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罠屋   作者: 赤原藤尾
第一話 Prelude (前奏曲)前編

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第一話 05. 温度差(2)


◆二


 「以上だ」の声が消えないうちに、椅子が一斉に床を擦った。


 誰かの欠伸。廊下に出て行く足音に混じって、話し声が聞こえてくる。


「結局、何も出なかったな」


「出ないって事は狙われる理由が無いって事だろ」


「人違いじゃないのか。

 同じ名前の議員がいるとか……」


「いないよ、調べた」


「じゃあ、ガセか」


「アイツのメールがガセだった事、あったか?」


「無いけどさ。

 1回くらい外れても、おかしくないだろ」


「それに、連中は関西に集まってるんだろ。

 東京は関係ないって……」


「どっちにしても、SPが付いたんだ。

 わざわざSPの前で撃ってくるバカはいないって」


「それより、昼どうする」


「蕎麦」


「また蕎麦かよ」


 笑い声が廊下の向こうに遠ざかっていった。


 新田は会議室の窓際に立ったまま、その声を聞いていた。


 3日前の新田も似たようなもので、メールが届くまでは早く帰って妻に頭を下げる事しか考えていなかったのだ。


「新田」


 戸口の黒田が、顎で課長室の方を示した。


 課長室に入ると、黒田は自分の椅子に腰を下ろし、眼鏡を外して目頭を揉んだ。


「昨日の夜、お前の報告を聞いてから、もう一度上に掛け合った」


「銃器対策部隊ですか?」


「ああ」


 黒田は眼鏡を掛け直した。


「返事は同じだ。

 ”根拠が少ない”……

 それに、今は”様子を見る”だそうだ。

 SPが付いて、何も起きていない……

 起きていない以上、動かす”理由が無い”と……」


「何かが起きてからでは……」


「解っとる。ワシもそう言った」


 黒田の声は低かった。怒鳴りつけたい相手は、ここにはいない。

 黒田はそれきり口を閉じ、机の上の書類に目を落とした。


 新田は一礼して課長室を出る。ドアを閉める直前、黒田が受話器を取り上げるのが見えた。



◆三


5月16日〜17日


 土曜日も日曜日も何も起きなかった。


 金曜の夜、新田は堀内班を交代に回した。木村班の4人だけで、昼も夜も張り続ける訳にはいかない。池山は新田の頼み通り東京に残り、土曜の朝に一度だけ議員会館に顔を出して、昼過ぎには宿舎に戻った。日曜はそこから一歩も出ていない。3時間おきに入る報告は全て同じ言葉で締めくくられていた。


 ”異常なし”。


 余計な一言が付いていたのは、土曜の木村の報告だけだった。”異常なし。SPさん情報、議員の夕飯はカップ麺”。


 新田は返事を打たない……


 ただ、その1行だけは、画面を閉じる前にもう一度読んだ。


 新田は土曜も本部に出て、日曜も夕方まで机に向かっていたが、最後は黒田に追い返されるようにして庁舎を出た。


 家に着いたのは20時を少し回った頃。


 リビングの灯りは消えているのに、廊下の奥、寝室のドアの下にだけ細い光の筋がある。食卓の上にはラップを掛けた皿と、メモが1枚。


”温めて食べてね。先に寝ます”


 新田はメモを暫く眺めてから、皿を電子レンジに入れた。回る皿を見ながら、スマートフォンを食卓に置く。画面は暗いままで、堀内班からの最後の報告は19:00の”異常なし”だった。


――”近く”――

 2通目が届いてから、3日が過ぎた。


 電子レンジが鳴る。新田は皿を取り出し、1人で夕食を食べた。皿の真ん中の辺りが、まだ冷たかった。


 廊下に目を遣ると、寝室のドアの下の光は、もう消えている。



5月17日 23:10


 窓に段ボールを貼った部屋に、男が8人いる。


 床に広げたブルーシートの上で、誰も口を利かずに銃を拭いていた。油の匂いがカップ麺の湯気に混じる。

 1人が携帯の画面を伏せ、指を1本立てた。

 月曜。

 部屋の隅で一番若い男が弾倉に弾を込める。数え終わると、また最初から込め直した。



◆四


5月18日


 月曜日の定時捜査会議は15分で終わった。どの班長も、立って座るまでに1分と掛からない。


「やっぱり、ガセですかね」


 書類を揃えながらの声に、今度は誰も笑わない。否定する者もいなかった。


 午後も何事も無く過ぎていく。


 各班からの報告は、どれも”変化なし”だった。顧(グー) 凌峰(リンフォン)の足取りは掴めず、成田の男の照会は返事が来ず、800mmの販売記録も届かない。久保田班が当たり始めた勉強会の名簿は思っていたよりもずっと長い。


 ブラインドの隙間から差す西日が、机の島を少しずつ斜めに渡っていく。


 外事4課の大部屋は、いつもの月曜日の夕方の顔をしていた。週明けの書類に追われる者がいて、早めに上がる者がいて、週末の話をする声がどこかから聞こえる。


「班長、今夜は早く帰れそうじゃないですか」


 隣の席から、飯田が声を掛けてきた。


「……どうだかな」


「帰れる日くらい、帰ってあげてくださいよ。

 奥さん、この前も”顔を忘れそう”ってLINEしてきましたから」


「余計な事は言わなくていい」


 飯田は声を立てて笑い、自分の画面に戻った。


 堀内が大部屋に戻って来たのは18:40を少し過ぎた頃だ。


 昼の間、堀内班は顧 凌峰の足取りを追って外に出ていた。夜は木村班と警護を代わる事になっていて、議員が会館の会合を終えて出る19時半の前、19時に会館の前で引き継いで宿舎まで付く段取りになっている。


 通路を挟んだ木村班の島には、坂口が1人だけ残っていた。組む相手が休みの今日は、これまでの捜査の資料をまとめていて、机の上には書類の束が幾つも積み上がっている。


 新田は堀内の机の脇で足を止めた。


「顧 凌峰は」


「相変わらずです。

 青山のホテルを出てから、どこのカメラにも映ってません」


 堀内は机の上の書類を手早くまとめながら答えた。


「週末の議員は行儀が良かったですよ。

 ただ、交代の時の木村さんは、やけに口数が少なくて」


「金曜に言った白いワンボックスは?

 宿舎の周りで、誰か見ていないか」


「ウチの班は見ていません」


 堀内の手が止まる。揃えかけた書類の束を、もう一度机の上で軽く打ち付ける。


「今夜はウチが宿舎まで付きますから、気を付けて見ておきます」


 その時、堀内のスマートフォンが鳴った。画面を見た堀内が新田に”木村です”と口の形だけで伝えてから、耳に当てた。


「はい、堀内。……え、もう?」


 堀内がスマートフォンを耳から少し離し、新田の方へ傾けた。


『会合が予定より早く”お開き”になって、議員、今から出るそうです。

 SP側の判断で、待たずに出ます。

 交代は会館ではなく、宿舎の方で……』


「解りました。

 今から急いで向かいます」


『主任さんには、待ってくれ言うたんですけどね。

 ……ただ、あまり大きな声では言えないんですが』


 木村の声が一段低くなると、堀内はスマートフォンを耳に当て直した。


 切れ切れに”クサい”という言葉だけが、新田の耳に届いた。


「”覚悟”ですか?」


 書類の束を押さえる堀内の指に力が入った。


 暫く堀内は黙って木村の声を聞いていた。週末の話をしていた島から笑い声が上がる。


「……解りました。話してみます」


 木村の声が、不意に元の大きさに戻った。


『散る桜、残る桜も散る桜……ですわ』


 堀内の眉が僅かに寄った。


「……縁起でもない」


 電話の向こうで、木村は何も言わなかった。


『ほな、宿舎で。

 ……坂口に、資料は溜め込まんように、言うといてください』


 木村班の島で坂口が顔を上げた。机の書類の束に目をやって、決まり悪そうに頭を掻く。


 電話が切れた。


 堀内はスマートフォンを下ろして新田を見た。


「”周りの動きがクサい”と……

 ”ピリついている人間がいる”との事です。

 誰とは言いませんでした。

 ……”班の人間に覚悟させてから来てくれ。

 その為に遅れても構わない”だそうです」


「根拠は?」


「勘だそうです。”上に上げるような話じゃない”と……」


 新田は直ぐには答えなかった。


「……木村に”議員の車から離れるな”と伝えろ。

 前と後ろでピッタリ挟んでおけ」


「今、入れときます」


 堀内は、その場でスマートフォンに短く打ち込んだ。


「人手、足りてますか?」


 島の方から坂口が声を掛けた。


「ウチは揃ってる。お前は資料の山と留守番だ」


 堀内は振り返りもしない。坂口は何か言い掛けて、口を閉じた。


 堀内は上着を掴み、先に戻っていた部下たちを大部屋の隅に呼び寄せた。低い声で何か話しているが、言葉は聞こえない。聞いていた1人が腰の後ろに手をやって何かを確かめる。もう1人は黙って上着の前を留めた。


 3分ほどで堀内たちは大部屋を出て行った。廊下を急ぐ足音が直ぐに遠ざかっていく。


 新田はその場に立ったまま動かなかった。


――散る桜、残る桜も散る桜……――


 木村がそんな事を口にするのを新田は初めて聞いた。


 土曜の報告の”カップ麺”。会館の前の”5月ですわ”……

 口数が減ってからも、あの男は冗談を捨てなかった。……今日は、それが句だった。


――ピリついている人間がいる――


――言わなかったんじゃない。電話では言えなかった――


 SPか。会合の関係者か。それとも、こちら側の誰かか?


 警護課に一報を入れるか。黒田に上げるか。だが、手にあるのは電話越しの”クサい”の一言だけだった。”上に上げるような話じゃない”と言ったのは木村自身だ。


――”根拠が少ない”――


 4日前も3日前も上は同じ言葉で銃器対策部隊を断った。


 予定が変わった。会合は早く終わり、議員は待たずに会館を出ている。木村班は議員の車を挟んで、もう走っている。


――予定が変わる時が一番危ない――


 新田は自分の席に戻って腰を下ろした。机の上には2通目のメールを印刷した紙が置いてある。


 ”近く襲撃あり”。


 それが今日なのか、来週なのか、来月なのか……。それとも、本当に人違いなのか。


――会合が早く終わる事を誰が知っていた――


 ”アイツ”の2通目は急いでいた。1通目から2日しか空けずに、撮影日時も書かずに、”直ちに”と命じてきた。


――……何かに、間に合わせようとしていたのか――


 新田は時計を見上げた。


 18:52。


 木村の電話からもう10分近く経つ……。宿舎に入れば一報が来る。新田のスマートフォンはまだ鳴らない。


 新田はスマートフォンを取り出し、木村の番号を呼び出した。発信ボタンの上で、親指が止まった。


――警護の最中の男の気を散らすな――

――それに、道を決めるのはSPだ。木村には変えられない――


 木村には掛けない。自分の班の3人を出すだけなら誰の許可も要らない。


――当たっていなければ、笑い話で済む――


 新田は立ち上がった。


「飯田」

 隣の席で飯田が顔を上げた。新田の顔を見て手にしていたペンを置いた。


「新田班で、今動ける者は何人いる?」


「私を入れて4人です」


「お前以外の3人を今直ぐ車で出せ。

 紀尾井町の周りに入って会館から宿舎までの道で、

 木村班と堀内班の外側に付かせろ」


「”警護の増員”ですか?」


「そうだ。無線は使うな。

 連絡は私の携帯に直接入れさせろ」


 飯田は返事の前に立ち上がっていた。


「はい。

 連絡は班長の携帯に直接、ですね……」



 飯田が島に向かって短く声を掛けると、班員たちが一斉に立ち上がった。上着を掴む音と引き出しから車の鍵を出す音が重なる。木村班の島で坂口が腰を浮かし掛けたが、新田と目が合ってまた座った。


 3人が大部屋を走り出て行く。エレベーターを待ち切れずに階段の扉が開く重い音がした。


 週末の話をしていた島が急に静かになった。


 窓の外の空はいつの間にか暮れ掛けている。


 新田はもう一度時計を見た。


 18:54。


――間に合え――


お読みいただき、ありがとうございます。

次回「第一話 05. 温度差(3)」


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