第11話 毒を作ったのは、私の父ではない
羊皮紙を握ったまま、私は動けなかった。
そこには、確かに書かれている。
『段階三。エメラルド・グリーン、全土散布』
『署名――アルバート・グロスヴァルド』
そして。
『ヴィント伯爵、ハンス・ヴィント』
父の名前。
私が、何度見返しても消えない。
「……お父様」
リディアが、何も言わずに私を見ている。
責めるでもない。
慰めるでもない。
ただ、待っている。
その沈黙が、ありがたかった。
今、誰かに「あなたのお父様はそんな人じゃない」と言われたら、私はたぶん怒っていた。
証拠は、目の前にある。
ならば、見るべきだ。
父を信じるのではなく。
父を疑うのでもなく。
――この紙そのものを。
「リディア」
「はい」
「火を貸して」
「……燃やすのですか?」
「違うわ」
私は暖炉の火を見つめた。
「調べるの」
私は羊皮紙を机の上に広げた。
紙。
インク。
署名。
日付。
それぞれに《組成視》をかける。
いつもなら、物質は色と形になって浮かぶ。
けれど、今は違った。
父の署名を見た瞬間、視界が歪む。
赤。
青。
黒。
無数の色が混ざり合い、頭痛が走った。
「っ……」
「アーシェ!」
リディアが立ち上がった。
「大丈夫」
私は額を押さえた。
「少し、情報が多いだけ」
「顔色が悪いですわ」
「薬師の顔色まで診ないでちょうだい」
「では、患者として診ますわ」
「……誰が患者よ」
思わず、笑ってしまった。
こんな時なのに。
リディアも笑う。
ほんの一瞬。
けれど、それで少しだけ息ができた。
「もう一度」
私は羊皮紙に目を戻した。
今度は、署名ではなく、インクそのものを見る。
すると。
「……おかしい」
「何が?」
「このインク」
私は指先で、文字の端をなぞった。
「五年前のものじゃない」
「え?」
「紙そのものは古い。少なくとも五年以上前。けれど、この署名のインクだけ……新しい」
リディアの顔から、笑みが消えた。
「新しい、と申しますと?」
「この紙に最初から書かれていたんじゃない」
私は、署名を指した。
「後から書き足されている」
「……では」
「誰かが、父の名前を書いた」
部屋の空気が変わった。
もし、この推測が正しいなら。
この羊皮紙は父を告発する証拠ではない。
父を犯人に見せるための証拠だ。
「待って」
私は、もう一度、文面を見る。
「ここ」
「どこですの?」
「『平民の生殖能力低下』」
私は眉を寄せた。
「この表現、変じゃない?」
「……確かに」
リディアが首を傾げる。
「五年前の宮廷文書なら、もっと婉曲な表現を使いますわね」
「それだけじゃない」
私は紙を裏返した。
薄い染み。
指で触れる。
「この紙、最初は別の場所で使われていた」
「分かるのですか?」
「紙の繊維に、薬草の油が染み込んでいる」
私は目を細めた。
「薬草店で使われていた紙よ」
リディアが黙る。
そして、二人同時に顔を上げた。
「――この街の薬師」
「ええ」
私は立ち上がった。
「この計画書は、グロスヴァルド商会が作った偽物かもしれない」
その時だった。
店の扉が、三度叩かれた。
コン。
コン。
コン。
一定の間隔。
私は反射的に身構えた。
「誰?」
「薬を……」
外から、男の声。
「薬を買いに来た」
普通の客。
そう聞こえる。
けれど。
私は扉を見つめた。
「リディア」
「はい」
「下がって」
「嫌ですわ」
「……こういう時だけ素直じゃないわね」
「あなた一人に危険を押しつけるほど、わたくしは薄情ではありませんの」
私は小さく息を吐いた。
「分かった。でも、私の後ろにいて」
「承知しましたわ」
扉を開ける。
立っていたのは、三十歳くらいの男だった。
旅人らしい。
濡れた外套。
泥のついた靴。
そして。
右手に、小さな木箱。
「薬師さん」
男は笑った。
「この街で一番腕がいいって聞いてね」
「症状は?」
「俺じゃない」
男は木箱を差し出した。
「これを見てほしい」
私は箱を受け取った。
蓋を開く。
中には、一枚の布。
その上に、黒い粉末が乗っていた。
「何です、これ?」
リディアが尋ねる。
「王都から持ってきた」
男は声を落とした。
「壁紙を作っている工場から」
私は粉末を見た。
《組成視》。
視界に、黒い粒子が浮かぶ。
銅。
ヒ素。
そして――
「……違う」
「何が?」
「エメラルド・グリーンじゃない」
私は粉末を指先で少量すくった。
「似ているけど、違う」
「では、何ですの?」
「これは――」
言いかけた瞬間。
男が懐から短剣を抜いた。
「伏せて!」
私はリディアを突き飛ばした。
短剣が、机を貫く。
ガシャン!
薬瓶が床に落ちた。
「アーシェ!」
「外へ!」
男が再び踏み込んでくる。
私は薬棚を蹴った。
瓶が一斉に落ちる。
男が一瞬、足を止めた。
その隙に、リディアが男の腕へ飛びついた。
「――えいっ!」
「なっ!?」
公爵令嬢とは思えない勢いだった。
男の手から短剣が落ちる。
私はそれを蹴り飛ばした。
「リディア、離れて!」
「嫌ですわ!」
「本当に頑固ね!」
「あなたにだけは言われたくありませんわ!」
男が体勢を立て直す。
次の瞬間。
私は、男の首元に手を伸ばした。
「動かないで」
「……!」
「あなた」
私は男の皮膚を視た。
汗。
血液。
筋肉。
そして――
「毒を飲んでいる」
男の顔が固まった。
「……何?」
「心臓に負担がかかってる。あと三十分くらいで倒れる」
「馬鹿な」
「嘘じゃない」
私は彼の手首を掴んだ。
「あなたも、誰かに薬を飲まされてる」
男の瞳が揺れた。
「……俺は」
「命令されたんでしょう?」
「……」
「私を殺せ、と」
沈黙。
それが答えだった。
「誰に?」
男は唇を噛んだ。
「言えるか」
「なら、別の質問」
私は木箱の中の黒い粉末を指した。
「これを作っている工場は?」
男は答えなかった。
代わりに。
血を吐いた。
「っ!」
リディアが悲鳴を上げる。
男が膝をつく。
「アーシェ!」
「毒が回った!」
私は男を寝かせた。
脈を取る。
弱い。
けれど、まだ間に合う。
「リディア、棚の二段目。白い瓶!」
「これですの?」
「そう!」
瓶を受け取る。
蓋を開ける。
粉末を少量。
水に溶かす。
男の口へ流し込む。
「飲んで!」
「……な、ぜ」
「死なれたら困るの!」
男の喉が動いた。
数秒。
十秒。
脈が戻ってくる。
「……助かった」
「礼は後」
私は息を吐いた。
「あなた、まだ死ぬ気?」
「……死ぬ気なんて」
「だったら話して」
男は天井を見た。
そして、諦めたように笑った。
「俺は、グロスヴァルド商会の職人だ」
リディアが息を呑む。
「壁紙を作っていた」
「やはり……」
「だが、俺たちは何も知らなかった」
「何を?」
男は震える手で木箱を指した。
「普通のエメラルド・グリーンに、別の薬品を混ぜろと言われた」
「別の薬品?」
「灰色の粉だ」
私は眉を寄せた。
「名前は?」
「知らない」
「色は?」
「銀色。水に入れると、赤くなる」
私の背中を、冷たいものが走った。
そんな物質。
私は一つだけ、知っている。
「……赤化」
古い錬金術師が使う、特殊な反応剤。
毒性の強い鉱物を検出するための試薬。
けれど、それを壁紙に混ぜる理由はない。
「違う」
私は呟いた。
「壁紙そのものが毒なんじゃない」
「え?」
「毒を運ぶための媒体にされている」
リディアの顔が強張った。
「つまり……壁紙を使って、別の毒を?」
「ええ」
私は木箱の粉末を見つめた。
「そして、この粉末は、毒を徐々に放出するためのもの」
男が震えた。
「じゃあ……あの工場で作っていた壁紙は」
「ただの壁紙じゃない」
私は立ち上がった。
「毒を塗った壁紙よ」
沈黙。
リディアが、ゆっくりと息を吸う。
「でも、それなら」
「ええ」
私は頷いた。
「これは庶民の出生率を下げるためだけの計画じゃない」
私は羊皮紙を見る。
父の名前。
グロスヴァルドの名前。
そして、偽造された署名。
「もっと大きな目的がある」
男が震える声で言った。
「……工場では、壁紙だけじゃなかった」
「他に何を?」
「薬箱だ」
「薬箱?」
「ああ。王宮に納める薬箱」
私は、息を止めた。
「王宮の薬箱には、全部、同じ印が付いている」
「どんな印?」
男は懐から、小さな金属片を取り出した。
そこには。
王家の紋章。
その下に、蛇が描かれていた。
蛇の口には、一本の薬草。
ヴィント家の家紋と、よく似ている。
けれど。
「……違う」
私は金属片を見つめた。
「この蛇、目が一つ多い」
「え?」
「ヴィント家の紋章を、真似している」
リディアが眉を寄せた。
「誰が?」
私は答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら。
その紋章を、私は知っていたからだ。
幼い頃。
父の書斎で、一度だけ見た。
父が誰かと話していた夜。
扉の隙間から見えた、銀色の指輪。
そこに、この蛇が刻まれていた。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「リディア」
「はい」
「父は、毒を作っていたんじゃない」
「……」
「父は、毒を作っている連中を調べていたんだと思う」
「では、なぜ名前が?」
「分からない」
私は羊皮紙を握った。
「でも、これで一つだけ分かった」
「何が?」
私は、初めて確信を持って言った。
「私の父は、敵ではない」
その瞬間。
店の外から、鐘の音が鳴り響いた。
一度。
二度。
三度。
街の警鐘だった。
「火事……?」
リディアが窓を見る。
黒煙が上がっていた。
方向は――
私たちの薬草店ではない。
「グロスヴァルド商会の倉庫だわ」
男が叫んだ。
「違う!」
顔面蒼白になった男が、立ち上がる。
「倉庫じゃない!」
「じゃあ、何?」
「地下工場だ!」
私は息を呑んだ。
「この街に、そんなものが?」
「ある。商会の倉庫の地下だ」
男は震えながら言った。
「俺たちは、そこで作っていた」
「何を?」
男は私を見た。
その目に、初めて恐怖が浮かんだ。
「――王宮へ送る、新しい毒を」
私は窓の外を見る。
黒煙。
赤い炎。
そして。
炎の向こうから、何かが飛んできた。
紙片だった。
風に乗って、店の前へ落ちる。
拾い上げる。
そこには、一行だけ。
『ヴィント伯爵令嬢へ』
私は息を止めた。
続く文字を読む。
『お父上を信じるのなら、今夜、王都へ戻れ』
その下に。
『――第一王子レオンハルトの墓へ来い』
私は紙を握り潰した。
「……リディア」
「はい」
「王都へ戻るわ」
彼女は驚かなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
「ええ。そう言うと思っておりましたわ」
「怖くないの?」
「怖いですわ」
リディアは、自分の手を握った。
砒素に侵された指先。
それでも。
「でも、あなたが一緒なら」
彼女は私を見た。
「少しくらい、怖くありませんの」
私は一瞬だけ、言葉を失った。
そして。
「……それなら、急ぎましょう」
私は白衣を羽織った。
薬箱を閉じる。
短剣を腰に差す。
「王宮で待っている患者がいる」
「患者?」
「第一王子」
私は、黒煙の上がる空を見た。
「死んだはずの人間が、本当に死んでいるとは限らないもの」
リディアが目を見開いた。
「まさか……」
「まだ、分からない」
私は笑った。
「だから、確かめるのよ」
こうして。
追放された薬師と、毒を盛られた悪役令嬢は。
もう一度、王都へ向かうことになった。
けれど私たちは、この時まだ知らなかった。
第一王子の墓に。
すでに誰かが、私たちを待っていることを。




