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第5話 知らないはずの涙

『おむすび姫 ―時をむすぶ、ひとつのおむすび―』

第5話 知らないはずの涙


「……誰?」


むすびは胸に手を当てたまま、辺りを見回した。


けれど、答えたのは誰でもなかった。


景綱は眉をひそめ、志乃は心配そうにむすびの顔を覗き込む。


「結、何が聞こえたのです?」

「……分かんない」


本当に分からない。


ただ、さっき確かに聞こえた。


――お父上。


自分の声ではない。

でも、自分の身体の中から聞こえた。


「やっぱり医師を呼ぶ」


景綱が言う。


「だから病気じゃないってば!」


むすびが声を上げると、また家臣たちの肩が揺れた。


「何がおかしいの!」

「誰も笑ってはおらぬ」

「笑ってるじゃん!」


景綱が眉間を押さえた。


「結よ……」


「殿」


低く落ち着いた声がした。


部屋の入口に、一人の男が立っていた。


五十ほどだろうか。

日焼けした顔。無駄のない体つき。左の眉の上に古い傷。


他の家臣たちとは違い、むすびを見ても笑っていない。


むしろ、真剣に観察していた。


「宗兵衛」


景綱が呼ぶ。


男は深く頭を下げた。


「姫様のお加減、私にも見させていただけませぬか」


「……お医者さん?」


「医師ではござらぬ」


「じゃあ何?」


男はほんの少しだけ口元を緩めた。


「榊宗兵衛(さかき・そうべえ)。姫様が幼き頃より、お側を守っております」


むすびは宗兵衛を見つめた。


知らない。


初めて会う。


――はずなのに。


胸の奥が、ふっと温かくなった。


懐かしい。


まただ。


むすびは思わず宗兵衛へ一歩近づいた。


「……宗兵衛?」


「はい」


その名を口にした瞬間。


頭の中に一瞬だけ、映像が走った。


小さな女の子。


転んで膝を擦りむいて泣いている。


『姫様、これしきで泣いておられては、立派な姫君にはなれませぬぞ』


そう言いながら、怖い顔の宗兵衛が不器用に少女を背負う。


『でも痛い……』


『存じております』


次の瞬間、映像は消えた。


「……っ!」


むすびはよろけた。


宗兵衛がすぐに腕を支える。


「姫様!」


「今……」


「どうされました」


「私、知らないのに……」


宗兵衛の手。


この感触を知っている。


そんなはずない。


「宗兵衛さん、私が小さい時、転んだことある?」


宗兵衛の目が大きくなる。


「ございます。五つの頃、裏庭の石段で」

「膝、怪我した?」

「左膝を」

「……背負ってくれた?」


部屋が静まった。


宗兵衛の顔から笑みが消える。


「姫様……それを覚えておいでで?」


むすびは首を振った。


「覚えてない。でも、今見えた」


景綱と志乃が顔を見合わせる。


むすびは怖くなった。


これは夢じゃないのかもしれない。


そう思った瞬間、急にここにいること自体が怖くなる。


「外……行きたい」


「なりませぬ」


景綱が即答した。


「なんで!」

「おぬしは今、様子がおかしい」

「おかしいおかしいって言わないでよ!」


「姫様」


宗兵衛が穏やかに言う。


「では、私がお供いたしましょう」


景綱が睨む。


「宗兵衛」

「城の中だけにございます。風に当たれば少し落ち着かれましょう」


志乃も小さくうなずいた。


景綱はしばらく黙り込み、やがてため息をついた。


「……城外へは出るな」

「はいはい」

「はいは一度でよい」

「はい!」


宗兵衛が小さく咳払いした。


笑ったのだ。


*


榧ヶ嶺城(かやがみねじょう)は、むすびが想像していた「お城」とは少し違った。


大阪城や姫路城みたいな大きな天守閣はない。


山の斜面を利用して建物や柵があり、ところどころ土の壁と木の門が続いている。


高い場所から見ると、その下に小さな集落が広がっていた。


「ここ……どこ?」


「榧ヶ嶺城にございます」


「かやがみね……」


その名を聞いた瞬間。


また胸の奥が反応した。


知っている。


知らないのに。


宗兵衛について歩く。


角を曲がる前に、なぜか身体が勝手に右へ向こうとする。


「そっち?」


宗兵衛が首をかしげる。


「あ……いや」


その先には井戸があった。


なぜ知っている?


石段を下りる時には、三段目だけ少し欠けていることを足が覚えていた。


むすびはますます混乱した。


やがて炊事場の近くへ来る。


鼻をくすぐる匂い。


「ご飯……」


むすびの顔がほころぶ。


しかし覗き込んで、表情が変わった。


大きな釜の中にあるのは、見慣れた白いご飯ではない。


米に、麦や粟のようなものが大量に混ざっている。


しかも量が少ない。


女たちが小さな椀へ慎重に分けていた。


「これだけ?」


宗兵衛が黙る。


「もっと炊かないの?」


「……炊きたくとも、米がございませぬ」


むすびは宗兵衛を見る。


「ない?」


「今年は雨が少なく、田も畑も実りませなんだ」


炊事場の向こうで、一人の小さな男の子が椀を受け取っていた。


ほんのわずかな雑穀飯。


男の子は嬉しそうに両手で抱える。


その隣に、もっと小さな妹がいる。


男の子は自分の椀を見つめたあと、半分ほど妹へ分けた。


「……」


むすびは何も言えなくなった。


昨日まで、自分は店の余ったおにぎりをどうするか考えていた。


売れ残れば、家族で食べることもある。


それでも余れば、残念だけど処分する日だってある。


ここでは。


一粒の米が、まるで宝物みたいだった。


「榧谷(かやだに)は、まだ良い方にございます」


宗兵衛が言った。


「これで?」


「峠の向こうは、もっとひどい」


「……峠の向こう?」


「深守谷(ふかもりだに)」


その言葉を聞いた瞬間。


胸の奥で、誰かが悲しんだ。


むすびは遠くの山を見た。


風が吹く。


乾いた風だった。


山々の緑の中に、茶色く枯れた田畑が見える。


「みんな……お腹空いてるんだ」


むすびが呟く。


宗兵衛は答えなかった。


ただ、その横顔はとても重かった。


その時。


炊事場の子どもが、手にした椀を滑らせた。


「あっ!」


雑穀飯が土へこぼれる。


男の子の顔が真っ青になった。


周囲の大人たちも動きを止める。


むすびは反射的に駆け寄った。


男の子は地面へ膝をつき、泥のついた飯粒を必死に拾い始めた。


「待って、汚れてるよ!」


むすびが止めようとすると、男の子はその手を振り払った。


「食べられます!」


その叫びに、むすびの手が止まる。


男の子は泥のついた飯粒を一粒、一粒拾った。


泣きそうな顔で。


「食べられますから……」


むすびは何も言えなかった。


胸が苦しくなる。


そして。


また、自分のものではない涙が頬を伝った。


――お願い。


今度は声ではない。


気持ちだった。


誰かが、この世界でずっと願っていた。


――みんな、お腹いっぱい食べられたらいいのに。


むすびは胸へ手を当てる。


「……結ちゃん?」


返事はない。


けれど。


胸の奥で、小さな鼓動が重なった。


---


『おむすび姫 ―時をむすぶ、ひとつのおむすび―』


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