第4話 パパじゃない!
『おむすび姫 ―時をむすぶ、ひとつのおむすび―』
第4話 パパじゃない!
「何を申しておる」
低い声だった。
見慣れているはずの顔から、聞いたこともない声が出てくる。
むすびは固まった。
目の前の男は、どう見てもパパだった。
でも違う。
あのパパなら、娘から「パパ!」と呼ばれたら、
『どうしたん? 怖い夢でも見た?』
くらい言うはずだ。
こんなふうに腕を後ろで組んで、怖い顔で睨んだりしない。
腰には刀。
後ろには何人もの男たちが控えている。
むすびは、ごくりと唾を飲んだ。
「……殿様?」
男の眉間に、さらに深いしわが寄った。
「結」
「はいっ!」
「先ほどから何を申しておる」
むすびは男の顔を指さした。
「だって、パパと同じ顔してるし!」
部屋の空気が止まった。
後ろに控えていた男たちが一斉に顔を上げた。
「……ぱぱ?」
誰かが小さく呟いた。
「何だ、それは」
「知らぬ」
「異国の言葉か?」
男のこめかみがぴくりと動く。
「……ぱぱ、とは何だ」
「パパはパパだよ!」
「だから何なのだ!」
「お父さん!」
男は一瞬黙った。
「……父、ということか」
「そう!」
「ならば最初から父と申せ!」
「いや、いつもパパって呼んでるから!」
男の目が細くなる。
「おぬしが、我を?」
「違う違う! あなたじゃなくて、私のパパ!」
「だから我はおぬしの父だ!」
「そうじゃなくて!」
「何がそうではない!」
「顔は同じだけど中身が違うの!」
また部屋が静まり返った。
「……」
むすびは、言ってから気づいた。
かなり失礼だったかもしれない。
「えーっと……」
男がゆっくり息を吐く。
「結。熱でもあるのか」
額に手を伸ばされる。
むすびは反射的に一歩下がった。
男の手が止まった。
顔はパパなのに、怖かった。
「いや、その……ちょっと寝ぼけてるだけです!」
「ねぼけ……?」
「寝起きで頭がぼーっとしてて!」
男の顔が険しくなる。
「何だ、その物言いは」
「物言い?」
「昨日までのおぬしは、そのような言葉を使わなんだ」
むすびの背中を冷たいものが走った。
昨日まで。
この身体には、自分の知らない昨日がある。
「……昨日の私って、どんな感じでした?」
男が黙った。
「ほら、昨日の私、元気だったかなーって」
「結。本当にどうした」
今度の声は怒っているだけではなかった。
心配している。
その表情が少しだけ一代に似ていて、むすびは妙な気持ちになった。
その時。
廊下から慌ただしい足音。
「殿!」
女の声。
障子が勢いよく開く。
「結!」
女性が飛び込んできた。
むすびは、その顔を見た瞬間――。
「ゆりちゃん!」
叫んだ。
女性が止まった。
後ろの家臣たちも止まった。
「ゆりちゃん! よかったぁ!」
女性の顔が完全に固まっている。
「……ゆり、ちゃん?」
「うん!」
「それは……誰のことでございます?」
「え?」
女性は本気で分からない顔をしている。
男も眉をひそめた。
「ゆり……ちゃん?」
「姫様は何を申されておるのだ」
「誰かの名ではないのか?」
むすびは女性の顔を指さした。
「ゆりちゃんは、ゆりちゃんだよ!」
「私は志乃でございます」
「……え?」
むすびは女性の顔を改めて見た。
切れ長の目。
すっとした鼻。
少しだけ口角の上がった唇。
どう見ても百合だ。
「でも、ゆりちゃんじゃん……」
「結?」
女性――志乃は本気で心配そうにしている。
そこでようやく、むすびも気づいた。
違う。
この人もゆりちゃんじゃない。
顔は同じ。
でも、自分の知っている百合ではない。
百合なら今ごろ、
『寝ぼけてないで顔洗ってきなさい』
と一蹴しているはずだ。
目の前の女性は、今にも泣きそうになっている。
「じゃあ……あなた、誰?」
女性の顔から血の気が引いた。
「殿……」
「うむ」
パパそっくりの男が低く答える。
「やはり様子がおかしい」
「おかしくない!」
むすびは反射的に否定した。
二人が同時にこちらを見る。
「……いや。かなりおかしいかもしれません」
志乃がゆっくり近づき、むすびの頬へ手を当てた。
「結。私が分かりませんか?」
むすびは答えられなかった。
顔はゆりちゃん。
でも、ゆりちゃんじゃない。
「……ごめんなさい。分からない」
志乃の瞳が揺れた。
「殿……!」
「騒ぐでない、志乃」
志乃。
この人が、志乃。
ゆりちゃんと同じ顔をした人。
「じゃあ……あなたは?」
むすびはパパそっくりの男を見る。
「我が名まで忘れたと申すか」
「確認!」
「確認?」
「間違えたら失礼だし!」
男は大きく息を吐いた。
「藤代景綱」
「ふじしろ……?」
むすびの表情が変わる。
「藤代?」
「そうだ」
「私も藤代……」
「何を当たり前のことを申しておる」
同じ名字。
パパと同じ顔。
ゆりちゃんと同じ顔。
そして、自分は結と呼ばれている。
偶然?
夢だから?
分からない。
「結」
志乃がむすびの手を握った。
「怖い夢でも見たのですか?」
「夢……」
その言葉に、むすびは少し安心した。
そうだ。
夢。
目が覚めれば、自分の部屋。
学校へ行って。
帰れば店を手伝う。
パパが何か失敗して。
ゆりちゃんが怒って。
また三人で笑う。
「そうだよ……すっごい変な夢見てるだけだから」
その時。
むすびの耳に、何かが聞こえた。
――むすび。
「え?」
振り返る。
誰もいない。
「今……誰か」
「誰か?」
「私の名前……」
景綱が家臣の一人を見る。
「医師を呼べ」
「はっ」
「待って待って待って! 病気じゃないから!」
「ならば何なのだ」
「それが分かれば私も困ってない!」
景綱がこめかみを押さえた。
「結よ」
「はい」
「昨日のおぬしは、そのように……騒がしい娘ではなかった」
「騒がしい!?」
志乃が慌てて景綱をたしなめる。
むすびは少しむっとした。
「じゃあ昨日の私は、どんな子だったんですか?」
志乃が静かに答えた。
「おとなしく」
「はい」
「物静かで」
「はい」
「殿方の前で声を張ることなど、ほとんどなく」
「……はい」
「自らのことより、周りの人を気にかける子でした」
むすびは腕を組んだ。
「最後はちょっと私っぽい」
景綱が言った。
「最初の三つがまるで違う」
「ひどい!」
「ほら、それだ!」
「何が!」
「その口の利き方だ!」
「だって!」
「だって、ではない!」
家臣たちは全員、必死に下を向いている。
何人かは肩が震えていた。
絶対に笑っている。
むすびはぷくっと頬を膨らませた。
この顔、本当にパパなのに全然違う。
一代なら最後には自分から折れる。
景綱は絶対に折れそうにない。
そして志乃も。
見た目はゆりちゃんそのものなのに、百合なら今ごろ一言で二人を黙らせている。
「真逆じゃん……」
「何か申したか」
「何でもないです!」
その時。
廊下の端から、一人の年老いた侍女がこちらを見ていた。
「……姫様」
「はい?」
「申し訳ございませぬ。ただ……」
女性はためらい、顔を上げた。
「昨日までの姫様とは、まるで別のお方のようでございます」
むすびは言葉を失った。
別のお方。
それは、そうだ。
だって私は――藤代むすびだから。
結じゃない。
そう思った瞬間。
――ずきん。
胸の奥が痛んだ。
「……っ」
悲しい。
まただ。
自分の感情じゃない。
誰かが胸の奥で泣いている。
「どうした、結!」
景綱が駆け寄る。
志乃もむすびの肩を抱く。
「結! どこが痛いのです!」
二人の顔を見る。
パパじゃない。
ゆりちゃんじゃない。
分かっている。
なのに。
涙があふれた。
胸の奥から、どうしようもないほど懐かしい気持ちがこみ上げてくる。
会いたかった。
ずっと。
この二人のそばにいたかった。
「違う……これ……私じゃない……」
涙が止まらない。
むすびは自分の胸へ手を当てた。
ドクン。
心臓が鳴る。
その奥で。
とても小さく。
今度こそ確かに。
少女の声がした。
――お父上。
むすびの目が大きく開いた。
「……誰?」
誰も答えない。
ただ。
自分の身体の奥深くで。
もう一つの心が、震えていた。
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『おむすび姫 ―時をむすぶ、ひとつのおむすび―』




