第9話 父の署名は、毒よりも苦かった
羊皮紙を握ったまま、私は動けなかった。
紙は、軽い。
なのに、どうしてこんなにも重いのだろう。
そこに書かれているのは、たった一つの名前だった。
『ハンス・ヴィント』
私の父。
ヴィント伯爵。
王家の毒見役を代々務めてきた、薬学の名門ヴィント家の当主。
そして――私を守るために、娘を「死んだことにした」人。
「アーシェ」
隣から、リディアの声がした。
「その紙……本物、ですの?」
「分からない」
私は答えた。
自分でも驚くほど、声が冷静だった。
「だから、確かめる」
「……どうやって?」
「まず、紙を調べるわ」
私は羊皮紙を机の上に置いた。
指先で、そっと触れる。
《組成視》。
世界の輪郭が、色を持って崩れていく。
紙。
羊皮。
植物繊維。
獣皮。
インク。
――そして、時間。
私の異能は、過去そのものを視ることはできない。
けれど、物質に残った変化なら分かる。
乾燥。
酸化。
紫外線による退色。
指で触れた跡。
インクが紙に染み込んだ深さ。
それらを組み合わせれば、ある程度の「いつ」を推測できる。
「……五年前」
「本当に?」
「ええ」
私は頷いた。
「少なくとも、この紙そのものは五年以上前に作られている」
「では、署名も……」
「そこまでは分からない」
私は、インクに視線を落とした。
黒いインクの中に、微かな青。
鉄。
没食子。
煤。
そして――ほんの少量の、見慣れない鉱物。
「……妙ね」
「何が?」
「このインク」
私は鼻を近づけた。
微かな匂い。
鉄臭さ。
それから、ほんの少しだけ甘い。
「普通の公文書用インクじゃない」
「毒、ですの?」
「毒そのものではないわ」
私は首を振った。
「でも、毒を扱う人間が好む配合ね」
「どういう意味ですの?」
「インクの中に、保存性を高める成分が入っている。湿気の多い場所でも文字が崩れにくい」
私は父の顔を思い浮かべた。
書類を長期間、秘密裏に保存する必要がある人間。
薬品を扱う人間。
そして――証拠を残したくない人間。
「……父上が、使っていたインクと似ている」
「では、やはり」
「違う」
私は即座に否定した。
「似ているから、父上が書いたとは限らない」
リディアが、少しだけ目を見開いた。
「アーシェ……」
「私は父を信じたいから言っているんじゃない」
自分に言い聞かせるように、私は続けた。
「薬師なら、誰だって同じ結論に辿り着く。証拠が一つしかないなら、犯人は決められない」
「……」
「父が書いたという証拠は、この署名だけ。なら――」
私は羊皮紙を裏返した。
「別の証拠を探す」
そのときだった。
店の扉が、三回叩かれた。
コン。
コン。
コン。
一定の間隔。
私は顔を上げた。
「こんな朝早くに?」
「患者かしら」
「……違うと思う」
私は立ち上がった。
扉の向こうから聞こえたのは、男の声だった。
「薬師殿。急患だ」
「どんな症状ですか?」
「腹痛。嘔吐。意識混濁」
私は眉を寄せた。
「何人?」
「……六人」
リディアと目が合った。
六人。
偶然にしては、多すぎる。
「どこへ運べば?」
「こちらへ」
扉を開ける。
そこに立っていたのは、街の衛兵だった。
その後ろに、荷車。
布を掛けられた人間が、六人。
私は一瞬で駆け寄った。
「一人ずつ、降ろして!」
「先生、しかし――」
「早く!」
声を荒げた自分に、少し驚いた。
でも、今はそんなことを気にしている場合ではない。
一人目。
成人男性。
顔面蒼白。
発汗。
瞳孔は正常。
呼吸は浅い。
私は手首を取った。
脈拍、速い。
けれど、不整ではない。
「吐いたものは?」
「これです」
衛兵が布袋を差し出した。
私は中を覗いた。
匂いを嗅ぐ。
「……甘い」
「甘い?」
「ええ」
薬品臭ではない。
腐敗臭でもない。
どこか、青臭い。
私は《組成視》を吐瀉物に向けた。
赤。
黄色。
白。
いくつもの成分が浮かび上がる。
そして――
「……銅」
私は呟いた。
緑色。
あの壁紙と同じ色。
「アーシェ?」
「この人たち、何を食べたの?」
「街外れの宿で、朝食を」
「何を?」
「パンと、スープ。それから――」
衛兵が言葉を止めた。
「……緑茶です」
「緑茶?」
「はい。王都から仕入れた、新しい茶葉だとか」
私は立ち上がった。
「茶葉を見せて」
「え?」
「残っているなら、全部」
数分後。
運び込まれた茶葉を視て、私は確信した。
茶葉そのものに毒はない。
だが――
「これは、茶葉じゃない」
「え?」
「混ざっている」
細かい粉末。
茶葉とよく似た色。
しかし、植物ではない。
銅。
砒素。
そして、植物由来の結合剤。
「誰かが、毒を茶葉に混ぜている」
リディアの顔から、血の気が引いた。
「つまり……」
「この街で、毒が撒かれている」
私は窓の外を見た。
朝市には、いつもと変わらない人々がいる。
パンを売る店主。
果物を並べる商人。
走り回る子どもたち。
誰も知らない。
自分たちのすぐ近くに、毒があることを。
「……アーシェ」
リディアの声が震えた。
「これも、グロスヴァルド商会が?」
「まだ決めつけられない」
「でも」
「だから、調べるのよ」
私は毒の混じった茶葉を小瓶に詰めた。
「犯人を捕まえるには、犯人が残したものを一つずつ拾うしかない」
そのとき。
店の奥から、物音がした。
カタン。
私は振り返った。
「……誰?」
返事はない。
リディアが身構える。
私はそっと、奥の倉庫へ向かった。
扉は閉じている。
鍵も掛かっている。
だが――
私は扉に手を触れた。
《組成視》。
金属製の鍵。
その表面に、新しい傷。
昨日まではなかった。
「リディア」
「はい」
「下がって」
「嫌ですわ」
「……」
「わたくしだけ安全な場所にいるなんて、もうしません」
こんな状況でも、彼女は笑った。
「わたくし、悪役令嬢ですもの。危険くらい、一緒に背負いますわ」
「……そう」
私は苦笑した。
「では、せめて私の後ろに」
「そこなら、よろしいですわ」
二人で扉を開けた。
倉庫には誰もいなかった。
薬草。
瓶。
木箱。
そして、窓。
窓は開いている。
逃げた。
私は床に膝をついた。
泥。
濡れた靴跡。
大人の男。
左足を少し引きずっている。
「追える?」
リディアが訊いた。
「無理ね」
私は首を振った。
「でも、何を探していたのかは分かる」
「何を?」
私は棚を見た。
一番下。
ヴィント家から持ち出した、古い薬草資料。
その横に、ぽっかりと空いた場所。
「……これ」
そこには、一本の小瓶だけがなかった。
「何の薬ですの?」
「解毒剤」
「毒の?」
「ええ」
私は小瓶の跡を指でなぞった。
「ヴィント家にしか伝わっていない、古い解毒薬よ」
「では、盗まれたのは……」
「毒を作るためじゃない」
私は静かに言った。
「毒を使った人間が、自分だけ助かるために必要だったのかもしれない」
沈黙。
その瞬間。
私は気づいた。
机の下に、一枚の紙が落ちている。
拾い上げる。
そこには、短い文字が書かれていた。
『今夜、鐘が三つ鳴ったら、薬師を連れて来い』
私は息を止めた。
「……アーシェ?」
「リディア」
「はい」
「これ、私宛てよ」
「……!」
私は紙の裏側を視た。
インク。
紙。
指紋。
そして――
微かな香り。
私は鼻を近づけた。
シナモン。
それから、薬草。
そして、ほんの少しだけ――
「……父上と同じ香り」
リディアが息を呑んだ。
「ハンス伯爵?」
「ええ」
父がいつも身につけていた薬師用の香油。
シナモンと月桂樹。
私が子どもの頃から知っている匂い。
だからこそ、私は迷った。
父なのか。
父を知る誰かなのか。
父の香りを利用した誰かなのか。
「……今夜」
私は紙を握った。
「行くわ」
「罠ですわよ」
「分かっている」
「なら――」
「だから行くの」
私は顔を上げた。
「父上の名前が、この事件に出てきた以上、逃げるわけにはいかない」
そして。
このとき私は、まだ知らなかった。
その夜。
鐘が三つ鳴った場所で。
私が探していた「父の真実」と、「王宮の毒殺事件」が、初めて一つにつながることを。
そして――
私の父が残した、最後の薬瓶を見つけることになるなんて。
◇
夜。
ミルフィーヌの鐘楼が、三度鳴った。
ゴォン。
ゴォン。
ゴォン。
街の灯りが、一つ、また一つと消えていく。
私は黒い外套を羽織り、店を出た。
隣にはリディア。
「本当に、二人だけで?」
「二人だからいいのよ」
「どういう意味ですの?」
「大人数なら、目立つでしょう?」
「……アーシェ」
「何?」
「あなた、最近、少し大胆になっていません?」
「追放されたからかしら」
「普通は逆ですわ」
私は笑った。
王都にいた頃なら、こんなふうに笑えなかった。
誰かの顔色を窺い。
誰かの許可を待ち。
自分の考えより、家名を優先した。
けれど今は違う。
私は、もうヴィント伯爵令嬢ではない。
私は――
アシュリー。
辺境の薬師。
そして。
「リディア」
「はい?」
「もし私が戻らなかったら」
「嫌ですわ」
「まだ最後まで言っていないでしょう」
「聞きたくありませんの」
リディアが私の腕を掴んだ。
「あなたは、必ず戻ってきてくださいませ」
その声音だけは、冗談ではなかった。
「……分かった」
私は頷いた。
「約束する」
二人で、街外れの廃薬工房へ向かう。
そこには誰もいない。
古びた扉。
錆びた看板。
私は扉に手を掛けた。
ギィィ、と音が鳴る。
中は暗い。
けれど。
奥から、灯りが漏れていた。
誰かいる。
私は一歩、踏み込んだ。
「誰?」
返事はない。
代わりに、暗闇の奥から声がした。
「――遅かったな」
男の声。
私は身構える。
「誰?」
「お前の父親を知っている者だ」
胸が、跳ねた。
「……父を?」
「そうだ」
男が、灯りの下へ出てくる。
顔は見えない。
深くフードを被っている。
その手には、一つの薬瓶。
古びた、茶色の瓶。
瓶の底には、ヴィント家の紋章。
私の目が、見開かれた。
「それ……」
男が笑った。
「ハンス・ヴィントは、裏切り者ではない」
「……!」
「だが、英雄でもない」
薬瓶が、月明かりを反射した。
「お前の父親は――」
男が言った。
「五年前、自分の手で、最初の毒を作った」
息が止まる。
「嘘……」
「ならば、その瓶を視てみろ」
私は《組成視》を発動した。
瓶の中身が、色に変わる。
赤。
青。
黒。
そして――
私は、言葉を失った。
「……これ」
この毒の組成を。
私は知っている。
王宮で殺された第一王子。
その乳母。
そして、宮廷薬師長。
三人の遺体から、共通して検出された毒。
その原型。
その基礎となった薬。
それは――
「私が、幼い頃に父上から教わった……」
男が、静かに笑った。
「そうだ」
そして、最後に。
私が最も聞きたくなかった言葉を告げた。
「その毒を完成させたのは――お前の父親だ」
薬瓶が、私の手から滑り落ちた。
カラン、と。
乾いた音が、廃工房に響いた。
私はただ、床に転がった瓶を見つめていた。
父が私に教えた薬学。
父が私に残した知識。
それが。
人を殺す毒の始まりだったなんて。
――そのとき。
背後で、扉が閉まった。
ガチャリ。
鍵の掛かる音。
私は振り返った。
男が一人。
二人。
三人。
暗闇の中から、次々と人影が現れる。
リディアが私の手を握った。
「アーシェ」
「ええ」
私は小さく頷いた。
怖い。
けれど。
今度は、逃げない。
「――父上の罪が本物なら」
私は目の前の薬瓶を拾い上げた。
「私自身の手で、確かめる」
そして。
父の罪も。
王宮の毒も。
私を捨てた王子も。
私を陥れた義妹も。
全部、この目で見極めてやる。
薬師として。
アーシェラ・ヴィントとして。
そして――
死んだことになった、アシュリーとして。




