杉屋①
ハナレは街道が三つに分かれるところにあって、町というより宿の集まりだった。
北から降りてきた道と、東のロウゼへ抜ける道と、南の平地へ下る道。その交わりに宿が七軒、飯屋が四軒、あとは荷を扱う店と、馬の世話をする納屋がいくつか。住んでいる者より泊まっている者の方が多い。
サキは雨に二日打たれたあと、三日目の昼に着いた。
靴の中が濡れて、足の指の皮が白くふやけている。歩くたびに擦れて痛んだが、宿の前まで来ると、痛みより先に匂いのことを考えた。飯の匂いだ。街道沿いの飯屋から、脂と葱と、煮詰めた醤の匂いが流れてくる。
立ち止まって、しばらくそれを嗅いだ。それから財布の重さを掌で量った。
杉屋は一番奥の、一番古い宿だった。旅の子はたいていここに泊まる。理由は簡単で、ここが一番安いからだ。
土間に入ると、番頭のヤスが帳面から顔を上げた。四十くらいの、額の広い男だ。
「おかえり」
この宿の番頭は、初めての客にもそう言う。
「泊まります。三晩」
「名は」
「サキ。ヌカ村の」
ヤスは帳面を繰った。数十枚めくって、指を止めた。
「去年の秋に一度、今年の春に一度だな」
「はい」
「旅立ちは」
「去年の春です」
ヤスの手が止まった。止まったのは一瞬で、それから何事もなかったように帳面に書き込みを始めた。
「一年半か」
「はい」
「半額は二年までだ。知ってるな」
「知ってます」
旅の子は宿代が半額になる。街道沿いの宿はどこもそうしている。掟ではなく、ただの習わしだ。石を探しに出た子どもを宿が食わせるのは、当たり前のこととされている。
ただし二年まで。
二年を過ぎた者は普通に払う。理由を聞いたことはない。聞かなくてもわかる。二年を過ぎた者を安く泊め続けたら、宿は旅の子で埋まって潰れる。
残り六月。
ヤスは書き終えて、木札を寄越した。
「奥の大部屋だ。今日は四人いる」
「四人」
「みんな新しいのばかりだよ」
ヤスはそう言ってから、言い方を悔いた顔をした。サキは木札を受け取って、頭を下げた。
*
大部屋は板間に藁の寝床が並んでいるだけの部屋で、荷を置く棚もない。壁に古い落書きがある。名前と村の名と、日付。石を見つけた子が帰り道に書いていくのだと聞いた。
四人はみんな十五だった。
一番賑やかなのがユイという娘で、南の村を出てまだ二十日だという。荷が重すぎる。見ればわかる。鍋を二つも担いでいる。
「あなた、何日目?」
ユイはサキが荷を下ろすなり聞いてきた。
「五百日くらい」
部屋が静かになった。
サキは言ってから、まずいことを言ったと思った。日数で答えるのはよくない。旅の子は日数ではなく、村を出た季節で答えるものだ。五百日という数は、口に出すと生々しかった。
「……すごいね」ユイが言った。「じゃあ、いくつ触ったの」
サキは荷を解く手を止めなかった。
「百くらい」
嘘だった。
なぜ嘘をついたのか、その場ではわからなかった。夜になって、寝床で天井を見ているときにわかった。四百七十二と言えば、この子たちは自分と同じ道が五百日あることを知ってしまう。それが可哀想だから――というのは半分で、もう半分は、憐れまれたくなかったからだ。
「百」ユイは目を丸くした。「私、まだ十一なんだけど」
「二十日でしょう。上等」
「ほんと?」
「うん」
ユイは嬉しそうに鍋を磨き始めた。磨かなくていい。持ってこなくていい。そう言おうとして、やめた。二月もすれば自分で捨てる。
*
飯屋の隅で、汁と麦飯だけを頼んだ。銅貨三枚。
勘定を済ませて出ようとしたとき、入れ違いに男が入ってきた。
三十半ばか、もう少し上か。日に焼けて、髭は剃ってあるが眉が長い。荷は小さく、体に馴染んでいた。革の手袋をしていて、その指先が切り落としてあった。
サキは足を止めた。
目を合わせるな、と教わった類の人だった。
男の方が先に会釈した。サキも会釈を返してしまい、そのまま流れで、同じ卓に座ることになった。男は汁と、麦飯と、それから酒を頼んだ。旅の子は酒を飲まない。飲まないのではなく、旅の子には売らない。
「北か」男が聞いた。
「はい」
「東は俺が三年前に回った。ロウゼの手前に露頭が二つある。西向きの崖の、低い方は取られてる」
サキは礼を言いかけて、言葉を飲んだ。
取られてる。
露頭の石は、適合した者が一つ持っていく。それを「取られてる」とは言わない。「出た」と言う。あそこの露頭からは出た、と。取られたという言い方は、ないものを掘られたときの言い方だ。
「掘ってあるんですか」
男は酒を舐めて、少し笑った。
「気づくか」
「北の崖にもありました。鑿の跡が五つ」
「そうか」
それきり男は掘り跡の話をしなかった。サキも聞かなかった。聞いてはいけないことのような気がした。
汁を飲み終えるころ、サキは我慢できずに聞いた。
「あの……何日目ですか」
男は箸を置いた。
「数えるのをやめた」
サキは黙った。
「二年目までは数えてた。三年目に触れ帳を焼いた。焼いたら、ずいぶん楽になった」男は言った。「今でも露頭は探す。見つけたら触る。だが、数えない。数えると、次に触るのが怖くなる」
「……怖い」
「四百も触れば、次の一つが冷たいのは、もうわかってる。わかってて触るのは、なかなかきついぞ」
サキは自分の手を見た。爪の割れた、皮の厚くなった手。
「今、いくつなんですか」
「知らん」男は本当に興味がなさそうだった。「たぶん千は超えてる」
千。
サキは何か言おうとして、言葉が出なかった。慰めも、励ましも、この人には要らない。要らないものを差し出すのは失礼だ。
男は勘定を置いて立ち上がり、去り際に言った。
「無理に温めるなよ。指を」
「――はい」
「四つ数えたくなったら、その日はやめて寝ろ」
男が出て行ったあと、サキは冷めた汁の底を見ていた。
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