第19話 飯……飯……飯だ……!
『おむすび姫 ―時をむすぶ、ひとつのおむすび―』
第19話 飯……飯……飯だ……!
城を出る前。
「戦場を見に行く」
むすびがそう言うと、宗兵衛は首を横に振った。
「なりませぬ。物見遊山ではないのですぞ」
「分かってる。でも、何が起きてるのか、自分の目で確かめたい。城で待ってるだけじゃ、何も分からないよ」
何度止められても、むすびは引かなかった。
――私も、見ておきたいです。
胸の中で、結が言った。
――皆がどのような思いで戦っているのか。知らないままではいたくありません。
ちょうど、味方の兵へ握り飯と水を届ける荷車が、出発するところだった。
むすびは、その荷を指さした。
「あのご飯、運ぶのを手伝う。味方の人たちに届けたいの。怪我した人にも、食べてもらわなきゃ」
宗兵衛はしばらく黙っていた。
「……後方までですぞ。拙者のそばを離れず、危険と見ればすぐに戻る。それができぬなら、お連れできませぬ」
「うん。約束する」
そうして二人は、宗兵衛に付き添われ、食料を運ぶ一行とともに城を出た。
*
白瀬川の河原。
両軍の間には、張りつめた空気があった。
まだ総攻撃にはなっていない。
それでも。
少し離れた場所では、弓を構える者。
槍を握る者。
いつ誰かが一歩踏み出してもおかしくない。
むすびは宗兵衛とともに、藤代側の後方にいた。
「姫様、これ以上は前へ出られませぬ」
「分かってる」
そう答えながらも、目は向こう岸を見ている。
久瀬の兵。
痩せている。
遠くからでも分かる。
鎧の下の身体が細い。
馬も痩せていた。
「あれで戦うの……」
――生きるために。
結の声。
「うん……」
長く続いた旱魃のせいで、白瀬川の水は大きく減っていた。
普段なら簡単には渡れない場所にも、今はところどころ浅瀬ができている。
小競り合いが始まってからは、その浅瀬を使って両軍の兵が何度か川を渡り、河原の中央付近でぶつかっていた。
その時。
――ヒュッ。
一本の矢が飛んだ。
「うあっ!」
久瀬の兵が一人、河原へ倒れた。
「待て!」
向こう岸から若い武者が飛び出した。
「朔太郎……!」
むすびは目を見開いた。
あの日。
川の向こうで、
『藤代の飯など食えるか!』
と叫んだ少年。
朔太郎だった。
彼は刀を抜くことも忘れたように、倒れた仲間のところへ駆け寄った。
「おい! しっかりしろ!」
矢を受けた兵の身体を抱き起こす。
「戻るぞ!」
肩を貸そうとするが、男の足に力が入らない。
朔太郎は歯を食いしばり、その身体を引きずるようにして久瀬側へ戻ろうとした。
「朔太郎! 早く戻れ!」
向こうから仲間の声が飛ぶ。
その時だった。
藤代側でも怒鳴り声が上がった。
「荷を下げろ!」
負傷した兵へ配るための握り飯と水を積んだ、小さな荷車。
そこへ。
また一本。
矢が飛んできた。
馬が驚く。
「危ない!」
荷車が大きく傾いた。
籠が地面へ落ちる。
握り飯が。
ころころと河原へ転がっていく。
白い飯。
土。
泥。
そのうちの一つが。
朔太郎のすぐ近くで止まった。
「……」
朔太郎の動きが止まった。
片腕では、傷ついた仲間を支えている。
もう片方の手には刀。
その足元。
泥の上に。
ひとつの握り飯。
「……藤代の、飯」
低い声だった。
むすびも動けなかった。
あの日は。
川の向こう側にいた。
遠くから睨みつけていた「敵」だった。
でも今は。
すぐそこにいる。
仲間を助けようとして泥だらけになった。
お腹を空かせた、十六歳の少年。
朔太郎の視線が。
握り飯から離れない。
「朔太郎! 何をしてる!」
向こう岸から声が飛ぶ。
朔太郎は我に返ったように顔を上げる。
そして。
握り飯から目をそらした。
負傷した仲間を引きずる。
一歩。
また一歩。
その腹が。
ぐぅぅぅぅ……。
戦場に似合わない。
大きな音。
朔太郎の足が止まった。
「……くそ」
握り飯を見る。
「くそ……」
刀を握る手が震えている。
むすびには分かった。
食べたい。
ただ。
食べたいだけ。
「食べて……」
思わず声が出た。
朔太郎が振り返る。
むすびと目が合った。
「……姫」
「食べていいよ」
朔太郎の顔が歪んだ。
「ふざけるな」
「毒なんか入ってない」
「黙れ!」
「私も食べる!」
むすびは荷車のそばに残っていた一つを取った。
宗兵衛が止めるより早く、一口食べる。
「ほら」
朔太郎の目が揺れる。
「……」
「食べて」
「……やめろ」
「お腹、空いてるんでしょ」
「やめろ!」
朔太郎が叫んだ。
怒っている。
でも。
目には涙が浮かんでいた。
「そんな目で見るな!」
朔太郎は負傷した仲間をそっと地面へ横たえた。
そして。
泥の上の握り飯へ手を伸ばす。
止める。
引っ込める。
また伸ばす。
そして。
ついに。
握った。
泥だらけ。
形も崩れている。
「……」
朔太郎は手の中のそれを見つめた。
袖で泥を少し払う。
全部は取れない。
それでも。
口へ運んだ。
小さく。
一口。
噛む。
「……」
誰も何も言わない。
朔太郎がもう一口食べる。
唇が震える。
「……飯」
小さな声。
もう一口。
涙が、一滴。
泥のおむすびへ落ちる。
「飯……」
声が大きくなる。
「飯……」
両手でおむすびを抱える。
「飯だ……」
涙が止まらない。
「飯だ……飯だ……!」
朔太郎は泣きながら食べた。
「飯だ……!」
膝をつく。
「飯だ……飯だ……飯だ……!」
誇りも。
敵も。
味方も。
全部忘れたみたいに。
ただ。
飢えた十六歳の少年が。
飯を食べていた。
むすびは泣いていた。
結も。
胸の中で泣いている。
――むすび。
「うん」
――この方たちは。
「うん」
――城が欲しいのではないのですね。
むすびは何度もうなずいた。
「生きたいだけなんだよ……」
朔太郎の涙。
泥。
白い米。
その光景が。
二人の少女の中に、深く焼きついた。
---
『おむすび姫 ―時をむすぶ、ひとつのおむすび―』




