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亀の瀬異聞録  作者: こうた
第三章:仏生堂起動(1840・天保の飢え)

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第七話「神殿の下のもの」

黒い霧。


それは石の亀裂から静かに漏れ出していた。


煙のようにも見える。


だが違う。



---


それは形を持っていた。



---


人の指。



---


人の腕。



---


人の顔。



---


無数の死者が溶け合ったような存在。



---


咲は思わず後退した。



---


その霧に触れた草が枯れる。



---


地面が黒く変色する。



---


しかし最も異様だったのは。



---


音がすることだった。



---


囁き声。



---


何百。



---


何千。



---


何万。



---


数え切れない声。



---


「帰りたい」



---


「寒い」



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「助けて」



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「許さない」



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「見つけた」



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「まだ足りない」



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咲は耳を塞ぐ。



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だが聞こえる。



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頭の中に直接響いてくる。



---


宗景は木札を取り出した。



---


しかし。



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その手が止まる。



---


木札が黒ずんでいる。



---


触れてもいないのに。



---


まるで何年も風雨に晒されたように朽ちている。



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宗景が顔を歪めた。



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「侵食されている」



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「何が」



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咲は尋ねる。



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宗景は答える。



---


「封印だ」



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風が吹く。



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冷たい。



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いや。



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冷たすぎる。



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真冬の山よりも冷たい。



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死体のような冷たさ。



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宗景は神殿の方向を見る。



---


「来るぞ」



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その言葉と同時に。



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遠くで鐘が鳴った。



---


ゴーン……



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今までより大きい。



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重い。



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そして近い。



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咲は気づく。



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音が近づいている。



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神殿から聞こえていたはずなのに。



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今は村のすぐ外から聞こえる。



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まるで。



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鐘そのものが移動しているように。



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その時。



---


広場の端で誰かが叫んだ。



---


「人がいる!」



---


全員が振り向く。



---


そこに立っていたのは。



---


僧だった。



---


古い法衣。



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泥だらけの足。



---


髪は長く伸びている。



---


顔色は死人のように白い。



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誰も知らない男。



---


しかし。



---


宗景だけが息を呑んだ。



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「そんな馬鹿な……」



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男はゆっくり歩いてくる。



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足音はない。



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呼吸音もない。



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ただ近づいてくる。



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咲は本能で分かった。



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生者ではない。



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男は広場の中央で止まる。



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そして。



---


宗景を見た。



---


「久しいな」



---


低い声。



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乾いた声。



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まるで長い間使われていなかった喉で喋っているようだった。



---


宗景は固まる。



---


「お前は……」



---


男は笑った。



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「忘れたか」



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空気が重くなる。



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「いや」



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宗景は首を振った。



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「忘れるはずがない」



---


咲には意味が分からない。



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男は空を見上げる。



---


黒い柱。



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うごめく死者。



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そして静かに言った。



---


「起動したな」



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その一言で。



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咲の背筋に悪寒が走る。



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まただ。



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起動。



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宗景も同じ反応だった。



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男は続ける。



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「予想より百年早い」



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宗景が目を見開く。



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「何を知っている」



---


男は答えた。



---


「知っているのではない」



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笑う。



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「作ったからだ」



---


沈黙。



---


広場にいた全員が凍り付く。



---


作った。



---


何を。



---


宗景の顔色が変わる。



---


「まさか」



---


男は頷く。



---


「最初の管理者だ」



---


風が止まる。



---


咲は理解した。



---


この男は。



---


普通の亡霊ではない。



---


藤富家が守ってきた秘密。



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その始まりにいた存在。



---


男は神殿を見た。



---


「封印は失敗だった」



---


宗景が低く唸る。



---


「黙れ」



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「失敗だった」



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男は繰り返す。



---


「お前たちは勘違いしている」



---


鐘が鳴る。



---


ゴーン……



---


男の声と重なる。



---


「封じていると思っている」



---


黒い霧が広がる。



---


「違う」



---


石の顔が笑う。



---


「育てている」



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咲の心臓が大きく脈打つ。



---


育てている。



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何を。



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男はゆっくり指を上げた。



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神殿の地下を指す。



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「下にいるものを」



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その瞬間。



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地面が震えた。



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いや。



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震えたのではない。



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脈打った。



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ドクン。



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巨大な心臓のように。



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ドクン。



---


もう一度。



---


咲は息を呑む。



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広場の全員が感じている。



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足元から伝わる鼓動。



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宗景の顔から血の気が消える。



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「目覚め始めている」



---


男は静かに言う。



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「まだ完全ではない」



---


ドクン。



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鼓動。



---


ドクン。



---


また。



---


そして。



---


仏生堂神殿の方角から。



---


聞こえてきた。



---


巨大な何かが。



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息を吸う音が。



---


山ひとつ分の肺を持つような。



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人間ではあり得ない呼吸音。



---


咲は震える。



---


それは確信だった。



---


神殿の地下には。



---


何かがいる。



---


怨霊ではない。



---


亡霊でもない。



---


八つの守り石が封じている存在。



---


藤富家が二百年守ってきた秘密。



---


そして。



---


すべての呪いの中心。



---


その存在が。



---


今。



---


目を覚まし始めていた。



---


(第七話・続く)

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