第一話 02. スペシャリスト(1)
◆一
5月13日 8:15
エレベーターホールにはまだ土産の菓子箱が積まれ、外事4課の一角を除けば、庁内はゴールデンウイーク明けの緩さを引きずっていた。
紙コップのコーヒーを半分ほど流し込んでから、新田は黒田の部屋に顔を出した。
「おはようございます」
「おう。昨日は結局、何時に帰れたんだ?」
「日付が変わる前に帰れただけ、御の字です」
「そうか。……まあ、嫁さんへの詫びはまた今度だな」
「その”今度”が、もう何回目か解りません」
「数えん方が身の為だ」
黒田は他人事のように笑った。
「それと、新宿署の件だ。18日付けで通った」
「……ありがとうございます」
「”中国語のできる者を1人寄こせ”と言い出したのはお前だ。
来たら、面倒を見ろよ」
「はい」
新田はそれ以上、何も言わない。黒田も訊かなかった。
戸が二度、軽く鳴った。
「正式な報告です」
村上が姿を見せ、昨日と同じ寝不足のような目で黒田と新田の前に立った。昨日はメモ1枚だった手に、今日は厚いファイルがある。
「……寝てないのか?」
「寝ましたよ。机の上で、2時間ほど……」
村上は目の下を指でこすった。
「まず画像の件から……
全部オリジナル確定ですね。
13枚全てレタッチや加工の痕跡はありませんでした。
撮ったままの状態と思ってもらって結構です」
「昨日の暫定と同じだな」
黒田が椅子の背にもたれる。
「はい。ただ、1点だけ気になる事があります」
村上がファイルを開く。1枚目には過去に届いたメールの写真と今回の写真が左右に並んでいる。
「前回に比べ、撮影機材が明らかにアップデートされています。
解像度が更に上がり、暗部の粘りも違う。
EXIF情報が全て削除されている点は前回同様でした」
「EXIF?」
黒田が聞き返す。
「写真の”戸籍”みたいなモンです。
撮影機材や日時、位置情報が記録されるデータでして……
素人でもネットに写真を上げる時には消す人がいますが……」
村上は写真の端を指で揃えた。
「アイツのは、それとは違います……
中身は全部見せる。
ただ、誰が、どこから、どの機材で撮ったかだけは見せない……
そう言う消し方です」
「機材は解るのか?」
新田が身を乗り出した。
「写りから推定するしかありませんが……」
村上は写真を1枚抜き、黒田の前に置いた。
村上の見立てでは、カメラはニコンのZ9か、同じセンサーを積んだZ8。殆どの写真のレンズは800mmの単焦点で、室内の物だけが別のレンズだという。ズームや安いレンズでは、この解像は出ない。決め手は光源の周りの、輪っかのようなフレアだった。位相フレネルという造りのレンズに特有の癖で、何枚かの背景の照明の周りに、それが小さく浮いている。
「レンズまで解るのか」
黒田が眼鏡の奥で目を細めた。
「解ります。
この輪っかが出るレンズは、他にありません」
新田は思わず机の上の写真に目を落とした。港のコンテナヤードで撮られた男の横顔が、頬の産毛まで見えそうなほど鮮明に写っている。
「実はこのレンズ、ウチの課では有名なんですよ」
「何故?」
新田が顔を上げると、村上は僅かに口の端を緩めた。
「ウチの若い連中に言わせると、
”喉から手が出るほど欲しいレンズ”だそうで……
購入の起案を出したら、上からあっさり却下された”いわく付き”のレンズなんです」
「……どこの課も財布の紐は固いな」
黒田が小さく鼻を鳴らした。
「メーカーは”小型軽量”と言ってますが、それでもデカくて重い。
扱いにくい事もあって、流通量が限られています。
販売の記録を辿れば、購入者に行き着く可能性があります」
「”足がつく”という事か」
新田が訊くと、村上は少し首を傾げた。
「相手がそれを承知で使っているのだとしたら、
随分と自信のある人物ですが……」
黒田は腕を組んだまま、写真の横顔から目を離さなかった。
◆二
5月13日 8:30
定時の捜査会議には各班の班長と主だった班員が顔を揃えている。ブラインドを半分下ろした窓の向こうで、朝日を受けた向かいのビルが白く光っていた。今日の議題の中心は昨日の匿名メールだ。
黒田は概要を手短に片付けると、咳払いを一つ挟んだ。
「この件に関しては以後、新田に仕切らせる。
各班、新田の指示に従ってくれ」
「大出世ですね、班長」
誰かが茶々を入れると、会議室に軽い笑いが広がる。
「手当は1円も付かないけどな」
新田が返すと、笑いはもう一回り大きくなった。
黒田がひと睨みすると、それも直ぐに引いていく。
笑いが引き切るのを待って、新田は黒田に向き直った。
「お預かりします」
黒田が小さく頷くのを待って、新田は前に立った。
「まず、現状の確認から」
順に各班からの報告が始まる。最初に手を挙げたのは堀内だった。頬のこけた40過ぎの男で、口数が少なく、上着から煙草の匂いがする。手元の資料には付箋が隙間なく並んでいる。
「1枚目の写真、コンテナヤードの件ですが」
堀内は手元の資料をめくった。
「あの場所、数か月前に別件で一度調べています。
当時の周辺防犯カメラの配置と、管理会社の情報がウチに残っていました。既に洗い出しに着手しています」
「助かる……
データは今日中に出せるか」
「配置図は今日中にお渡しします。
洗い出しの結果は、明日の捜査会議で”ある程度のモノ”を……」
新田は頷き、次を促した。
「続いて、木村班」
木村班の班長、木村が席を立った。42歳。ずんぐりした体で、笑うと目尻の皺に目が埋もれる。公安の人間にしては妙に愛想がよく、立ち上がっただけで会議室の空気が半分ほど緩む。
「昨日振られた件名の方、調べがつきました」
木村は片手に持ったタブレットを軽く掲げてみせた。
「”Nc7+”ですが、俺も最初はエアコンの型番かと思いましたわ。
ネットで当たっても、それらしい物は何も出ません。
で、班の若いのが”これ、チェスの棋譜と違いますか?”と……」
正面の大型モニターに、チェスの盤面が映る。白と黒の升目の上で、馬の頭の形をした駒から、矢印が1本伸びている。
「チェス?」
「はい、チェスです」
”N”はナイト、将棋で言えば桂馬に近い駒で、”c7”は升目の名前、”+”は王手。ナイトをc7に跳ばして王手を掛ける手、という意味になる。木村はそこまでを手短に済ませ、タブレットを下ろした。
「これだけやと何の事か解らんので、
昨日のうちに神保町の古いチェスクラブに行って来ました。
そこの爺さんに盤を並べてもろたら、これが、ただの王手やないんですわ」
「ただの王手ではない?」
「c7に跳んだナイトは、相手のキングと、
隅のルーク……将棋で言う飛車ですわ。
その2つを同時に狙えるそうです。
”両取り”。
チェスでは”フォーク”言うそうで」
王手を掛けられた方はキングを逃がすしかない。その間に、もう片方を持っていかれる。
「つまり、王手で引き付けておいて、本命はもう片方……という事か?」
「爺さんは、そう言うてました」
木村は画面の矢印を指でなぞった。
沈黙。
「……その手に、他に何か意味は?」
新田が促す。
「初心者向けの教科書の最初の方に載っとる罠の形やそうです。
ちょっと指せる者なら、まずc7を空けん。
引っ掛からん罠は誰も仕掛けん。
せやから、今はこの形を盤の上で見る事も無い。
爺さん曰く、”忘れ去られた手”やそうで」
「木村さん、随分とお詳しくなりましたね」
堀内がぼそりと言った。
「いやぁ、クラブの爺さんの話が長いの何の……
気付いたら小一時間、盤の前に座らされてたんですやん」
木村が頭を掻きながら苦笑すると、会議室に小さな笑いが起きた。
笑いの中で新田だけが資料から目を上げなかった。
現行のフラッグシップ機と超望遠レンズで傭兵の顔を撮る男。その男が件名には今は誰も仕掛けない、教科書の最初の方に載っているような古い手を選んでいる。
――何のつもりだ?――
答えの無いまま、新田は資料の余白に”両取り”、”忘れ去られた手”と書き足した。
「件名に関しては今のところ以上です。
何か出てきたら、また上げますわ」
残りの報告に、これと言った進展は無い。木村はタブレットを脇に挟んで腰を下ろした。
新田は資料から顔を上げ、会議室を見渡した。
「ニコンの最上位機に800mmだ。
しかも、被写体は1人を除いて撮られている事に気付いていない……
個人の道楽で揃う機材じゃない。
後ろに組織がある前提で動いてくれ」
”組織”の一語で、何人かの班長が顔を上げた。
「……”1人”ですか?」
堀内が訊き返す。
「SAの3枚目だ。後で見せる」
「新田班は、堀内班が持っているコンテナヤード周辺のカメラ配置図と、
付随資料の撮影日時を基に、
同じ時刻に付近を走っていた車のドライブレコーダーの映像を集めてくれ。
トラックやタクシー、路線バスで、
映像をクラウドに残している物を中心に片っ端からだ。
入手した物は全て、徹底的にAI解析に掛ける」
「了解です。
……班長のぶんの残業もウチで引き受けときます」
新田班の飯田が、ペンを止めずに言った。今日から班を回すのは彼女だ。
「空港と駅は?」
堀内の問いに、新田は頷いた。
「堀内班で当たってくれ。
密入国の経路を考えれば、空港、港……
それに主要駅の防犯カメラも洗う必要がある。
それと、メールの12名で全部とは思うな。
手引きと運び屋を入れれば、12名で収まる訳が無い」
新田は木村の方へ向き直った。
「木村班は村上と組んで800mmの販売記録を当たってくれ。
望みは薄いが、潰しておきたい」
「了解ですわ。
爺さんの長話よりは早よ済みそうです」
「班長、販売記録、今日中に全部当たります」
件名をチェスの棋譜だと言い当てた一番若い班員、坂口が椅子から腰を浮かせている。緩く結んだネクタイの上で、細い首がワイシャツの襟の中を泳いでいる。その肩を、木村はぽんと叩いた。
「張り切らんでええ。
警察官と言うモンは、デキが悪いくらいが丁度ええ。
出世したかったら、現場よりも試験を頑張れ」
坂口は木村と同じ仕草で頭を掻いた。何人かが小さく笑い、ペン先が紙を擦る音が戻った。
「以上だ。各班、持ち場に散ってくれ」
椅子を引く音、資料をまとめる音が重なり、班員たちが次々と席を立っていく。
黒田は最後まで椅子に座ったまま、その様子を眺めていた。
「……悪くない仕切りだ」
椅子の軋みに紛れるほどの声だった。
新田は資料の余白に目を落とした。
”両取り”
――王手はどこに掛かる?
……本命は誰だ?――
お読みいただき、ありがとうございます。
次回「第一話 2. スペシャリスト(2)」




