第4話「父の名前が、毒の計画書にあった」
「――ヴィント伯爵、ハンス・ヴィント」
羊皮紙に記された、その名前から。
私は、目を離すことができなかった。
雨音だけが、薬草店の中に響いている。
さっきまで少女の父親が慌てて駆け込んできたせいで、店内にはまだ土の匂いが残っていた。
けれど今は、その匂いすら感じない。
鼻腔に入ってくるのは、紙とインクの臭いだけだった。
「アーシェ……」
リディアの声が聞こえる。
けれど、私は答えなかった。
もう一度、羊皮紙を見る。
『段階三。エメラルド・グリーン、全土散布』
『目標、平民の生殖能力低下、及び、貴族出生率の相対的上昇』
そして。
『署名――アルバート・グロスヴァルド』
その隣に。
『ヴィント伯爵、ハンス・ヴィント』
父の名前。
間違いようがない。
私は、父の署名を何度も見てきた。
王家へ提出する薬品の書類。
毒見役としての報告書。
薬草の仕入れ帳。
父は、すべて同じ癖のある字を書く。
右上がりになる「ハ」の払い。
最後の「ト」だけが、わずかに長い。
この署名も。
――父の字だった。
「……本物よ」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
リディアが息を呑む。
「本当に?」
「ええ」
私は羊皮紙を机の上に置いた。
「少なくとも、署名は父のもの」
「では……」
リディアが言葉を止める。
言いたいことは分かった。
父は、私を守った。
私を王都から逃がすために、リディアと手を組んだ。
執事長のセバスに、私を殺したように見せかける手筈まで整えた。
なのに。
五年前には、平民を蝕む毒の計画に署名していた。
矛盾している。
あまりにも。
「アーシェ」
「……なに?」
「あなたのお父様は、本当に――」
「分からないわ」
私は、リディアの言葉を遮った。
「分からないから、調べる」
「……ええ」
「私は、父を信じたい」
そう口にしてから。
自分でも、少し驚いた。
信じたい。
その言葉が、こんなにも素直に出てくるとは思わなかった。
私はずっと、父が苦手だった。
厳しくて。
無口で。
褒められた記憶もほとんどない。
薬学の才能を認めてくれたこともない。
少なくとも、私はそう思っていた。
けれど。
私が追放された夜。
父は私に、一度も目を合わせなかった。
冷たい人だと思った。
娘を見捨てたのだと。
けれど、本当は。
私を守るために、目を合わせられなかったのだとしたら。
「……だったら、確かめるしかないわね」
私は羊皮紙を手に取った。
《組成視》。
視界が変わる。
羊皮紙。
インク。
繊維。
付着した埃。
私は一つずつ、組成を追っていく。
紙そのものは古い。
五年前。
これは間違いない。
インクも同じだった。
けれど。
「……おかしい」
「何が?」
リディアが身を寄せる。
「このインク」
「インク?」
「父の署名に使われたものだけ、少し違う」
私は指で署名の部分をなぞった。
「このインクには、鉄塩が多い。ヴィント家で昔から使っている保存用のインクよ」
「では、やはり……」
「でも」
私は首を振った。
「本文を書いたインクは、別物」
リディアが目を細める。
「別の人間が書いた?」
「それだけなら簡単なんだけど」
私は羊皮紙を裏返した。
「本文のインクは、五年前に書かれたものじゃない」
「……え?」
「乾燥具合がおかしい」
《組成視》をさらに深くする。
インクに含まれる油分。
紙へ染み込んだ速度。
酸化の状態。
「本文を書いたのは……もっと後」
「どのくらい?」
「正確には分からない。でも、五年前ではない」
私は羊皮紙を机に置いた。
「この計画書は、五年前に作られたものじゃないわ」
リディアが眉を寄せる。
「でも、日付は五年前」
「ええ」
私は羊皮紙を見つめた。
「だから、誰かが五年前の日付を使って、後から書き足した」
空気が変わった。
リディアの表情から、血の気が引いていく。
「つまり……」
「誰かが父の署名を利用した」
「でも、署名は本物なのでしょう?」
「ええ」
「では、どうして?」
私は答えなかった。
父本人が署名した。
けれど、その署名が使われた文書は後から作られた。
ならば。
考えられることは一つ。
「父は、何か別の書類に署名させられた」
「……!」
「その署名だけを、別の紙に転写したのかもしれない」
リディアが息を呑む。
「そんなことが……」
「薬品を使えば、できないことではないわ」
私は、羊皮紙を見下ろした。
「問題は、誰がそんなことをする必要があったのか」
その瞬間だった。
――カラン。
店の扉につけた小さな鈴が鳴った。
私とリディアは、同時に振り返った。
「いらっしゃいませ――」
言いかけて、止まる。
誰もいない。
扉だけが、半開きになっていた。
「……風?」
リディアが呟く。
私は立ち上がった。
「違うわ」
「え?」
「風なら、もっと奥の薬草が揺れる」
店内を見る。
吊るされたラベンダーも。
棚のカモミールも。
何一つ動いていない。
私は《組成視》を使った。
扉。
床。
棚。
窓。
――そして。
「そこ」
店の隅に置かれた、薬草籠を指差した。
リディアが身構える。
私は籠の中から、一枚の紙を取り出した。
白い封筒。
封蝋には、見覚えのある紋章が押されている。
王家の紋章。
「王宮から……?」
リディアの顔が強張る。
「どうして、こんな場所に」
「さあ」
私は封筒を裏返した。
差出人の名前はない。
ただ、一言だけ。
『アーシェラ・ヴィントへ』
と書かれている。
私は封を切った。
中には、一枚の紙。
そこに書かれていたのは。
たった三行だった。
『第一王子レオンハルト殿下の死因について』
『王宮薬師団の公式発表は、誤りである』
『真実を知りたければ、今夜、旧王立薬草園へ来い』
私は紙を読み終える。
リディアが、私の肩越しに覗き込んだ。
「……罠では?」
「たぶん」
「なら、行かないほうが」
「いいえ」
私は紙を折った。
「行くわ」
「アーシェ!」
「だって」
私は笑った。
「ようやく、王宮の毒殺事件について、手掛かりが向こうから歩いてきてくれたんですもの」
リディアは、呆れたように私を見る。
「あなた、意外と大胆ですのね」
「そう?」
「ええ。夜中に王宮関係者から呼び出されて、普通なら怖がりますわ」
「怖いわよ」
「……」
「ものすごく」
私は正直に答えた。
「でも、怖いからって、見ないふりをしていたら、ずっと何も分からないでしょう?」
リディアは、少しだけ目を細めた。
そして。
「……やっぱり、あなたを追放した殿下は馬鹿ですわね」
「どうしてそうなるの?」
「こんな面白い人を手放すなんて」
「褒めているのかしら」
「もちろん」
リディアは笑った。
その笑顔を見て。
私は少しだけ、肩の力を抜いた。
――けれど。
手紙を握る私の指先には。
一つの違和感が残っていた。
この紙。
どこかで嗅いだことがある。
私は鼻を近づける。
微かに香る。
薬草。
樟脳。
そして。
「……これは」
「どうしました?」
「この紙、王宮のものじゃない」
「え?」
「王宮では、紙を保管するとき、防虫のためにローズマリーを使うの」
私は紙を見つめた。
「でも、これは違う」
「では、どこの?」
私は目を閉じた。
記憶を探る。
この匂い。
この独特な配合。
薬草を扱う家なら、珍しくない。
けれど。
私は知っている。
「……ヴィント家」
リディアが固まった。
「この紙には、ヴィント家で使われている防虫香の匂いがする」
「では……」
「この手紙を出したのは」
私は、言葉を失った。
父か。
セバスか。
それとも。
別の誰かか。
分からない。
ただ、一つだけ。
はっきりしたことがある。
「父は、まだ何かを隠している」
私は羊皮紙と手紙を、別々にしまった。
「そして、誰かが私に、それを調べさせようとしている」
「誰かが?」
「ええ」
私は窓の外を見た。
雨は、いつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から、夕暮れの光が差し込んでいる。
辺境の街は、いつもと変わらない。
パン屋からは焼きたての香り。
通りでは子どもたちが走っている。
平和な景色。
その下に。
誰かが毒を埋めている。
「リディア」
「はい」
「明日の朝、街の薬店を全部回るわ」
「薬店を?」
「ええ」
私は指を一本立てた。
「グロスヴァルド商会から入ってきた薬品の流通経路を調べる」
二本目。
「エメラルド・グリーンの顔料を使った壁紙が、どこへ売られたのか調べる」
三本目。
「そして、王宮で使われていた薬と、街で売られている薬を比較する」
リディアが頷く。
「なるほど」
「もし同じ薬品が使われているなら」
私は、手紙を見た。
「王宮の毒殺事件と、平民への毒物ばら撒きは、同じ計画かもしれない」
「……」
「でも」
私は、少しだけ言葉を止めた。
「それだけじゃない」
「何か、気づきましたの?」
「王宮で殺された三人」
第一王子。
その乳母。
そして、宮廷薬師長。
私は、その三人の名前を思い浮かべる。
「この三人には、一つだけ共通点がある」
「何ですの?」
「全員、ヴィント家と関係があった」
リディアの表情が変わった。
「……まさか」
「第一王子の乳母は、昔、私の母の侍女だった」
「え?」
「宮廷薬師長は、父の弟子」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「つまり」
三人は偶然殺されたのではない。
「誰かが、ヴィント家に関係する人間を、順番に消している」
背筋に、冷たいものが走った。
その瞬間。
――ドン。
店の外で、大きな音がした。
「……何?」
リディアが扉を見る。
私は《組成視》を開いた。
店の外。
人が倒れている。
一人。
私は扉を開けた。
そこには。
黒い外套を着た男が、石畳の上に倒れていた。
「リディア、触らないで!」
私は駆け寄る。
男の呼吸はある。
脈もある。
けれど。
「毒……?」
男の唇が、青い。
私は《組成視》を使った。
血液。
肝臓。
肺。
胃。
――異常。
けれど。
「……おかしい」
毒がない。
少なくとも、体内には。
では、なぜ倒れている?
私は男の胸元を探った。
すると。
小さな銀色の容器が落ちた。
中には、白い粉。
私はそれを少量だけ視る。
――薬品。
いや。
「これは……」
私は息を呑んだ。
その粉末の組成は。
王子が毎日飲んでいた、青い錠剤。
あの薬と。
ほとんど同じだった。
「リディア」
「はい」
「この男は、グロスヴァルド側の人間かもしれない」
「なぜ、分かりますの?」
私は男の手を見た。
指先に残った粉末。
そして。
その粉末に混じった、ごく微量の血液。
「この薬を飲まされたんじゃない」
私は立ち上がった。
「自分で飲んだのよ」
「……自分で?」
「違う」
私は首を振る。
「自分で飲まされた、の」
リディアが息を呑む。
「誰に?」
私は答えようとして。
止まった。
男の懐から。
もう一枚、紙が落ちていた。
拾い上げる。
そこには、短い文章が書かれていた。
『ヴィントの娘が動き始めた』
『計画を第二段階へ移す』
そして最後に。
『――ハンス・ヴィントを処分せよ』
私の指が、止まった。
「……父上」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
私を守った父。
私を追放した父。
五年前の計画書に署名した父。
そして。
今、誰かに「処分せよ」と命じられた父。
私は紙を握りしめた。
「リディア」
「はい」
「予定変更よ」
「何をしますの?」
私は、倒れている男を見下ろした。
そして、王都のある方向を見た。
「旧王立薬草園へ行く前に」
私は静かに告げた。
「父を殺そうとしている人間を、先に見つける」
その瞬間。
倒れていた男が、微かに目を開いた。
「……ヴィ……ント……」
「何?」
男の唇が動く。
「……伯爵は……」
そこで。
男は笑った。
血の気のない顔で。
まるで。
最後に残された秘密を楽しむように。
「……お前の……父親は……」
その言葉を最後に。
男の身体から、力が抜けた。
「……!」
私はすぐに脈を探した。
ない。
呼吸もない。
死亡。
けれど。
毒は、ない。
私は男の手を握ったまま、動けなかった。
「アーシェ……」
リディアの声がする。
私は答えなかった。
頭の中で、さっきの羊皮紙が蘇る。
父の署名。
五年前の日付。
エメラルド・グリーン。
そして。
『ハンス・ヴィントを処分せよ』
点と点が。
少しずつ。
一本の線になり始めている。
けれど、その線が向かっている先にいるのが。
味方なのか。
敵なのか。
まだ、私には分からない。
ただ。
一つだけ。
確かなことがある。
――父上。
私は、あなたを探します。
あなたが。
私を守るために、悪人になったのか。
それとも。
本当に、あの計画に加担したのか。
全部。
私自身の目で、確かめる。
そして。
もしあなたが罪を犯したのなら。
私は、娘としてではなく。
薬師として。
その罪を暴く。
「リディア」
「はい」
「行きましょう」
「どちらへ?」
私は、夕暮れの街を振り返った。
「旧王立薬草園」
そして。
ほんの少しだけ、笑った。
「王宮で死んだ人たちが、最後に何を飲んだのか。それを調べに」
追放された令嬢。
悪役令嬢。
そして。
死んだはずの薬師。
三人の死人が残した毒の痕跡を辿れば。
きっと。
この国の誰かが、隠している真実に辿り着く。
――その夜。
ミルフィーヌの薬草店に、一枚の手紙が届いた。
差出人は。
死んだはずの、第一王子レオンハルトだった。




