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亀の瀬異聞録  作者: こうた
第一章:仏生堂の影 ― 生贄の地 ―

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第四話 神殿への道

その夜。


庄吉は眠れなかった。


藤富家の離れを借りていたが、目を閉じるたびに権蔵の顔が浮かぶ。


あの安堵した表情。


そして脳裏へ流れ込んできた少女の叫び。



---


> 「助けて」





---


あの声だけが耳に残っていた。



---


夜半を過ぎた頃だった。


ふと目が覚める。


いや、眠っていたのかどうかも分からない。



---


何か音がする。



---


カリ……



---


カリ……



---


壁の向こうからだった。



---


鼠か。


そう思った。



---


しかし音は徐々に移動していく。



---


壁。


天井。


床。



---


家全体を囲むように。



---


カリ……


カリ……


カリ……



---


まるで何十人もの人間が爪で木を引っ掻いているような音。



---


庄吉は刀を掴んだ。



---


音は突然止まる。



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静寂。



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その静寂の中。



---


今度は声が聞こえた。



---


「まだ……」



---


女の声だった。



---


「まだ……足りない……」



---


庄吉は勢いよく障子を開いた。



---


誰もいない。



---


庭だけが月明かりに照らされている。



---


しかし。



---


庭の土に。



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足跡があった。



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裸足の足跡。



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一人ではない。



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何十人分も。



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それが全て屋敷を囲むように並んでいる。



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庄吉は思わず息を呑んだ。



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その時。



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足跡が増えた。



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目の前で。



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誰もいない場所に。



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新しい足跡が刻まれた。



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一歩。



---


また一歩。



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まるで見えない何かが歩いている。



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庄吉は刀を抜いた。



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だが足跡は屋敷へ近づかない。



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その代わり。



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全て同じ方向を向いていた。



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山。



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神殿のある方向。



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庄吉は理解する。



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呼ばれている。



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あそこへ行けと。



---


翌朝。



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庄吉は夜明け前から準備を始めた。



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刀。


短刀。


火打石。


縄。


水。


食料。



---


長くなるかもしれない。



---


そう感じていた。



---


外へ出ると宗兵衛が待っていた。



---


まるで眠っていないような顔だった。



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「本当に行くのですな」



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庄吉は頷く。



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「行く」



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「やめた方がよい」



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「理由は昨夜聞いた」



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宗兵衛は首を振る。



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「違います」



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「もっと古い話です」



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庄吉は足を止めた。



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宗兵衛は懐から古びた紙を取り出した。



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それは供物帳とは別の文書だった。



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墨が薄れ、所々読めなくなっている。



---


庄吉は目を通した。



---


そこにはこう記されていた。



---


> 山の底に神あり


神は飢える


飢えれば地を裂く


飢えを満たせば眠る





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庄吉は顔をしかめた。



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「神?」



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「そう伝わっています」



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宗兵衛は苦しそうに答える。



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「だが私には神とは思えぬ」



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庄吉も同意だった。



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昨夜から見聞きしたもの。



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あれは神ではない。



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もっと別の何かだ。



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人が神と呼んだだけの。



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恐ろしい何か。



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宗兵衛はさらに続ける。



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「もう一つあります」



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文書の裏面だった。



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そこには別の筆跡で書かれている。



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> 神ではない


あれは怒りである


あれは悲しみである


あれは埋められた者達である





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庄吉の背筋が凍る。



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埋められた者達。



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昨夜見た光景。



---


土の下の人影。



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あれと繋がる。



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「誰が書いた」



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宗兵衛は首を振る。



---


「分かりませぬ」



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「何代も前の当主でしょう」



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庄吉は文書を懐へ入れた。



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そして歩き出す。



---


宗兵衛は最後に言った。



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「もし祠の奥へ行くなら」



---


「絶対に声について行かないでください」



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庄吉は振り返る。



---


「声?」



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「死者は助けを求めます」



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「ですが」



---


宗兵衛の顔が青ざめる。



---


「途中から声が変わるのです」



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庄吉は何も言わず歩き出した。



---


山道へ入る。



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昨日より空気が重い。



---


霧が濃い。



---


木々の間を白い靄が漂っている。



---


まるで山全体が呼吸しているようだった。



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二時間ほど進んだ頃。



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庄吉は異変に気づく。



---


道端に石仏が立っている。



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昨日は無かった。



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間違いない。



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昨日ここを通った。



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こんな大きな石仏を見落とすはずがない。



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高さは一丈ほど。



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首が欠けている。



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そして。



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足元に何か刻まれていた。



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庄吉はしゃがみ込む。



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そこに彫られていたのは文字ではない。



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名前だった。



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無数の名前。



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その中に見覚えがあった。



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権蔵。



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三日前に死んだ猟師。



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その名前が刻まれている。



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庄吉の顔色が変わる。



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さらに見る。



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別の名前。



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昨日村で聞いた失踪者。



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十年前に消えた男。



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二十年前に死んだ女。



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全員いる。



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石仏に。



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庄吉は立ち上がる。



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嫌な予感が膨らむ。



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これは墓ではない。



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供養でもない。



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もっと別の意味がある。



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その時だった。



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霧の向こうに人影が見えた。



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少女だった。



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十歳ほど。



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白い着物。



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裸足。



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じっとこちらを見ている。



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庄吉は声をかける。



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「おい!」



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少女は答えない。



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ただ神殿のある方向を指差した。



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そして。



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口を開く。



---


> 「急いで」





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小さな声だった。



---


> 「もうすぐ起きる」





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次の瞬間。



---


少女の姿は霧の中へ溶けるように消えた。



---


庄吉は動けなかった。



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だが一つだけ分かった。



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神殿で何かが起きている。



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しかもそれは。



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今まさに始まろうとしている。



---


庄吉は刀を握り直す。



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そして神殿のある谷へ向かって歩き始めた。



---


その頃。



---


誰もいないはずの藤富家の蔵の奥で。



---


古い供物帳がひとりでに開いていた。



---


最後のページ。



---


昨日まで白紙だった場所に。



---


新しい文字が浮かび上がる。



---


> 西村庄吉





---


そしてその下に。



---


> 奉納





---


第五話へ続く。

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