白①
ロウゼの手前、最後の峠に川の支流が落ちていて、そこに淵ができていた。
サキは町に入る前に体を洗うことにした。四日歩いて、その前に二日雨に打たれている。杉屋を出てから一度も着替えていない。町に入って、宿の主人に「どこの子だ」と聞かれる前に、せめて匂いだけは落としておきたかった。
日暮れ前の淵は暗く、水は思ったより深かった。
服を脱いで、石を伝って入る。膝、腿、腰。
水が腰まで来たところで、サキは動けなくなった。
冷たさではなかった。水の押してくる感じだ。腿の外側を、水がゆっくり撫でて通り過ぎていく。その感触が、記憶のどこか深いところを直接押した。
――ノド湖だ。
サキは目を閉じた。
*
旅に出て四月目、初夏だった。
北の山を三つ越えて、地図にない湖に出た。
その頃のサキは、まだ焦っていなかった。触れ帳の数は八十三で、露頭は六つ潰していた。六つで八十三は悪くない数だ。旅は始まったばかりで、季節は一巡もしていない。ミオもハユもまだ帰っていなかった。
ただ、寂しくはあった。
四月も一人でいると、人は独り言を言うようになる。サキは自分が声に出して喋っていることに、ある日ふいに気づいた。誰かに話しかけていたのではない。歩数を数えたり、明日の道を確認したり、そういうことを口に出していた。気づいてから、恥ずかしくて三日やめた。三日でまた戻った。
湖は、山を下りきったところに、いきなりあった。
地図には池すら書かれていなかった。周囲は半里ほどで、対岸まで水は静かで、風がないと空をそのまま映した。北側の斜面が大きく崩れていて、土と岩が湖に半分落ち込んでいる。何年か前の崩れらしく、崩れ面にはもう草が生えかけていた。
水は澄んでいた。
サキはその日、露頭を探すのをやめた。
やめたというより、やめてもいいと思った。三つ越えた山のどれにも露頭はなく、体は疲れていて、湖はきれいで、日が高かった。人がいないところで水に入るのは、旅の子の数少ない贅沢だ。
服を脱いで、水に入った。
冷たかった。足の裏の砂が細かくて、踏むたびに白く舞い上がる。膝、腿、腰。それ以上は行かなかった。泳げないからだ。ヌカ村には泳げる深さの川がない。
しばらく立っていた。何も考えないでいた。四月ぶりだった。
顔を洗って、腕を洗って、体を洗って、それから最後に髪を洗おうと屈んだ。
屈んだ拍子に、砂が舞った。
舞った砂の下に、白いものが見えた。
*
最初は貝だと思った。
この湖に貝がいるかどうかも知らないまま、手を伸ばした。半分砂に埋まっている。指で砂を払うと、それは丸くなく、少し歪んだ形をしていた。
石だった。
サキは息を止めた。
露頭の石だ。まだ根がついている。根は砂の下へ細く伸びて、そこで途切れていた。北の崩れから、地脈ごと崩れ落ちてきたのだろう。崩れ面のどこかに露頭があって、それが崩れて、根の一部を残したまま湖に落ちた。
そういう石がごく稀にあることは知っていた。「落ち石」と呼ばれる。落ち石でも、根が湖底の土と繋がっていれば生きている。
サキは水の中に膝をついた。
水は胸まで来た。冷たくて、腕に鳥肌が立っていた。手袋はない。素手だ。ちょうどいい。指はもう十分に冷えている。
白い石だった。人の親指ほど。
触れた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
――温い。
サキは指を離さなかった。離す前に、もう一度確かめようとしたのではない。動けなかっただけだ。
温みは指先から来た。爪の付け根のあたりが、じんわりと。人の肌に触れたときの温かさとは違う。もっと内側で、皮膚の下の、血の通っているところが直接温められている感じだった。温みは指の腹の内側を伝って、第二関節まで来て、そこで止まった。
四つは数えなかった。
数える必要がなかった。四つ数えて温くなる感じというのを、サキはこの後、何百回も試すことになる。試して、毎回、はっきり違うと確認した。あれは指が石に馴染むだけだ。これは、石が指に返してくる。
サキは石を握った。
根が離れた。
抵抗はなかった。切れた感じも、抜けた感じもない。ただ、握った瞬間には、もう掌の中で自由になっていた。適合した石は、そうやって落ちる。
サキは水から立ち上がった。
立ち上がって、そのまま、しばらく何もできなかった。
*
岸に上がって、服を着て、荷のところに座った。
石を日にかざした。
白い石は、光を通してうっすらと青かった。中に細かい筋があって、角度を変えると筋が動いて見えた。何の能力かはわからない。取り込むまではわからない。
サキは触れ帳を出した。
八十四、と書いた。
書いてから、その横に何を書けばいいのかわからなくなった。見つけた者は色を書く。〈白〉と書けばいい。書けばいいのだが、その一文字を書いてしまうと、何かが確定してしまう気がした。
結局、その日は書かなかった。
夕方まで、湖のそばにいた。
石を掌に載せて、指で転がして、日に透かして、また握った。何度もやった。飽きなかった。
そして、帰り道のことを考えた。
ここから村までは、まっすぐ歩けば二十日ほどだ。街道に出て、南へ下って、ハナレを通って、それから西へ。宿の壁に書ける。〈サキ ヌカ村 夏 百十九日 白〉。百十九日なら、悪くない。
村に入ったら、まず誰に会うか。
畑の脇の道から入るから、たぶん最初に会うのはミオの父だ。「おう」と言われる。サキは何も言わずに掌を開く。ミオの父が大きな声を出して、それで村中に知れる。
ミオが走ってくる。ハユも。カイも。みんなが石を見たがる。白だ、白だぞ、と誰かが言う。白は稀だ。三年に一人出るかどうかだ。見立てなしと言われた子が白を持って帰ってきたという話は、村で何年も語られる。
村長が触れ帳を見る。日付を読み上げる。
そして、母が。
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