第2話 ひとつのおにぎり
『おむすび姫 ―時をむすぶ、ひとつのおむすび―』
第2話 ひとつのおにぎり
むすびは、店の中を振り返った。
パパは厨房で片づけをしている。
ゆりちゃんはレジの売上を確認しながら、何やら数字を書き込んでいた。
二人とも、こちらを見ていない。
もう一度、男を見る。
男は壁にもたれたまま、うつむいていた。
「……」
むすびは少しだけ迷った。
知らない人だ。
正直、怖くないと言えば嘘になる。
髪は伸び放題。服はところどころ破れ、土なのか何なのか分からない汚れがついている。
それに――お店の商品を勝手に渡すのは、よくない。
ゆりちゃんならきっとそう言う。
『むすび。優しくすることと、何でも好きにしていいことは違うからね』
分かっている。
分かっているけれど。
ぐぅぅ……。
また聞こえた。
男のお腹の音。
今度はさっきより小さかった。
その音を隠すように、男がさらに身体を丸める。
むすびは眉を下げた。
「……ずるいなあ」
誰に言ったわけでもなかった。
あんな音を聞いてしまったら。
あんな顔を見てしまったら。
知らないふりなんて、できない。
むすびは静かに店へ戻った。
「どうしたの?」
百合が顔を上げる。
「ん? 何が?」
「のぼり」
「あっ」
むすびは慌てて手に持ったのぼりを見た。
まだ半分しか畳んでいない。
「風が強くて!」
「さっきまで無風だったけど」
「急に吹いた!」
百合が怪しそうな目をする。
「……そう」
むすびは目をそらした。
ショーケースを見る。
残っているおにぎりは五つ。
梅が一つ。昆布が一つ。おかかが二つ。
そして、一代自慢の塩むすびが一つ。
むすびはその塩むすびを手に取った。
「むすび?」
今度は一代の声。
「な、なに!?」
「いや。何でもないけど」
「びっくりさせないでよ!」
「パパ普通に呼んだだけじゃけど……」
むすびは塩むすびを制服のカーディガンの陰に隠して、再び外へ出た。
冷たい空気が頬に当たる。
男はまだ同じところに座っていた。
「……あの」
男は何も答えない。
むすびはしゃがんだ。
それでも少し距離は取った。
「これ」
塩むすびを差し出す。
男の目が、それを見た。
ほんの一瞬だった。
でもむすびには分かった。
男の目が確かに大きくなった。
「……何だ」
「おにぎり」
「見れば分かる」
「あ、ですよね」
男はおにぎりを見たまま動かない。
「……いくらだ」
「え?」
「金は、ねえぞ」
むすびは首を振った。
「いらない」
男の眉がぴくりと動く。
「店のもんだろ」
「そうだけど」
「なら駄目だ」
男は顔を背けた。
「施しはいらねえ」
むすびは困った。
どう見てもお腹は空いている。
「……じゃあ、私のだから」
「何?」
「これ、今日のお手伝いのお給料。だから私が誰にあげてもいいの」
もちろん嘘だった。
むすびのお手伝いに現物支給制度などない。
「それなら施しじゃないでしょ?」
「どう違う」
「えーっと……気持ち?」
男が呆れたような顔をした。
むすびは笑った。
「ほら。冷たくなる前に」
男は手を伸ばしかけて、止めた。
その指は汚れていた。
爪の間にも黒い土が入っている。
男は自分の手を見て、引っ込めようとした。
むすびは、その手におにぎりを乗せた。
「はい」
「……」
「食べて」
男は長い間、おにぎりを見ていた。
やがて包みを開けた。
指が震えている。
小さく、一口。
もう一口。
三口目から食べ方が変わった。
頬張る。飲み込む。また頬張る。
「ちょ、ちょっとゆっくり食べた方が……」
男は止まらない。
まるで誰かに取られるのを恐れているように、両手でおにぎりを包み込んで食べた。
ぽたり。
男の手の甲に水滴が落ちる。
雨ではない。
男の目からだった。
「……おじさん?」
男は答えなかった。
ただ食べ続けた。
最後の一口を口に入れると、長い間噛んで、ゆっくり飲み込んだ。
そして、小さく息を吐いた。
「……うまかった」
その一言が、妙に胸に残った。
むすびは微笑んだ。
「でしょ? うちのパパが握ったんだよ」
「……そうか」
「塩むすびだけは自信あるらしいよ」
「だけ?」
「それ、パパには言わないでね」
男の口元がほんの少し緩んだ。
「元気出た?」
「……ああ」
男はしばらく黙ったあと、自分の服の内側を探り始めた。
「別に、お金はいらないよ?」
「金なんか持ってねえ」
「じゃあいいって」
「よくねえ」
男が取り出したのは、汚れた布に包まれた細長いものだった。
布を開く。
「……かんざし?」
古いかんざしだった。
金属は黒ずみ、ところどころ錆びている。
飾りも一部欠けていた。
「これ」
「え、いらないよ!」
「持ってけ」
「いやいや、おにぎり一個だよ?」
「俺にはこれしかねえ」
男はむすびをまっすぐ見た。
「ずっと持ってた。俺ん家に昔からあったもんらしい」
「昔から? じゃあ余計にもらえないよ!」
「いいんだ」
「よくないって!」
「頑固だな、お前」
「おじさんに言われたくない!」
男が先に小さく笑った。
「……命の礼だ」
むすびの笑顔が消えた。
「そんな大げさな」
「大げさじゃねえ」
男は静かに言った。
「腹が減りすぎるとな、人間、何にも考えられなくなるんだ」
「……」
「明日どうするかとか。どこへ行くかとか。そんなもん、どうでもよくなる」
男は自分のお腹に手を置いた。
「ただ……何か食いてえ。それだけになる」
むすびには、その空腹が分からなかった。
給食前に「死にそう」と言ったことは何度もある。
けれど、本当に何も食べるものがなくて、明日食べられるかも分からない空腹を、むすびは知らない。
「だから、これはお前が持ってろ」
むすびは両手でかんざしを受け取った。
ひやりと冷たい。
見た目より、少し重かった。
「……ありがとう」
どちらがお礼を言っているのか分からなかった。
男は立ち上がり、少しふらついた。
「大丈夫?」
「ああ」
「もう一個持ってく?」
「欲張ったら罰が当たる」
「そんな罰ないと思うけど」
「あるんだよ」
男は歩き出した。
数歩進んだところで振り返る。
「嬢ちゃん」
「ん?」
男は何か言いかけた。
「……いや」
それだけ言って背を向けた。
「またお腹空いたら来てねー!」
むすびが声をかける。
男は振り向かなかった。
ただ一度だけ、右手を上げた。
その日の夜。
お風呂と宿題を済ませたむすびは、机の上でかんざしを眺めた。
黒ずんでいる。
飾りも欠けている。
スマートフォンのライトを当てると、飾り部分に小さな模様があった。
「……何これ?」
二つの輪が、互いにつながるように彫られている。
結び目にも見えた。
指先でなぞる。
その瞬間。
ほんの少しだけ、かんざしが温かくなった気がした。
「……?」
もう一度触る。
冷たい。
「気のせいか」
時計は十一時四十八分。
「やば。寝よ」
かんざしを机へ置き、ベッドへ潜り込む。
隣の部屋から、パパとゆりちゃんの声が聞こえる。
「一代さん、明日の米ちゃんと確認した?」
「したした」
「本当に?」
「……今から見てくる」
「やっぱりしてないじゃない!」
むすびは布団の中で笑った。
今日も、いつもと変わらない一日だった。
学校へ行って。
店を手伝って。
パパとゆりちゃんがいて。
知らないおじさんに、おにぎりを一つあげただけ。
ただ、それだけ。
――のはずだった。
深夜。
机の上に置かれた古びたかんざし。
誰も触れていない。
それなのに。
黒ずんだ飾りの奥で――
ほんの一瞬。
小さな光が灯った。
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『おむすび姫 ―時をむすぶ、ひとつのおむすび―』




