白②
そこで、詰まった。
母がどうするのか、思い浮かばなかった。
喜ぶのだろう。たぶん。あの人なりのやり方で、たぶん喜ぶ。だが、その顔が浮かばなかった。何度やっても、母のいるところだけが白く抜けた。
サキは石を握り直した。
それから、もっと妙なことに気づいた。
いま自分が思い描いた場面の中で、誰も、何も聞いていない。
露頭を六つ潰したことも、山を三つ越えたことも、雨で三日足止めされたことも、独り言を言うようになったことも、誰も聞かない。掌を開いた瞬間に全部終わる。石が出たら、そこまでの百十九日は、石が出るまでの時間になる。
それは当たり前のことだった。旅とはそういうものだ。誰の旅もそうやって終わる。ハユの旅も、ミオの旅も、村の大人全員の旅も、そうやって終わった。誰も自分の旅の中身を語らない。語ることがないからではない。聞かれないからだ。
サキは湖を見た。
水が静かで、対岸の木がそのまま逆さに映っていた。
――これじゃない。
その言葉が、どこからともなく出てきた。
自分で考えて出した言葉ではなかった。腹の底に、前からあったものが浮いてきた感じだった。
何が違うのか。何と比べて違うのか。
わからなかった。
わからないまま、その言葉だけがはっきりしていた。
*
日が落ちるまで、サキは同じところに座っていた。
村では、適合のことを縁と言う。
地脈が人を選ぶのだ、と年寄りは言う。だから焦らなくていい、縁のある石は必ずどこかで待っている、と。旅立つ子はみんなその話を聞かされて出る。実際、それを信じていないと五百日は歩けない。
サキは掌の石を見た。
この石は、崩れて落ちてきた石だ。
北の斜面が崩れなければ、この石は今も崖の中にある。崩れたのはたぶん数年前で、たまたま根の一部が湖底の土に届いて、たまたま生き延びた。
そして自分は、三つ山を越えて、露頭がひとつも見つからなくて、疲れて、この湖に出て、探すのをやめて、泳げないくせに水に入って、髪を洗おうと屈んで、砂を舞い上げた。
どこにも必然がない。
もしこれが偶然なら――と考えかけて、サキはその先を止めた。
止めたのに、勝手に続いた。
もし偶然なら、自分に適合する石は、他にもあるのではないか。
ない。掟がそう言っている。適合する石は生涯にひとつ。ひとつしかないのだから、この石だ。この石以外にない。
だとすれば、逆になる。
崩れも、湖も、越えた山も、見つからなかった露頭も、疲れて水に入ったことも、髪を洗おうと屈んだことも、全部この一個のためにあったことになる。生まれる前から、この石は自分を待っていたことになる。
サキは自分の膝を見た。
どちらでも同じくらい、息が詰まった。
偶然だとすれば、自分の五百日は無意味な歩き回りになる。必然だとすれば、自分は生まれる前から行き先が決まっていたことになる。
その真ん中に、自分で決めたと言える場所が、どこにもない。
*
暗くなってから、サキは石に向かって喋った。
独り言の癖はもう戻っていたから、口が動くのは自然なことだった。今日の道のことや、明日の道のことを喋るのと同じ調子で、喋った。
「あんた、何ができるの」
石は何も言わない。
「水かな。ここにいたし」
サキは笑った。笑ってから、火のはぜる音しかしないのに気づいた。
「白って稀なんだよ。知ってた?」
しばらく黙って、石を握り直した。
「三年に一人だって」
風が水面を渡って、木の葉が鳴った。
サキは、次に自分の口から出た言葉を、その後ずっと覚えていることになる。
「――あんたでいいの」
言ってから、体が冷えた。
自分が何を聞いたのか、少し遅れてわかった。
石に聞いたのではなかった。
石に、自分でいいのかと聞いたのでもなかった。
自分に、この石でいいのかと聞いていた。
聞いていいことではなかった。四百七十二個触った今でも、それは聞いていいことではない。適合とは、選ぶものではない。温むか、温まないかだ。石が答えを出し、人はそれに従う。従うから、掟が成り立つ。
選べると思った時点で、サキはもう、村の子ではなくなっていた。
*
取り込み方は簡単だ。
握って、握ったまま眠る。それだけだ。朝には掌に何もない。子どもでもできる。だから子どもが死ぬ。
サキは夜まで待って、火のそばに横になった。
石を右手に握った。
目を閉じた。
――眠れなかった。
眠くならないのではない。四月歩き続けた体は、いつでもすぐ眠る。なのに、握った手に力が入って、そのたびに目が覚めた。
夜半に一度、火を足した。石はまだ手の中にあった。
空が白み始めるころ、サキは起き上がった。
考えはまとまっていなかった。まとまるのを待っていたら、たぶん朝までに取り込んでいた。
服を脱がずに、そのまま水に入った。
腰まで来て、屈んで、砂を探った。昨日の窪みはもう埋まりかけていたが、位置は覚えていた。指で砂を掻いて、少し深くして、そこに石を置いた。
砂をかけた。
根は、もう繋がらない。
適合した石は、握った時点で根が離れる。離れた石は、どこに置いても二度と生きない。この石は、もう誰にも適合しない。ただの白い石になった。サキが戻したせいで、そうなった。
誰かのために残したのではない。壊したのだ。
わかっていて、砂をかけた。
水から上がって、火を消して、荷を担いだ。
湖を出るとき、一度だけ振り返った。水は静かで、どこに置いたのかもう見分けがつかなかった。
*
その後の三日、サキは石に触らなかった。
露頭を二つ見つけて、二つとも登らずに通り過ぎた。
四日目に、また触り始めた。八十五個目は灰色で、冷たかった。冷たいのを確かめたとき、体の力が抜けて、その場に座り込んだ。
安堵していた。
そのことに気づいたとき、サキは初めて自分が怖くなった。
*
淵の水が、腰のあたりを撫でて流れていく。
サキは目を開けた。
空はもう暗く、峠の上に星が出ていた。下の方に、ロウゼの灯りが並んでいる。
一年と二月前のことだ。あれから四百近く触った。二度目もあった。理由はいまだに言えない。
言えないまま、ここまで来た。
水から上がって、体を拭きながら、サキはもう一度、あの朝のことを考えた。
砂をかけた瞬間のことだ。
あのとき、悲しくなかった。惜しくもなかった。
――一度も、後悔していない。
それが、いちばん怖い。
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