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亀の瀬異聞録  作者: こうた
第三章:仏生堂起動(1840・天保の飢え)

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第二話「選ばれた者」

その夜。


高橋咲は眠れなかった。


藁を敷いただけの寝床に横になっても、瞼を閉じるたびにあの石が浮かぶ。


祠の奥にあった異様な石。


表面を覆う無数の傷。


そして――


「登録完了」


あの意味不明な言葉。


聞いたのではない。


頭の中へ直接流し込まれた感覚だった。



---


囲炉裏の火はすでに消えている。


家の中は静まり返っていた。


それでも咲には聞こえる。


どこか遠くで。


何かが擦れる音。



---


サリ……


サリ……


サリ……



---


まるで誰かが地面を引きずりながら歩いているような音だった。



---


咲は起き上がった。


耳を澄ませる。


音は外から聞こえている。


しかも近い。



---


サリ……


サリ……


サリ……



---


咲は慎重に戸を開けた。


冷たい夜気が流れ込む。


月は雲に隠れている。


村全体が薄暗い。



---


そして。


そこにいた。



---


道の真ん中を歩く人影。


ひとりではない。


五人。


十人。


もっといる。



---


全員が俯いている。


全員が裸足だった。


全員が泥だらけだった。



---


まるで葬列。


だが妙だった。


誰一人として音を立てない。


足音もない。


息遣いもない。



---


あるのは。


衣擦れだけ。



---


サリ……


サリ……


サリ……



---


咲の背筋に冷たいものが走った。



---


先頭にいる男を見た瞬間。


咲は凍り付く。



---


「……嘘……」



---


見覚えがあった。


昼に祠の前で見た死体。


あの男だった。



---


間違いない。


顔も。


体格も。


着物も。



---


だが死んでいたはずだ。


脈もなかった。


身体は冷たかった。



---


なのに今。


普通に歩いている。



---


咲は思わず叫んだ。


「待って!」



---


行列が止まる。


全員が同時に。


ぴたりと。



---


そして。


ゆっくりと振り返った。



---


咲は後悔した。


呼び止めるべきではなかった。



---


全員の顔が同じだった。



---


男も。


女も。


老人も。


子供も。



---


全て同じ顔。



---


昼に死んだ男の顔。



---


咲は息を呑む。


足が動かない。



---


十数人分の身体に。


一つの顔。



---


ありえない。



---


そのはずなのに。


彼らは存在していた。



---


そして。


一斉に口を開く。



---


「まだ足りない」



---


咲は悲鳴を上げた。



---


次の瞬間。


行列は消えていた。



---


まるで最初から存在しなかったかのように。



---


残ったのは。


地面に続く泥の跡だけ。



---


咲は震える手を押さえながら立ち尽くす。



---


何なのだ。


あれは。



---


村で何が起きている。



---


その答えを知る者がいるとすれば。



---


藤富家しかいない。



---


翌朝。


咲は村の中心へ向かった。



---


藤富家。


仏生堂集落で最も大きな屋敷。



---


飢饉の時代であるにも関わらず。


そこだけは崩れていない。



---


門の前に立つだけで異様だった。



---


静かすぎる。



---


鳥がいない。


虫がいない。



---


まるで生き物が近づくことを拒んでいるようだった。



---


咲が門へ近づいた時。


背後から声がした。



---


「何をしに来た」



---


振り返る。



---


一人の男が立っていた。



---


三十代前半。


細身。


長身。



---


目だけが異様に冷たい。



---


藤富宗景。


現当主だった。



---


咲は思わず息を呑む。



---


初めて間近で見る。



---


だが妙だった。



---


男の周囲だけ空気が重い。



---


まるで見えない何かがまとわりついている。



---


「聞きたいことがあります」



---


宗景は表情を変えない。



---


「何だ」



---


「祠の石です」



---


わずかに。


宗景の眉が動いた。



---


「何を見た」



---


その言葉に。


咲は気づく。



---


否定しない。



---


石の存在を知っている。



---


「人が死んだ後……消えないんです」



---


宗景は黙る。



---


「夜に歩いていました」



---


沈黙。



---


「全員同じ顔でした」



---


長い静寂。



---


そして宗景は言った。



---


「見えてしまったか」



---


その一言で。


咲の背中を冷汗が流れた。



---


否定しない。



---


幻覚でもない。



---


本当に存在する。



---


宗景は門の向こうへ視線を向ける。



---


「本来ならまだ早い」



---


「何がです」



---


「起動だ」



---


その言葉に。


咲は昨日の違和感を思い出す。



---


始動。



---


山が鳴った。



---


石が震えた。



---


何かが動き始めた。



---


宗景は低く呟く。



---


「予定より早すぎる」



---


咲は問い返す。



---


「何が起きているんです」



---


宗景は答えない。



---


代わりに空を見上げた。



---


厚い雲。



---


冬の空。



---


そして。



---


地面が震えた。



---


ごぉぉぉぉ……



---


低い音。



---


山の奥から響く。



---


昨日と同じ。



---


だが今度はもっと近い。



---


もっと大きい。



---


宗景の顔色が初めて変わった。



---


「まずい」



---


咲はその言葉を聞き逃さなかった。



---


この男は。



---


恐れている。



---


藤富家の当主が。



---


何かを恐れている。



---


そして。



---


山の奥から。



---


誰かの笑い声が聞こえた。



---


人間の声ではなかった。



---


男でも女でもない。



---


何百人もの笑い声が重なったような。



---


不気味な響き。



---


その方向を見た瞬間。



---


咲は遠くの山肌に何かを見た。



---


無数の人影。



---


立っている。



---


こちらを見ている。



---


その数は。



---


数百。



---


いや。



---


数千。



---


そして全員が。



---


同じ顔をしていた。



---


(第三章 第二話・続く)

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