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亀の瀬異聞録  作者: こうた
第三章:仏生堂起動(1840・天保の飢え)

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第一話「飢饉の底」

亀の瀬の冬は、年を追うごとに冷たさの質が変わっていた。


ただ寒いのではない。

骨の内側にまで湿った冷気が入り込み、呼吸のたびに「冷え」が体の奥へ沈んでいくような感覚だった。


天保十一年、仏生堂集落はすでに“村”と呼べる形を保っていなかった。


田は痩せ、川は濁り、山は黙り込んでいた。

人の声だけが、やけに大きく響く。


しかしその声は、どこか空虚だった。



---


高橋咲は、山裾の斜面で膝をついていた。


両手には泥がついている。

掘っていたのは薬草ではない。根の残骸でもない。

ただ、土の中に残る“気配”のようなものを探していた。


ここ数日、咲はそれをしている。


「何もないはずなのに、何かがいる」


それが、彼女の言葉にできない違和感だった。


土を指で払うと、黒ずんだ根のようなものが出てきた。

だがそれは植物ではない。

形は根だが、質感が違う。湿っているのに乾いている。

触れた瞬間、指先がわずかに痺れた。


「……また、これか」


咲は眉をひそめる。


村ではこれを“腐れ根”と呼んでいた。

だが本当に植物の腐敗なのかは、誰も説明できない。


それはどの畑にも、どの山肌にも現れる。

そして決まって、その周囲では人が消える。



---


背後で足音がした。


振り返ると、集落の男が二人、息を切らして立っていた。

顔色は悪く、目は落ち着きがない。


「高橋、来てくれ」


「……何があったのですか」


「また出た。……“生贄の場所”だ」


その言葉に、咲は一瞬だけ呼吸を止めた。


生贄。

それはこの村で“禁忌”ではない。

すでに制度になりつつある言葉だった。


だが咲は、それを理解できていなかった。


理解できないのではない。

理解したくなかった。



---


仏生堂集落の奥、山の裂け目に近い場所。

そこには古い祠があった。


祠は半ば崩れている。

木材は腐り、注連縄は垂れ、風が吹くたびにかすかな軋み音を立てる。


その前に、布が置かれていた。


布は白いはずだった。

しかし今は灰色に染まり、地面と同化しそうになっている。


その布の中心に、人の形があった。


正確には、“人だったもの”。


咲は一歩近づく。


「……息は?」


男が首を振る。


「もうない。だが……変なんだ」


「何が」


「消えない」


その言葉に、咲はようやく視線を上げた。



---


死体はそこに“ある”。


だが同時に、存在感が薄い。


目を離すと、輪郭が揺らぐ。

まるで雪の中の影のように、輪郭が溶けていく。


しかし完全には消えない。


そこに「ある」という事実だけが残り続けている。


咲は膝をつき、慎重に布の端を持ち上げた。


その瞬間だった。



---


地面の奥から、音がした。


ゴォ……という低い音。

風ではない。水でもない。

もっと深い場所から、何かが“鳴っている”。


咲は反射的に手を止めた。


「今の……」


男たちも顔を見合わせる。


「まただ」


「また、山が鳴ってる」



---


山が鳴る。


その表現は、この村では昔からあった。


しかしそれは比喩ではなかった。


最近になって、それは“現象”として認識され始めている。


地鳴りでもない。

地震でもない。

崩落の前兆でもない。


まるで山そのものが、何かに反応しているような音だった。



---


咲はゆっくりと立ち上がる。


「これを……誰がここに?」


男の一人が答えた。


「藤富様の指示だ」


その名前が出た瞬間、空気がわずかに変わった。


藤富家。


この集落を事実上支配している一族。


表向きは祈祷を司る家系。

だが最近では、その役割が変わりつつある。


祈るのではない。

“処理している”。


咲はそれを言葉にできずにいた。



---


「生贄は……もう“儀式”なのか?」


咲がそう呟くと、男は視線を逸らした。


「儀式じゃない。……必要だ」


「何に対して?」


答えは返ってこなかった。


代わりに、もう一人の男が小さく言った。


「山が……落ちないために」



---


その言葉は、咲にとって意味を持たなかった。


山が落ちないために人を捧げる?


理解できる論理ではない。


しかし村の空気は、その言葉を“当然”として受け入れている。


咲だけが、その輪の外にいるようだった。



---


祠の奥から、再び音がした。


今度は明確だった。


何かが“鳴いている”。


しかし動物の声ではない。

人の声でもない。


ただ、音の形だけがある。


咲は祠の中を覗き込んだ。


内部は暗い。

しかし暗闇の中に、何かがあった。


石。



---


それは石だった。


だが普通の石ではない。


表面に、無数の細い線が刻まれている。

まるで誰かが爪で引っ掻いたような痕。


その石は、呼吸しているように見えた。


わずかに“揺れている”。



---


咲は思わず一歩下がった。


「これは……何?」


男は答えない。


しかしその代わりに、別の声がした。


背後からではない。

祠の中でもない。


もっと“広い場所”から響いてくるような声だった。



---


「まだ……足りない」



---


咲の全身に鳥肌が立つ。


声は一つではなかった。


重なっている。


何人もの声が、同じ言葉を繰り返している。



---


「まだ足りない」

「まだ足りない」

「まだ足りない」



---


咲は後退した。


「誰だ……」


男たちは動かない。


むしろ、その声を“聞いていない”ようだった。



---


そのとき咲は理解する。


この音は、全員に聞こえているわけではない。



---


咲だけが、聞いている。



---


背後で、山が再び鳴った。


今度ははっきりと“応答”だった。


祠の中の石が、わずかに震えた。


そしてその瞬間、咲は見てしまう。


石の表面に、一瞬だけ“文字のようなもの”が浮かぶ。


読めない。


だが、意味だけが伝わる。



---


「登録完了」



---


咲は息を呑んだ。


「何を……登録した?」


その問いは誰にも届かない。


男たちはまだ動かない。


ただ立っている。


まるで“見ている”のではなく、“見させられている”ように。



---


その時だった。


祠の奥から、もう一度音がした。


今度は明確な“破裂音”。


石が、ひとつだけ欠けた。



---


その瞬間。


咲の視界の端で、何かが“増えた”。


祠の前に、さっきまでなかった影がある。


人の形。


しかし誰も気づいていない。


咲だけが見ている。



---


影はゆっくりと首を上げた。


そして、確かに口を動かした。



---


「……まだ、足りない」



---


咲は後ずさる。


しかし足が動かない。


地面が、わずかに“粘ついている”。



---


そのとき理解する。


この場所はもう“土地”ではない。



---


何かの“仕組み”だ。



---


遠くで、山がもう一度鳴った。


それは崩壊の音ではない。


始動の音だった。



---


咲はその場に立ち尽くしたまま、ただ一つの事実だけを理解する。



---


これは呪いではない。



---


すでに“動いている”。



---


(第一話・終)

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