第15話 七年前、私は王子を殺そうとした
「――グロスヴァルド公爵」
その名前を口にした瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
七年前の研究室。
白い壁。
薬品の匂い。
幼いジェラルド。
そして、父。
そのすべてが、鮮明になっていく。
「アーシェ!」
遠くで、リディアの声がする。
けれど。
私は答えられなかった。
目の前にいるのは、現在のリディアではない。
七年前の父だった。
『アーシェラ。この薬を見てごらん』
幼い私は、小さな瓶を覗き込んでいる。
『透明ですね』
『そうだな』
『何の薬ですか?』
父は答えなかった。
代わりに。
隣にいた男が笑った。
『殿下のための薬だよ』
グロスヴァルド公爵。
まだ公爵になる前の男。
若い。
けれど。
その目だけは、今と同じだった。
人を見る目ではない。
物を見る目。
「……嫌」
私は呟いた。
『アーシェラ』
父の声。
『この薬は、絶対に殿下へ飲ませるな』
『でも、さっき公爵様が――』
『あの男の言葉を信じるな』
父は私の肩を掴んだ。
『いいか。どんなことがあってもだ』
『……はい』
その直後。
扉が開いた。
「ハンス!」
公爵が入ってくる。
『予定が変わった』
父の顔が険しくなる。
『何をした』
『第一王子殿下が、薬を飲んだ』
『……なんだと?』
『もう一人では止められない』
公爵は笑っていた。
『だから、君の娘に治してもらう』
私は震えた。
『お父様……?』
父が私を見る。
『アーシェラ。今から私の言う通りにしろ』
『はい』
『殿下の身体を見ろ』
私は頷いた。
《組成視》。
当時の私は、まだ今ほど使いこなせていなかった。
それでも。
見えた。
血液。
臓器。
魔力。
そして。
心臓の近くに沈んだ、黒い粒子。
『毒……』
『そうだ』
父が答える。
『だが、これは毒そのものじゃない』
『じゃあ、何?』
『毒になる前の材料だ』
私は震える指で、身体の中を追った。
薬が血液に混ざる。
魔力と反応する。
そして。
黒い粒子が。
ゆっくりと形を変えていく。
『お父様』
『何だ』
『このままだと……』
私は言った。
『王子様の身体の中で、毒ができます』
父の顔が青ざめた。
『やはりそうか』
『治せますか?』
『お前なら』
父は私に一本の瓶を渡した。
『これを使え』
『でも……』
『大丈夫だ』
父は笑った。
『私が作った薬だ』
私は瓶を受け取った。
そして。
ジェラルドに飲ませた。
苦しそうだった少年が。
少しずつ。
呼吸を取り戻す。
『……助かった』
私は笑った。
『よかった』
けれど。
父は笑っていなかった。
『まだだ』
『え?』
『アーシェラ。もう一度、殿下の身体を見ろ』
私は《組成視》を使った。
そして。
気づいた。
『……まだ残ってる』
『そうだ』
『どうすれば?』
父は答えなかった。
代わりに。
公爵が言った。
『殺せ』
「……え?」
記憶の中の私が振り返る。
公爵は笑っていた。
『その毒が完成する前に、殿下を殺せばいい』
『何を言っている!』
父が怒鳴る。
『それしかない』
公爵は私を見る。
『アーシェラ。君ならできるだろう?』
幼い私は。
何も分からなかった。
ただ。
目の前で苦しんでいるジェラルドを見た。
『……嫌』
『なぜ?』
『この人は、死にたくないから』
公爵の笑顔が消える。
私は瓶を握った。
『私が治す』
『できるものか』
『できます』
『根拠は?』
私は《組成視》で見た。
毒の材料。
それを壊す方法。
そして。
薬の組成。
一つずつ。
頭の中で組み合わせる。
『薬を変えればいい』
父が目を見開いた。
『アーシェラ……?』
『この薬を、少しだけ変える』
『駄目だ!』
『でも、お父様』
私は必死だった。
『これなら、この毒を消せる』
父は黙った。
そして。
小さく頷いた。
『……やってみろ』
私は薬を作った。
その薬を。
ジェラルドに飲ませた。
黒い粒子が消えていく。
一つ。
また一つ。
そして。
完全に消えた。
『治った……』
私は笑った。
父も。
泣きそうな顔で笑っていた。
『よくやった』
けれど。
その瞬間。
公爵が言った。
『素晴らしい』
私は振り返る。
『何が?』
公爵は。
私ではなく。
私の持っていた薬瓶を見ていた。
『これで完成だ』
父が怒鳴った。
『何を言っている!』
『君の娘が証明してくれた』
公爵は笑う。
『この毒は、人間の身体の中で作れる』
『……』
『そして、それを消せる薬も作れる』
父の顔から血の気が引いた。
『お前……最初から』
『そうだ』
公爵は答えた。
『研究が欲しかった』
私は意味が分からなかった。
ただ。
父の顔を見て。
初めて怖くなった。
『アーシェラ』
父が私の肩を掴む。
『今から言うことを忘れろ』
『え?』
『全部だ』
『でも――』
『忘れなさい』
父の目には。
涙が浮かんでいた。
『お前を守るためだ』
そこで。
記憶が途切れた。
「――っ!」
私は礼拝堂の床に倒れ込んだ。
「アーシェ!」
リディアが私を抱き起こす。
「大丈夫ですの?」
「……父上」
「ええ」
「違った」
「何が?」
私は震える手で、額を押さえた。
「私は、ジェラルドを殺そうとしたんじゃない」
「……」
「治そうとしていた」
リディアの顔が強張る。
「でも、グロスヴァルドは」
私は息を整える。
「私に薬を作らせたかった」
「薬を?」
「違う」
私は首を振った。
「薬そのものじゃない」
そして。
父の言葉を思い出す。
『毒を消せる薬も作れる』
「毒と解毒剤」
リディアが呟く。
「両方を?」
「ええ」
私は立ち上がった。
「グロスヴァルドは、毒を作る方法だけじゃない」
「……」
「解毒する方法まで欲しかった」
だから。
父は研究を止めた。
だから。
ヴィント家は王家から切り離された。
だから。
私は追放された。
全部。
一本に繋がった。
「でも」
リディアが言う。
「それなら、なぜ今も王宮で人が死んでいますの?」
私は黙った。
そう。
それが一番おかしい。
七年前。
父は研究を止めた。
なら。
なぜ今になって。
第一王子が死に。
宮廷薬師長が死に。
リディアが毒を盛られ。
ジェラルドまで毒に蝕まれている?
答えは。
一つしかない。
「研究が、再開された」
私は呟いた。
「しかも」
父の手紙を思い出す。
『第四段階――《視える薬師》の記憶封印』
「私の記憶を消した上で」
私は拳を握った。
「私の研究を、誰かが使っている」
その時。
礼拝堂の扉が開いた。
「――その通りだ」
セバスだった。
「旦那様が亡くなる前に、最後に調べていたのもそれです」
「何を?」
「研究の再開場所です」
セバスは一枚の地図を広げた。
王都。
王宮。
そして。
王宮の地下。
「ここです」
赤い印。
「王宮地下薬品庫」
私は地図を見つめた。
「ここに、七年前の研究記録が残されています」
「なら、取りに行きましょう」
リディアが即答する。
私は頷いた。
けれど。
セバスが首を振った。
「それはできません」
「なぜ?」
「すでに、誰かが侵入しています」
「誰が?」
セバスは答えなかった。
ただ。
地図の端を指差した。
そこには。
王家の紋章。
蛇と花。
その中央に。
もう一つ。
不自然な目。
私は息を呑んだ。
「この紋章……」
「はい」
セバスが言った。
「旦那様の研究室にあったものと同じです」
「グロスヴァルドの紋章?」
「違います」
「……え?」
セバスは静かに言った。
「これは、グロスヴァルド家の紋章ではありません」
「では、誰の?」
セバスが答える前に。
礼拝堂の外から。
鐘の音が響いた。
一つ。
二つ。
三つ。
その瞬間。
私は首筋に痛みを感じた。
「……っ」
視界が揺れる。
黒い蛇。
血。
薬。
そして。
知らない声。
『アーシェラ』
誰?
『次は、君が作る番だ』
「……嫌」
『毒を』
私は頭を押さえた。
「嫌……!」
『王子を殺す毒を』
「違う!」
私は叫んだ。
『君は、七年前に一度失敗した』
「違う!」
『だから今度は――』
声が笑う。
『ちゃんと殺してもらう』
そこで。
私の視界が真っ暗になった。
そして。
遠くで。
誰かが呟いた。
「――第四段階、開始」
私は知らなかった。
その夜。
王宮では。
ジェラルドが突然、血を吐いて倒れていたことを。
そして。
彼の手の中に。
私が七年前に作ったものと、まったく同じ薬瓶が握られていたことを。




