杉屋②
翌朝、ユイに袖を引かれた。
「ねえ、教えてほしいんだけど」
宿の裏手の空き地で、ユイは河原の石を三つ並べていた。ただの石だ。地脈のものではない。
「触り方。合ってるか見てほしい」
サキは屈んで、ユイのやることを見た。
ユイは石に人差し指を当てて、目を閉じた。当て方は悪くない。指の腹を使っている。ただ、当てる前に両手をこすり合わせていた。
「それ、だめ」
「え」
「手を温めちゃだめ。冷ましてから触る」
「あ……そうだった。母さんもそう言ってた」
「あと、あなた、今いくつ数えた」
ユイは黙った。
「数えてなかったでしょう」
「なんとなく、じっとしてれば分かるかと思って」
「三つ数える」サキは言った。「ひとつ、ふたつ、みっつ。それで離す」
「四つは?」
「数えない」
ユイは首をかしげた。サキは自分がこれから言うことを、村で何度も聞かされたのを思い出した。今度は自分が言う番だった。
「四つ数えると、温い気がしてくるから。指の方が石に慣れちゃうの」
「……それって」
「そう。慣れたのを、適合したと思い込む」
ユイの顔から表情が消えた。二十日目の子どもが、自分の死に方をひとつ知った顔だった。
サキは言い方を間違えたかと思ったが、間違えていないはずだった。この話を柔らかく言い直して伝わらなかったら、その子は死ぬ。
「ごめん」ユイが小さく言った。「怖くなった」
「怖くていい」
サキは河原の石を拾って、ユイの手に載せた。
「怖いまま、三つ数えて、離す。それを何百回もやるだけ」
ユイは石を握って、しばらく黙っていた。それから、ふいに顔を上げた。
「あなた、いい先生だね」
サキは返事をしなかった。
教えられる側だったはずの自分が、いつのまにか教える側に回っている。それが何を意味するかは、考えないことにした。
*
大部屋の壁の落書きを、その日の午後、初めてきちんと読んだ。
これまで何度もこの部屋に泊まっているのに、読んだことがなかった。読まないようにしていたのだと思う。
名前と、村と、日付。それだけのものが百以上ある。古いものは炭が薄くなって消えかけている。
〈ソウ ミナミ村 夏 二百三日 緑〉
〈ハル サト村 春 四十一日 灰〉
〈クイ ヒノ村 秋 九十日 白〉
最後の一文字は石の色だ。見つけた者だけが書ける。
サキは端から順に読んで、日数の一番大きいものを探した。三百八十六日というのがあった。〈ノブ ヤナギ村 冬 三百八十六日 赤〉。
三百八十六。
サキの五百日より、百日以上短い。
壁を隅から隅まで見た。五百を超える数字は、ひとつもなかった。
当たり前だ、とサキは思った。この壁に書けるのは、見つけた者だけだ。見つからなかった者の日数は、どこにも書かれない。ヨウの十一年も、飯屋の男の千も、この壁のどこにもない。
書かれているものだけを見れば、旅は長くても一年で終わることになっている。
サキは荷から炭を出しかけて、やめた。
書くことがなかった。
*
杉屋の土間には便り棚がある。
旅の子は行く先が決まらないので、村からの手紙は街道の宿に預けられる。名と村を書いた紙が挟んであり、本人が来たら渡す。半年も一年も残ることがある。
サキは自分の名を見つけた。
ミオの字だった。
部屋には戻らず、宿の裏の井戸端に座って開いた。
文面は短かった。石が見つかったこと。淡い緑で、水を動かすこと。桶に手をかざせば水が上がってくるので、家の者が喜んでいること。成人の祝いをやったこと。ハユもカイも来たこと。
それから、こう書いてあった。
――帰ってきてもいいよ。
サキは二度読んだ。
悪意はない。ミオはそういうことを考えない子だ。石がなくても村は困らないし、あんたが帰ってきたら私は嬉しい、という、それだけの意味だ。それはわかっている。
わかっているのに、紙を持つ指が冷たくなった。
帰ってきてもいい。つまり、もう帰ってきていい段階だと、ミオは思っている。まだ探すべきだとは思っていない。石を見つけたミオから見て、サキの旅はもう「そういうもの」になっている。
最後に一行、追伸があった。
――おばさん、この頃、寄合に来ないよ。
サキは紙を畳んで、懐に入れた。
井戸の水を汲んで、顔を洗った。冷たかった。指先が冷えて、判定によく効きそうだと思って、それが自分でもおかしかった。ここには石なんかない。
*
その晩、サキは大部屋に戻らず、土間の隅で火に当たっていた。
杉屋の女主人はウメという婆で、耳が遠いと言い張っているが、都合の悪いことだけ聞こえないだけだと番頭がこぼしていた。ウメは火の向こうで芋の皮を剥いていた。
「ヌカ村の子だってね」
聞こえていた。
「はい」
「懐かしい名だ」ウメは手を止めずに言った。「昔、ヌカ村の子がうちに長いこといたよ」
サキは顔を上げた。
「旅の子ですか」
「旅の子さ。ヨウという名でね。器量のいい娘だった」
ウメは芋を桶に落とした。
「十一年いた」
薪が爆ぜた。
「十一年」
「二年目から普通に宿代を払ってね。冬は台所を手伝わせて、その分安くしてやった。春になるとまた出ていく。毎年だよ。九年目くらいから、こっちも何も聞かなくなった」
「……見つかったんですか」
「見つからんかった」ウメは言った。「二十六の年に、村に帰った」
サキは膝の上で指を組んだ。
二十六。旅を始めて十一年。それから村に帰ったということは、無相として帰ったということだ。
「その人は」
「死んだよ。何年前になるかね。四十いくつだったか」ウメは新しい芋を取った。「無相のまま。婿も取らなんだ」
火が小さくなって、ウメが枝を足した。
サキはその話を、ずっと前から知っている気がした。ヌカ村で無相として死んだ女の話は、村でも聞いたことがある。三代前の村長の妹だ。名前までは覚えていなかった。ヨウ。
村では、根気の足りなかった人の話として語られていた。十一年も探して見つからないなんてことはないのだから、途中でやめていたのだろう、と。
「根気がなかったんだって、村では言われてます」
ウメは初めて手を止めて、サキを見た。
耳の遠い婆の目ではなかった。
「そうかい」
そう言ってから、ウメはしばらく黙って芋を剥いた。剥き終えて、桶を脇に置いてから、独り言のような調子で言った。
「あの娘はね。十年目の秋に、一度だけ、うちの台所で泣いてたよ」
サキは動かなかった。
「何かあったのか聞いたらね」
ウメは火を見た。
「見つけたのに、持って帰れなかった、と言った」
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基本的には1日2話を18時と20時に分けて更新して行く予定としております!!
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