四百七十二②
崖を降りきったときには、日は落ちていた。
昨夜の焚き火の跡は湿っていたが、灰の下はまだ乾いていた。サキは枯れ枝を集めて火を起こし、革袋の水を沸かして、干し肉を放り込んだ。塩の抜けきった肉で、噛むと繊維が歯の間に残る。パンは三日前に切れていた。
火の向こうに、山が黒く並んでいる。
旅に出て、最初の三月は楽しかった。本当のことだ。誰も自分を知らない土地を歩いて、宿の主人に「どこの子だ」と聞かれて「ヌカ村です」と答えるたびに、自分が一人の人間として扱われている気がした。村では誰かの娘で、誰かの同期で、誰かの隣の家の子だった。旅ではただのサキだった。
半年で、それはどうでもよくなった。
一年で、宿の主人が「どこの子だ」と聞くのは、まだ石を持っていない子どもだと一目でわかるからだと知った。石を持っている者は、聞かれない。
六人で村を出た。
最初に帰ったのはハユだ。三月目。火を大きくする石で、鍛冶の家の子だったから、村中がよくできた話だと言った。二人目のカイが六十三個目で帰り、三人目と四人目は同じ月に帰ってきたと手紙で知った。
五人目はミオだった。先月、宿場町で聞いた。淡い緑の、水を動かす石。手を洗うのにも困らない、と笑っていたという。
残りは、サキひとりだ。
旅には期限がない。それがこの掟のいちばんたちの悪いところだ。三年で切られるなら三年戦えばいい。だが期限はない。四十を過ぎて旅を続けている者もいると聞く。どこかの町で見かけたら、目を合わせるなと教えられる。無相と呼ぶのも、旅の途中の者には失礼だからだ。旅を続けている限り、まだ無相ではない。
だから誰も、いつやめろとは言わない。
サキは肉を噛みながら、地図を広げた。
北の露頭は、あらかたやった。地脈は北で細く、南で太い。細いところの方が石は古く、古い石は重い。だから北から回った。それは正しかったはずだ。三十七の露頭を潰して、四百七十二。
指が、地図の東の端で止まる。
ロウゼ。
鉱山町だ。ここだけは行かないと決めていた。
鉱山町の石は、地脈から掘り出されたものだ。露頭のように自分で見つけて自分で触るのではなく、掘られ、運ばれ、布を敷いた台に並べられ、値がつけられる。買い手は判定を頼む。適合師が立ち会い、指先が温むかどうかを見て、証をつける。証のついた石だけが売れる。
つまり、金で買える。
村の年寄りは、市の石で大人になった者を軽んじる。自分の石は自分の足で見つけるものだと言う。だが実際には、市で買った石でも掟の上は何も変わらない。帳面に日付が入り、大人になる。ただ、村に帰ってから一生言われるだけだ。あれは買った石だと。
サキが行かないと決めていた理由は、それではなかった。
適合師が嫌いだから、と自分では思っていた。人の指ばかり見ている、あの目が嫌いだ。村に来ていた適合師の顔もはっきり覚えている。痩せた女で、ケイという名で、判定のとき、サキの手を他の子より少しだけ長く見た。
だが本当は、そうでもない。
サキは干し肉の最後のひと切れを飲み込んで、火に枝を足した。
本当の理由は、もっと簡単だ。市に行けば、判定を頼まなければならない。判定を頼めば、結果が出る。結果が出れば、旅が終わる。
――終わるのが、怖い。
言葉にしてしまうと、あまりに情けなかった。四百七十二個も石に触っておいて、旅が終わるのが怖いとは何事か。
サキは火を見ていた。
情けないついでに、もうひとつある。こちらは誰にも言っていない。母にも、ミオにも、宿で同じ部屋になった旅の子にも、一度も。
サキは、二度、指先が温むのを感じている。
一度目は、旅に出て四月目だった。
北の湖の、岸から十歩ほどの浅瀬。水は膝までしかなくて、底の砂の上に、白い石が半分埋まって光っていた。露頭ではなかった。崖が崩れて、根ごと水に落ちたのだろう。そういう石はごく稀にある。
サキは水に入って、屈んで、触れた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
温かった。
爪の付け根から、指の腹の内側へ、じんわりと。間違えようがなかった。四つは数えなかった。数える必要がなかった。
石はサキの手の中に落ちた。根が離れた。適合した石は、そうやって落ちる。
サキはそれを日にかざした。白い石は、光を通してうっすらと青かった。何の能力かはわからない。取り込むまではわからない。わからないまま、十六年ぶんの人生の全部が、この掌の上にあった。
それから、水に戻した。
石は同じ場所に沈んで、砂を少し巻き上げて、また半分埋まった。根はもう切れているから、二度と誰にも適合しない。ただの白い石になった。
サキは水から上がって、靴を履いて、歩き出した。
なぜそうしたのか、あのときも今も、説明できない。
二度目は去年の冬だ。雪をどけて掘り出した黒い石で、同じように温んで、同じように掌に落ちて、同じように置いてきた。今度は雪の下に戻した。埋め直しながら、自分は頭がおかしいのかもしれないと本気で思った。
理由を言葉にしようとすると、いつも同じところで止まる。
これじゃない。
その感じだけが、腹の底に、石みたいに沈んでいる。
*
村を出た朝のことを、サキはよく思い出す。
十五の春、六人が広場に並んだ。村長が口上を述べる。石を探せ、見つけろ、持って帰れ。三つしか言わない。短いのが自慢の口上で、村長は毎年、去年より短くできたかどうかを気にしていた。
その後、家の者が荷を渡す。ハユの父親は鍛冶の道具を持たせようとして、母親に止められていた。カイの家は餞別に銅貨を持たせた。ミオの母は泣きながら饅頭を十個も押しつけていた。
サキの母は、触れ帳を渡した。
それだけだった。他の家は村から配られた帳面のほかに、何かしら持たせていた。サキの母は帳面を差し出して、サキがそれを受け取って、それで終わりだった。
変な人だとは思わなかった。母は昔からそういう人だった。言葉が少なく、村の寄合でも隅にいて、旅の話も石の話もしなかった。父が死んだ年の冬も、泣いているところを一度も見なかった。
ただ、荷を担いで歩き出したとき、母が何か言いかけたのはわかった。
サキは振り返らなかった。振り返ると出られなくなる気がした。
だから母が何を言おうとしたのかは知らない。行ってこい、だったのかもしれない。無理をするな、だったのかもしれない。旅の途中で何度も、あの言いかけた口の形を思い出しては、勝手に言葉を当てはめて、そのたびに違う気がしてやめた。
――あるいは、母は何も言おうとしていなかったのかもしれない。
そう考える方が、なぜか腑に落ちることがある。
*
夜半、雨が来た。
サキは油布を被って、火を諦めて、岩の窪みに背を丸めた。雨は冷たく、油布の縫い目から首筋に一筋だけ落ちてきて、どうやっても止まらなかった。
目を閉じると、崖の鑿の跡が浮かんだ。
誰かが石を掘っている。適合していない石を、根ごと。持ち出しても何にもならないものを、五つ。
わからない。だが、わからないことがひとつ増えたのは悪くなかった。少なくとも、四百七十三個目のことを考えずに済む。
夜が明けたら東へ行く。ロウゼまで八日。
行って、市を見るだけ見る。判定は頼まない。ただ見るだけだ。
そう決めてから、サキは自分に嘘をつくのがずいぶん上手くなったな、と思った。
雨の音の向こうで、地脈の匂いがまだしていた。鉄と、焦げた砂糖。もう三日も嗅いでいるのに、慣れなかった。この匂いだけは、どれだけ嗅いでも慣れない。
――四百七十二。
そのうち、温んだのは二つ。
誰も知らない。
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