第2話 悪役令嬢の懇願
深紅の傘の下は、ひどく、静かだった。
雨音も、遠い夜会の喧騒も、彼女の吐息だけが、やけに近い。
「――立ち話で、済ませる話では、ございませんの」
リディア・オルスタッド公爵令嬢は、そう囁いた。
視線を落とせば、彼女のドレスの裾は、既に泥で汚れていた。
高価な絹地に、雨と泥。
社交界一の悪女と噂される女が、追放されたばかりの私のために、そのドレスを台無しにしている。
――不可解。
私の脳は、まず、そう処理した。
「アーシェラ様」
リディアが、傘の柄を握り直す。
「馬車を、用意してございますの。……どうか、乗ってくださいませ」
「……何故」
私は、掠れた声で、問うた。
「何故、あなたが」
「事情は、車内で。ここは、耳が多すぎますわ」
彼女の視線が、素早く、周囲を走る。
私は、その視線を追った。
夜会が催されている宮殿の、正門前。
雨に濡れる石畳の、その柱の陰。
――誰か、いる。
《組成視》が、微かな熱源を捉えた。人の体温に含まれる、有機化合物の揺らぎ。
一人。二人。……三人。
三人の男が、こちらを窺っている。
「アーシェラ様」
リディアの声が、低くなった。
「わたくしが、あなたを助けに来た、と申し上げれば、信じてくださいまして?」
「……いいえ」
「では、こう申し上げますわ」
彼女は、微笑んだ。
「――あの柱の陰に潜む三人は、あなたの追放の、次の段階を、担当する者たちですの」
私は、瞬きを、一つした。
心拍数、上昇。指先、冷却。
ああ。私、今、恐怖を感じているのですね。
「暗殺者、ということですか」
「そこまで洗練された者ではございませんわ。ただの、口封じ役」
リディアは、あっさりと、告げた。
「魔力ゼロの令嬢が、雨の夜に、辻斬りに遭う。ありふれた事故ですわ」
「……なるほど」
「乗ってくださいますわね?」
彼女の手が、私に、差し出された。
白い、細い手。
けれど、その爪の内側に、私は、砒素の青い結晶を、視ていた。
私は、その手を、取った。
馬車は、無紋だった。
オルスタッド公爵家の紋章も、貴族の印も、何もない。
まるで、彼女自身が、追放者であるかのような、無骨な黒塗り。
車内に滑り込むと、リディアは、素早く、扉を閉めた。
「出して」
短い指示。
御者は、返事もせず、鞭を鳴らした。
車輪が、石畳を叩く。
窓の外で、宮殿の灯りが、遠ざかっていく。
私は、対面に座るリディアを、見つめた。
彼女は、濡れた前髪を、指先で払っている。
その仕草の、一つ一つが、洗練されていた。
――そう。彼女は、間違いなく、"本物"の公爵令嬢だった。
「まず、謝罪を」
リディアが、深く、頭を下げた。
「わたくしが、あなたの婚約を、奪った形になったこと。心より、お詫び申し上げますわ」
「……あなたが、望んだ婚約では、ないと?」
「わたくしが、望むはずが、ございませんでしょう?」
彼女は、顔を上げ、微かに、笑った。
「あんな、薬漬けの馬鹿王子」
私は、息を、呑んだ。
薬漬け。
その言葉を、彼女は、確信を持って、使った。
「リディア様」
「リディア、で」
「……リディア。あなたは、殿下が、何を服用しているか、ご存知なのですか」
「名前までは、存じませんの」
彼女は、首を横に振った。
「ただ、殿下は、日に三度、青い錠剤を、服んでいらっしゃいますわ。それを飲むと、目が、据わりますの。……瞳孔が、開ききって」
「……瞳孔散大」
私は、呟いた。
《組成視》が、脳内で、いくつかの候補を、並べる。
ベラドンナ・アルカロイド。あるいは、麦角菌の派生物。
いずれにせよ、常用すれば、精神を蝕む。
判断力が壊れ、猜疑心が肥大化し、そして、暴力性が高まる。
――婚約破棄の、あの、常軌を逸した狂気の説明が、つく。
「リディア」
私は、対面の彼女に、身を乗り出した。
「あなたが、飲んでいる薬を、見せてください」
「……え?」
「今、あなたが常用している薬。全て」
彼女は、少し、戸惑ったように、瞬きをした。
それから、コートの内ポケットから、小さな、銀の薬箱を取り出した。
震える指で、蓋を開ける。
四つの、小瓶。
私は、《組成視》を、そこに、注いだ。
――視える。
一つ目。乾燥ラベンダーの精油。純度、良好。安眠薬として、問題なし。
二つ目。カモミールの抽出液。同じく、問題なし。
三つ目。鉄剤。貧血用。純度、九十八パーセント。可。
そして、四つ目。
「……これ」
私は、四つ目の小瓶を、指差した。
透明の液体。
その表面に、《組成視》は、六角形の格子を、視ていた。
さらに、その格子の隙間に、微細な、青い螺旋。
――砒素。
亜砒酸を、水に溶かした、無味無臭の、緩やかな毒。
「これは、何ですか」
「精神安定剤ですわ。……最近、眠れませんでしたので、宮廷医から」
「宮廷医の、名前は」
「……ヘルマン先生」
私は、静かに、目を閉じた。
心拍数、平静。指先、温度回復。
ああ。私、今、怒っているんですね。
「リディア」
「……はい」
「これ、精神安定剤ではありません」
「え……?」
「亜砒酸です。微量ずつ、あなたを、殺そうとしている」
馬車の中の、空気が、凍った。
リディアの、青い瞳が、大きく、見開かれた。
彼女は、笑おうとした。
けれど、笑えなかった。
代わりに、震える手で、口元を、覆った。
「……やはり」
「ご存知だったのですか」
「疑っては、おりましたの」
彼女は、深く、息を吐いた。
「王宮で、既に、三人が、死んでおりますわ。全員、病死とされておりますけれど」
「症状は」
「共通していたのは、爪の色。……青い、斑点」
砒素中毒の、典型的な、末期症状。
私は、車窓の外を、見た。
雨は、まだ、降り続けている。
石畳が、灯りを反射して、鈍く、光っていた。
「リディア」
「はい」
「あなたが、私に、頼みたいことは、何ですか」
彼女は、顔を上げた。
濡れた前髪の隙間から、青い瞳が、まっすぐに、私を、見た。
「二つ、ございますの」
「一つ目」
リディアは、指を、一本、立てた。
「わたくしを、殺そうとしている者を、暴いてくださいませ」
「二つ目」
もう一本の指が、立つ。
「王宮で、既に殺された、三人。……その、真の死因を、視てくださいませ」
「……なぜ、私に」
「あなたが、"視える薬師"だから、ですわ」
彼女は、微笑んだ。
今度は、震えのない、確かな笑みだった。
「ヴィント家の、三百年に一人の、《組成視》。……社交界で、知らぬ者は、ございません」
「……その噂は、ただの、迷信のはずです」
「あら」
リディアは、悪戯っぽく、首を傾げた。
「では、なぜ、あなた、わたくしの爪の砒素を、一瞥で、見抜けましたの?」
――しまった。
私は、内心で、舌打ちを、した。
婚約破棄の直後、雨の中、初対面の相手。
その爪の砒素を、無意識に、指摘してしまった。
冷静さを、欠いていた。
「アーシェラ様」
リディアは、身を乗り出した。
「わたくし、あなたを、追放してくれた殿下に、感謝しておりますの」
「……感謝?」
「ええ。だって、あなたが、宮殿から、追い出されなければ」
彼女は、私の手を、そっと、握った。
冷たい、指先だった。
けれど、その握力は、驚くほど、強かった。
「わたくし、あなたに、こうして、お会いすることも、できませんでしたもの」
私は、彼女の手を、見下ろした。
砒素で、爪が、青ざめかけている、その手。
――この人を、助けたい。
そう、思ってしまった。
論理でも、打算でも、なかった。
ただ、そう、思った。
「……リディア」
「はい」
「一つだけ、条件が、ございます」
「なんなりと」
「その、四つ目の薬瓶」
私は、《組成視》で、それを、指した。
「今後、絶対に、口にしないでください。今飲んでいるものも、全て、私が調合し直します」
「……よろしくて?」
「ヴィント家の、追放されたばかりの、薬師が、貴族令嬢の薬を、勝手に調合し直す」
私は、初めて、微かに、笑った。
「不敬罪で、二度目の追放を、されるかも、しれませんね」
「あら」
リディアも、笑った。
「では、二人で、辺境まで、追放されましょう?」
馬車が、揺れた。
御者が、外から、声を掛けた。
「奥様。門を、抜けます」
門?
私は、車窓の外を、見た。
石造りの、大きな門。
その上に、掲げられているのは、王都の、外郭門。
――王都を、出る。
「リディア。私たちは、どこへ」
「辺境の街、ミルフィーヌ」
彼女は、答えた。
「オルスタッド公爵家の、飛び地ですの。宮廷から、最も、遠い場所」
「そこで、何を」
「薬草店を、開きますわ」
私は、彼女を、見つめた。
リディアは、コートの内ポケットから、一枚の、羊皮紙を取り出した。
開くと、それは、店舗の、権利書だった。
宛名の欄に、既に、名前が、書かれていた。
――アーシェラ・ヴィント。
私の、名前。
「……いつから」
「三ヶ月前から、ですわ」
彼女は、微笑んだ。
「わたくし、殿下が、あなたを追放することを、三ヶ月前から、存じておりましたの」
心拍数、急上昇。
指先、震え。
私は、彼女を、凝視した。
「……三ヶ月前」
「ええ」
「あなたは、私が、追放されることを、知っていた」
「はい」
「なのに、止めなかった」
「……止められる、状況では、ございませんでしたの」
リディアの、微笑みが、微かに、翳った。
「殿下と、宰相と、あなたの義妹ミレーヌ様の、三者が、"計画"を、練っておりましたわ。わたくしが介入すれば、次の犠牲者は、あなたではなく、あなたのご両親でしたの」
――ヴィント家の、両親。
代々、王家の毒見役を務めた、薬学の名門の、当主夫妻。
その二人が、次の"標的"だった。
私が追放されることで、家門は、辛うじて、命脈を保つ。
そういう、取引だったのか。
「リディア」
「はい」
「あなたは、私を、"追放させた"のですか。……守るために」
「わたくし一人の力では、ございませんわ」
彼女は、首を、横に振った。
「ヴィント家の、ご当主。……あなたのお父様と、共謀いたしましたの」
視界が、揺れた。
いや、揺れているのは、馬車ではなかった。
私自身の、内側だった。
父。
私を、家門から、追放した、あの父。
夜会で、私に、一瞥もくれなかった、あの父。
「……父上が」
「はい」
「私を、守るために」
「……アーシェラ様」
リディアの指が、私の頬に、触れた。
冷たいはずのその指が、なぜか、熱く感じた。
「泣いても、よろしくてよ」
私は、頬を、押さえた。
湿っている。
雨ではなかった。
いつの間にか、私の目から、水分が、溢れていた。
――涙腺の過剰活動。副交感神経優位。ストレス応答の解除。
私は、それを、感情と呼ぶことを、知っていた。
「……リディア」
「はい」
「私は、あなたを、信じても、よろしいですか」
「もちろん、ですわ」
彼女は、私の手を、両手で、包んだ。
「わたくしたち、捨てられた女同士、ですもの」
馬車は、王都の門を、抜けた。
石畳が、途切れ、土の道に変わる。
車輪の音が、鈍く、変わった。
雨は、まだ、降っていた。
けれど、遠くの空に、微かに、朝焼けの気配が、あった。
「リディア」
私は、車窓を、見つめながら、呟いた。
「一つ、確認しても、よろしいですか」
「なんなりと」
「あなたの、爪の砒素」
「はい」
「投与を、始めたのは、いつからですか」
「……三ヶ月前、ですわ」
三ヶ月前。
私が、追放されることを、彼女が、知った時。
――同時期。
つまり。
私を追放する計画と、リディアを毒殺する計画は。
同じ人物の、手による、ものだ。
「リディア」
「はい」
「宰相の名は」
「……アルバート・グロスヴァルド侯爵」
《組成視》の、脳内記録が、蘇る。
夜会の広間で、私を、三人が、殺したがっていた。
その、三人。
第二王子ジェラルド。
義妹、ミレーヌ。
そして――宰相、グロスヴァルド。
パズルの、ピースが、嵌まり始めていた。
けれど、まだ、中央の、一枚が、欠けている。
「リディア」
「はい」
「殺された、三人の、身分は」
彼女は、少し、間を置いた。
それから、静かに、告げた。
「第一王子、レオンハルト殿下。……その、乳母。そして、宮廷薬師長」
第一王子。
王位継承権、第一位。
その、暗殺。
第二王子ジェラルドの、王位への、道。
――ああ。
これは、単なる、宮廷陰謀では、ない。
これは、王家を、根本から、書き換える、簒奪だ。
そして、その道具として。
薬。毒。組成。
――ヴィント家の、専門領域が、悪用されている。
私は、目を、閉じた。
深く、息を、吸った。
薬草の香りが、微かにした。
リディアのコートに、染み付いた、私の家門の、匂い。
きっと、彼女は、この三ヶ月、ヴィント家の薬草店に、通っていたのだろう。
私に、会うこと、叶わないまま。
私を、守る、その日のために。
「リディア」
私は、目を、開けた。
「引き受け、ますわ」
「……アーシェラ様」
「二つの、依頼。両方、引き受けます」
彼女は、微笑んだ。
けれど、その微笑みは、勝利の笑みでは、なかった。
安堵と、罪悪感と、そして、微かな、期待。
そういうものが、混ざっていた。
「ありがとう、ございます」
「一つ、条件を、追加しても、よろしいですか」
「なんなりと」
私は、彼女の、青ざめた爪先を、そっと、握った。
「あなたが、生きて、この事件の、決着を、見届けること」
「……ええ」
「それが、私の、最大の、報酬です」
リディアの、青い瞳が、揺れた。
雨に濡れた、その瞳が、朝焼けの、微かな光を、反射していた。
彼女は、頷いた。
深く、深く、頷いた。
「約束、いたしますわ」
「では、契約成立、ですね」
「……アーシェ、と、呼んでも?」
「え?」
「あなたのこと。アーシェ、と」
私は、瞬きを、した。
心拍数、微かな、上昇。
でも、これは、恐怖では、なかった。
――嬉しい、と。
そういう、感情、なのだろう。
「……どうぞ」
「ふふ」
リディアが、笑った。
今度こそ、心から、笑った。
「アーシェ。よろしくね」
「リディア。こちらこそ、よろしく」
馬車は、走り続けた。
土の道を、雨の中を、朝焼けに向かって。
追放令嬢と、悪役令嬢。
二人の、捨てられた女は、こうして、契約を、交わした。
――と、その時だった。
御者の、鋭い、叫び声。
「奥様! 前方に、伏兵ですッ!」
馬車が、急停止した。
私は、リディアの体を、庇うように、腕を、伸ばした。
車窓の外。
朝靄の中。
雨に濡れた、土の道の、向こう。
黒い外套の、男たちが、五人。
その手には、抜き身の、剣。
一番前の男が、こちらへ、歩いてきた。
雨に濡れた顔。
私は、その顔に、見覚えが、あった。
――ヴィント家の、執事長。
私を、幼い頃から、育ててくれた、あの、執事長。
彼は、剣を、掲げた。
そして、掠れた声で、告げた。
「――お嬢様。申し訳、ございません」
「……セバス」
「旦那様からの、ご命令ですッ」
執事長の目から、涙が、こぼれた。
雨と、混ざって、頬を、流れた。
「アーシェラお嬢様を、この場で、亡き者にせよ、と」




