第1話 おにぎり屋の看板娘
『おむすび姫 ―時をむすぶ、ひとつのおむすび―』
第1話 おにぎり屋の看板娘
「いらっしゃいませー!」
学校帰りの制服姿のまま、藤代むすび(ふじしろ・むすび)が店先に立つと、不思議なことに客が増える。
本当に、不思議なくらいに。
岡山の山あいにある、小さなおにぎり屋。
駅前の一等地でもない。テレビで紹介されたこともない。行列ができる人気店でもない。
昼どきにはそれなりに忙しくなるものの、午後三時を過ぎれば客足はぱたりと落ちる。
――はずなのだが。
「お、むすびちゃん帰っとったんか」
「こんにちは!」
「じゃあ、鮭ひとつもらおうかな」
「はーい! 鮭ひとつですね!」
一人入れば、また一人。
「あら、むすびちゃん。今日もお手伝い?」
「はい!」
「偉いわねえ。じゃあ私、昆布もらおうかしら」
「昆布ですね。ありがとうございます!」
気がつけば、さっきまで静かだった店内に四、五人の客がいる。
厨房からその様子を見ていた父の一代が、腕を組んで大きくうなずいた。
「やっぱり、あれじゃな」
「何?」
「この店の売り上げは、パパの握る最高のおにぎりと――」
「はいはい」
隣で米をよそっていた母の百合が、冷めた声で遮った。
「九割、この子の笑顔のおかげ」
「えっ!? パパの最高のおにぎり、一割!?」
「一割もあれば十分でしょ」
「ひどくない!?」
「だってあなた、今朝も塩と砂糖を間違えそうになったじゃない」
「間違えてない! 間違えそうになっただけ!」
「同じようなもんでしょ」
「違うわ!」
むすびは吹き出した。
「パパ、お客さんいるよ」
「おお、そうじゃった!」
一代は慌てて厨房へ戻ろうとして、積んであった空の容器に足を引っかける。
ガタンッ。
「うおっ!」
「あっ、パパ!」
倒れかけた一代を百合が片手で支えた。
「何してるの、もう」
「いや……今のは床が悪い」
「昨日あなたが直した床ね」
「……じゃあ、パパが悪い」
店内から小さな笑い声が起きた。
一代も照れくさそうに頭をかく。
これが藤代家の日常だった。
父の藤代一代。
優しくて、気が弱くて、ちょっと――いや、かなり――おっちょこちょい。
値上げした方がいいと百合に言われても、
「でも常連さん困るじゃろうしなあ」
と言ってなかなか値段を上げられない。
閉店間際に来た客から「財布忘れた」と言われれば、
「また今度でええよ」
と平気で商品を渡してしまう。
商売人としてどうなのかと百合には毎日のように怒られているが、むすびはそんなパパが嫌いではなかった。
そして母の藤代百合。
父とは正反対。
計算は早い。仕事も早い。朝から晩まで無駄な動きがほとんどない。
「パパが二人いたら、この店三日で潰れるからね」
が口癖だ。
一代はそのたび、
「じゃあ百合ちゃんが二人おったら?」
と聞く。
「あなたがいらなくなる」
「そんなぁ」
そこまでが、ほとんど毎回のお決まりだった。
そして二人の一人娘。
藤代むすび、中学三年生。
勉強も運動も飛び抜けてはいない。
クラスの中心でみんなを引っぱるタイプでもない。
ただ、よく笑った。
それも、人がつられて笑ってしまうような笑い方をした。
「むすびちゃんがおると、なんか店が明るくなるなあ」
常連客からそう言われるたび、むすびは少し照れて、
「照明変えたからじゃないですか?」
などと答える。
百合はそんな娘を横から見て、
「それ、パパの血じゃないわね」
と言った。
「どういう意味!?」
一代だけが傷つく。
夕方六時を過ぎるころ、残っていたおにぎりも少なくなってきた。
鮭。梅。昆布。おかか。
そして一代が妙に自信を持っている、少し大きめの塩むすび。
むすびはショーケースを布巾で拭きながら、そのひとつをじっと見た。
真っ白なお米。
海苔すら巻かれていない。
ただ塩をつけて握っただけ。
なのにパパはいつも言う。
「結局な、おにぎりは米がうまかったら、それでええんよ」
子どものころは意味が分からなかった。
鮭の方が豪華なのに。ツナマヨの方がおいしいのに。
でも最近になって、少しだけ分かるようになった。
学校から帰って、お腹がぺこぺこの時。
パパが「ほい」と握ってくれる、まだ温かい塩むすび。
あれだけは、なぜか特別だった。
「むすび」
「ん?」
百合が厨房から顔を出した。
「今日はもう上がっていいよ。宿題あるんでしょ」
「あるけど大丈夫。片づけてから帰る」
「受験生なんだから」
「まだそんな本気モードじゃないし」
「もう十月よ」
「……聞こえなーい」
「む・す・び」
「聞こえました」
一代が笑った。
「まあまあ。むすびはちゃんとやる時はやる子じゃから」
百合がじろりと夫を見る。
「誰に似たのかしら」
「パパ?」
「違う」
「即答!?」
むすびはまた笑った。
こんな毎日が好きだった。
別に大金持ちじゃない。
父と母が言い合いをすることもある。
店の売り上げが悪くて、三人とも少し暗くなる日だってある。
それでも。
朝になれば学校へ行く。
帰れば店から炊きたての米の匂いがする。
「おかえり」とパパが言う。
「手を洗って手伝って」とゆりちゃんが言う。
そしてむすびは「ただいま」と言う。
それだけで十分だった。
ささやかで。
普通で。
なんでもない日々。
むすびはまだ知らなかった。
そんな「普通」が、
何百年もの時間の上に、奇跡みたいに積み重なっていることを。
「じゃあ、外ののぼり片づけてくるね」
むすびが店の引き戸を開ける。
十月の夕方。
昼間よりずっと冷たくなった風が制服の袖を揺らした。
「さむっ……」
店頭に立てていたのぼりを畳む。
その時だった。
店の脇。
自動販売機と壁の間の、薄暗い場所。
誰かが座っている。
むすびは最初、酔っぱらった人かと思った。
でも違った。
男だった。
伸びた髪。汚れた服。擦り切れた靴。
ただ壁にもたれ、うつむいたまま動かない。
「……?」
むすびは少し怖くなった。
店へ戻ろうとする。
その時。
ぐうぅぅ……。
静かな夕暮れに、不釣り合いなくらい大きな音がした。
むすびが足を止める。
男のお腹からだった。
男はゆっくり顔を上げた。
頬はこけ、目も弱々しい。
けれど、むすびと目が合った瞬間、恥ずかしそうに顔を背けた。
その顔を見てしまった。
むすびは店の中を見る。
ショーケースには、まだいくつかおにぎりが残っている。
ゆりちゃんの言葉が頭をよぎる。
――売り物なんだから、勝手なことしちゃ駄目よ。
当たり前だ。
お店は商売なのだから。
男は何も言わなかった。
「ください」とも、「助けて」とも。
ただ、空腹を隠すように小さく身体を丸めている。
むすびは唇をきゅっと結んだ。
そして――
もう一度、店の中を振り返った。
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『おむすび姫 ―時をむすぶ、ひとつのおむすび―』




