第10話 父が作った毒を、私が解毒する
「その毒を完成させたのは――お前の父親だ」
男の声が、耳の奥に残っている。
何度、頭の中で否定しても。
消えない。
父が。
私の父が。
人を殺す毒を作った。
「……証拠は?」
私は、顔を上げた。
男が、僅かに目を細める。
「何?」
「証拠はあるの?」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
「あなたが何を知っているのかは知らない。でも、父が作ったというなら、それを証明して」
「お前――」
「薬師は、見たものだけを信じるの」
私は、床に転がった薬瓶を拾い上げた。
古い茶色の瓶。
底に刻まれた、ヴィント家の紋章。
確かに、私の家のものだった。
けれど。
「この瓶が父のものだからといって、中身まで父が作ったとは限らない」
「同じことだ」
「違うわ」
私は瓶を掲げた。
「薬師にとって、一番危険なのは思い込みよ」
毒だと思えば毒に見える。
薬だと思えば薬に見える。
けれど、物質は嘘をつかない。
だから私は――視る。
「《組成視》」
視界が変わった。
瓶。
ガラス。
蓋。
液体。
複雑に絡み合った成分が、色と形になって浮かび上がる。
私は一つずつ確認していった。
砒素。
銅。
アルカロイド。
植物性の毒。
そして――
「……違う」
私は呟いた。
「何が違う?」
「この毒」
指先が震えた。
「完成品じゃない」
男の表情が、初めて変わった。
「……何?」
「あなたは、この毒が王宮で使われたものと同じだと言った」
「そうだ」
「でも違う」
私は瓶の中身を見つめた。
「これは、王宮で使われた毒の『原型』よ」
「原型……?」
「毒性が不安定すぎる」
私の頭の中で、薬学の知識が繋がっていく。
「摂取量によって症状が大きく変わる。少量なら発熱と倦怠感。中量なら神経症状。大量なら心停止」
「……」
「こんな毒を宮廷で使えば、誰がいつ死ぬか分からない」
私は瓶を握り直した。
「暗殺には向かない」
リディアが、息を呑んだ。
「では……王宮で使われた毒は?」
「改良されている」
私は答えた。
「誰かが、この毒を改良したのよ」
その瞬間。
廃工房の奥で、男が笑った。
「――さすがだな」
私は振り返った。
「何が可笑しいの?」
「いや」
男はフードを外した。
現れたのは、四十代ほどの男だった。
頬に古い傷。
右目の下に、細い切り傷。
そして、首元。
そこに、見覚えのある紋章があった。
ヴィント家の紋章。
「あなた……」
「名は、ノア」
男は言った。
「かつて、ヴィント家の研究棟にいた薬師だ」
「研究棟……?」
私は眉を寄せた。
ヴィント家には、表向きの薬草研究所とは別に、王家から極秘の研究を任されていた施設があった。
子どもの私には、立ち入りを許されなかった場所。
父が「大人になってから知ればいい」と言っていた場所。
「そこで、父上と?」
「ああ」
ノアは頷いた。
「五年前までな」
「何を研究していたの?」
「毒だ」
短い答え。
胸の奥が、冷たくなった。
「王家のための、暗殺薬?」
「違う」
ノアは首を振った。
「解毒薬だ」
「……え?」
「正確には、毒に対する耐性薬」
私は黙った。
「王族は毒を盛られる」
ノアは淡々と続けた。
「だから、毒に耐える身体を作る必要がある。少量ずつ毒を投与して、身体を慣らす。昔から王家が続けてきた方法だ」
「……それで?」
「だが、ハンス伯爵は、それに反対した」
父の顔が、頭に浮かんだ。
厳しい顔。
いつも薬品の匂いがした手。
私が幼い頃、薬草を間違えるたびに黙ってやり直させた父。
「父は、人体を使った実験を嫌っていた」
「なら、なぜ毒を?」
「王家が毒をやめないからだ」
ノアの声が低くなる。
「ならば、せめて無害化できるものを作ろうとした」
「……」
「その研究の途中で生まれたのが、それだ」
彼が瓶を指差した。
「毒を毒で打ち消す」
「……」
「最初は解毒剤だった」
ノアは言った。
「だが、グロスヴァルドが研究成果を盗んだ」
私は息を止めた。
「グロスヴァルド侯爵が?」
「そうだ」
「では、父は――」
「研究を中止した」
ノアは頷いた。
「研究記録をすべて焼却し、関係者にも口止めをした」
「それなのに、毒が残った」
「一人だけ、記録を持ち出した者がいた」
私は、その先を待った。
ノアが、私を見る。
「ハンス・ヴィント自身だ」
「……父が?」
「違う」
ノアは苦笑した。
「持ち出したのは、研究記録を守るためだ」
「なら、なぜ五年前の計画書に父の署名が?」
「それは――」
突然。
外から、馬の嘶きが聞こえた。
ノアの表情が変わった。
「来たか」
「誰が?」
「グロスヴァルドの手の者だ」
窓の外を見る。
黒い馬車。
その後ろに、騎士が六人。
「多すぎません?」
リディアが呟く。
「私たちを殺すつもりね」
「違う」
ノアが言った。
「連中が欲しいのは、俺じゃない」
その視線が、私に向く。
「お前だ」
「私?」
「ヴィント家の《組成視》を持つ人間は、王家にとって都合が悪すぎる」
私は唇を噛んだ。
「だから追放した?」
「それだけじゃない」
ノアが一歩近づく。
「お前の父親は、お前を研究に関わらせなかった」
「……」
「理由を知っているか?」
私は首を振った。
「お前の《組成視》が、あまりにも強かったからだ」
心臓が、一つ大きく鳴った。
「普通の薬師は、成分を分析するのに時間がかかる。だが、お前は違う」
ノアが私の目を見る。
「一目で分かる」
「……」
「毒の正体も、薬の正体も」
「だから父は……」
「お前を守った」
外で、剣を抜く音がした。
ギャリン。
私は、拳を握った。
「でも、父は私に何も言わなかった」
「言えなかったんだろう」
「……」
「知れば、お前は必ず首を突っ込む」
私は思わず、リディアを見た。
彼女が苦笑する。
「それは……否定できませんわね」
「リディアまで」
「だって、アーシェは放っておけないでしょう?」
「……そうね」
私はため息をついた。
こんな状況なのに。
少しだけ、笑えた。
外で足音が近づいてくる。
「時間がない」
ノアが、床板を外した。
地下へ続く階段。
「逃げ道だ」
「あなたは?」
「俺は残る」
「駄目よ」
「何?」
「あなたは父上の研究を知っている」
私は言った。
「なら、あなたにも聞かなければならないことがある」
「……何を?」
「五年前の計画書」
私は羊皮紙を取り出した。
「ここには、父の署名がある」
「……」
「父が本当に署名したのか。あなたなら分かるでしょう?」
ノアはしばらく黙っていた。
そして。
「……偽造だ」
「え?」
「その署名は、ハンス伯爵のものじゃない」
私は目を見開いた。
「でも――」
「筆跡は同じでも、署名の癖が違う」
ノアは羊皮紙を見つめた。
「ハンス伯爵は、最後の『ヴィント』を書くとき、必ず一度だけ筆を止める」
「……」
私は思い出した。
父の署名。
確かに。
最後の文字の前で、父はほんの一瞬、筆を止める癖があった。
「この署名には、それがない」
ノアが言った。
「誰かが父親の署名を真似た」
胸の奥に、何かが落ちた。
重い石が。
ゆっくりと沈んでいく。
「では……父は」
「少なくとも、この計画書には署名していない」
その瞬間だった。
ドンッ!
扉が吹き飛んだ。
「いたぞ!」
男たちが雪崩れ込んでくる。
私は咄嗟にリディアの腕を引いた。
「地下へ!」
「でも、アーシェ!」
「急いで!」
ノアが前に出る。
その手には、小さな薬瓶。
「これを使え」
「何?」
「目を閉じろ!」
瓶が床に叩きつけられた。
白い煙が、一気に広がった。
「げほっ!」
「何だ、これは!」
「視界が――!」
私はリディアの手を掴み、地下階段へ走った。
後ろから怒声が響く。
「逃がすな!」
「アーシェ!」
「走って!」
地下道は狭かった。
壁は湿っている。
ところどころ、古い薬草が吊るされていた。
「ここは……」
「昔の研究施設でしょうね」
私は壁に手を触れた。
古い薬品。
古い薬草。
そして――
「……待って」
私は足を止めた。
壁の中に、何かある。
《組成視》。
石壁の向こう。
金属。
木。
紙。
そして――大量の薬品。
「ここ、隠し部屋がある」
「え?」
「壁の向こう」
私は壁を叩いた。
「ここを壊して」
リディアが目を丸くする。
「壊すって……どうやって?」
「これ」
私は床に落ちていた鉄棒を拾った。
「薬師だって、時には力仕事くらいするのよ」
「頼もしいですわ……」
三度。
鉄棒を振り下ろす。
ガンッ!
壁が崩れた。
中から、古い木箱が現れた。
その上に、一冊の黒い帳簿。
表紙には、ヴィント家の紋章。
私は震える手で、それを開いた。
最初のページ。
そこには父の字があった。
『毒は、人を殺すためにあるのではない』
私は息を止めた。
次の行。
『毒とは、量によって薬にもなる』
さらに、その下。
『ゆえに、毒を恐れるのではなく、毒を理解しなければならない』
父の言葉。
私が幼い頃、何度も聞かされた言葉。
ページをめくる。
研究記録。
日付。
薬品名。
実験結果。
そして――最後のページ。
そこだけ、文字が乱れていた。
『グロスヴァルドは、研究成果を軍事転用するつもりだ』
『私は研究を中止する』
『だが、すでに手遅れだ』
『あの男は、王宮だけではなく――』
そこで文章が途切れている。
「……続きは?」
リディアが尋ねる。
私はページをめくった。
何もない。
最後のページだけ、破り取られている。
「誰かが持っていった」
私は呟いた。
そのとき。
帳簿の裏表紙から、一枚の小さな紙片が落ちた。
私は拾った。
そこには、たった一行。
『もし私に何かあれば、アーシェラに伝えろ』
その文字を見た瞬間。
胸が、痛んだ。
父の字だった。
間違いない。
そして、その下に。
『王宮で死んだ三人は、毒殺ではない』
私は目を見開いた。
「……え?」
リディアも紙を覗き込む。
続きには、こう書かれていた。
『彼らは、毒を飲まされたのではない』
『身体の中で、毒を作らされたのだ』
「……どういう意味?」
リディアが震える声で言った。
私は答えられなかった。
ただ、一つだけ分かった。
王宮で起きている事件は、私が思っていたよりずっと異常だ。
誰かが毒を飲ませているのではない。
人体そのものを、毒の製造装置に変えている。
そして。
その方法を知っているのは――
私の父と。
私自身。
そして、グロスヴァルド。
「アーシェ」
リディアが、私の手を握った。
「どうしますの?」
私は帳簿を閉じた。
「決まっているでしょう」
恐怖はあった。
父への疑念も、消えてはいない。
それでも。
薬師として、見過ごすことはできなかった。
「この毒を作った人間を探す」
私は立ち上がった。
「そして、王宮で死んだ三人を殺した方法を突き止める」
「……ええ」
「そのためには」
私は、黒い帳簿を胸に抱えた。
「まず、王宮の遺体を調べる必要がある」
リディアが目を見開いた。
「王宮へ戻るの?」
「戻るわ」
「あなたは死んだことになっていますのよ?」
「だから、戻るの」
私は笑った。
「死んだ人間なら、王宮に忍び込んでも誰も警戒しないでしょう?」
「……アーシェ」
「何?」
「あなた、本当に大胆になりましたわね」
「誰かさんに悪い影響を受けたのかも」
「あら」
リディアが笑った。
「それは光栄ですわ」
地下道の向こうから、男たちの声が近づいてくる。
時間がない。
私は帳簿を懐にしまった。
そして、最後にもう一度、父の字を見た。
『もし私に何かあれば、アーシェラに伝えろ』
父上。
あなたが何をしたのか。
何を隠しているのか。
私は、まだ分からない。
でも。
一つだけ、決めた。
あなたを無条件に信じたりはしない。
逆に、無条件に疑ったりもしない。
証拠を見る。
事実を見る。
そして、自分の目で判断する。
それが――
あなたに教えられた、薬師の仕事だから。
「行きましょう、リディア」
「ええ」
「王宮へ」
私たちは地下道を走った。
まだ知らない。
この夜。
王宮の地下では、第一王子レオンハルトの遺体が、密かに別の場所へ移されようとしていることを。
そして、その遺体を運んでいる人物が――
私の義妹、ミレーヌ・ヴィントであることを。




