぐに知らせてくれ。
堀内班は足取りの追跡を続けてくれ。
久保田班は……」
新田は一瞬、言葉を切った。
「池山議員の、”新しい日本”という言葉の出所を当たってくれ。
本人は”お世話になっている方の受け売り”だと言っていた。
その”方”が誰なのかを知りたい」
「勉強会の線ですか」
「かもしれない。頼む」
久保田の万年筆が、手帳の上で短く走った。
「以上だ」
木村が真っ先に席を立った。誰とも目を合わせず、上着の前を留めながら会議室を出て行く。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回「第一話 5. 温度差(2)」




