第一話「飢饉の底」
亀の瀬の冬は、年を追うごとに冷たさの質が変わっていた。
ただ寒いのではない。
骨の内側にまで湿った冷気が入り込み、呼吸のたびに「冷え」が体の奥へ沈んでいくような感覚だった。
天保十一年、仏生堂集落はすでに“村”と呼べる形を保っていなかった。
田は痩せ、川は濁り、山は黙り込んでいた。
人の声だけが、やけに大きく響く。
しかしその声は、どこか空虚だった。
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高橋咲は、山裾の斜面で膝をついていた。
両手には泥がついている。
掘っていたのは薬草ではない。根の残骸でもない。
ただ、土の中に残る“気配”のようなものを探していた。
ここ数日、咲はそれをしている。
「何もないはずなのに、何かがいる」
それが、彼女の言葉にできない違和感だった。
土を指で払うと、黒ずんだ根のようなものが出てきた。
だがそれは植物ではない。
形は根だが、質感が違う。湿っているのに乾いている。
触れた瞬間、指先がわずかに痺れた。
「……また、これか」
咲は眉をひそめる。
村ではこれを“腐れ根”と呼んでいた。
だが本当に植物の腐敗なのかは、誰も説明できない。
それはどの畑にも、どの山肌にも現れる。
そして決まって、その周囲では人が消える。
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背後で足音がした。
振り返ると、集落の男が二人、息を切らして立っていた。
顔色は悪く、目は落ち着きがない。
「高橋、来てくれ」
「……何があったのですか」
「また出た。……“生贄の場所”だ」
その言葉に、咲は一瞬だけ呼吸を止めた。
生贄。
それはこの村で“禁忌”ではない。
すでに制度になりつつある言葉だった。
だが咲は、それを理解できていなかった。
理解できないのではない。
理解したくなかった。
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仏生堂集落の奥、山の裂け目に近い場所。
そこには古い祠があった。
祠は半ば崩れている。
木材は腐り、注連縄は垂れ、風が吹くたびにかすかな軋み音を立てる。
その前に、布が置かれていた。
布は白いはずだった。
しかし今は灰色に染まり、地面と同化しそうになっている。
その布の中心に、人の形があった。
正確には、“人だったもの”。
咲は一歩近づく。
「……息は?」
男が首を振る。
「もうない。だが……変なんだ」
「何が」
「消えない」
その言葉に、咲はようやく視線を上げた。
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死体はそこに“ある”。
だが同時に、存在感が薄い。
目を離すと、輪郭が揺らぐ。
まるで雪の中の影のように、輪郭が溶けていく。
しかし完全には消えない。
そこに「ある」という事実だけが残り続けている。
咲は膝をつき、慎重に布の端を持ち上げた。
その瞬間だった。
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地面の奥から、音がした。
ゴォ……という低い音。
風ではない。水でもない。
もっと深い場所から、何かが“鳴っている”。
咲は反射的に手を止めた。
「今の……」
男たちも顔を見合わせる。
「まただ」
「また、山が鳴ってる」
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山が鳴る。
その表現は、この村では昔からあった。
しかしそれは比喩ではなかった。
最近になって、それは“現象”として認識され始めている。
地鳴りでもない。
地震でもない。
崩落の前兆でもない。
まるで山そのものが、何かに反応しているような音だった。
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咲はゆっくりと立ち上がる。
「これを……誰がここに?」
男の一人が答えた。
「藤富様の指示だ」
その名前が出た瞬間、空気がわずかに変わった。
藤富家。
この集落を事実上支配している一族。
表向きは祈祷を司る家系。
だが最近では、その役割が変わりつつある。
祈るのではない。
“処理している”。
咲はそれを言葉にできずにいた。
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「生贄は……もう“儀式”なのか?」
咲がそう呟くと、男は視線を逸らした。
「儀式じゃない。……必要だ」
「何に対して?」
答えは返ってこなかった。
代わりに、もう一人の男が小さく言った。
「山が……落ちないために」
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その言葉は、咲にとって意味を持たなかった。
山が落ちないために人を捧げる?
理解できる論理ではない。
しかし村の空気は、その言葉を“当然”として受け入れている。
咲だけが、その輪の外にいるようだった。
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祠の奥から、再び音がした。
今度は明確だった。
何かが“鳴いている”。
しかし動物の声ではない。
人の声でもない。
ただ、音の形だけがある。
咲は祠の中を覗き込んだ。
内部は暗い。
しかし暗闇の中に、何かがあった。
石。
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それは石だった。
だが普通の石ではない。
表面に、無数の細い線が刻まれている。
まるで誰かが爪で引っ掻いたような痕。
その石は、呼吸しているように見えた。
わずかに“揺れている”。
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咲は思わず一歩下がった。
「これは……何?」
男は答えない。
しかしその代わりに、別の声がした。
背後からではない。
祠の中でもない。
もっと“広い場所”から響いてくるような声だった。
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「まだ……足りない」
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咲の全身に鳥肌が立つ。
声は一つではなかった。
重なっている。
何人もの声が、同じ言葉を繰り返している。
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「まだ足りない」
「まだ足りない」
「まだ足りない」
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咲は後退した。
「誰だ……」
男たちは動かない。
むしろ、その声を“聞いていない”ようだった。
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そのとき咲は理解する。
この音は、全員に聞こえているわけではない。
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咲だけが、聞いている。
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背後で、山が再び鳴った。
今度ははっきりと“応答”だった。
祠の中の石が、わずかに震えた。
そしてその瞬間、咲は見てしまう。
石の表面に、一瞬だけ“文字のようなもの”が浮かぶ。
読めない。
だが、意味だけが伝わる。
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「登録完了」
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咲は息を呑んだ。
「何を……登録した?」
その問いは誰にも届かない。
男たちはまだ動かない。
ただ立っている。
まるで“見ている”のではなく、“見させられている”ように。
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その時だった。
祠の奥から、もう一度音がした。
今度は明確な“破裂音”。
石が、ひとつだけ欠けた。
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その瞬間。
咲の視界の端で、何かが“増えた”。
祠の前に、さっきまでなかった影がある。
人の形。
しかし誰も気づいていない。
咲だけが見ている。
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影はゆっくりと首を上げた。
そして、確かに口を動かした。
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「……まだ、足りない」
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咲は後ずさる。
しかし足が動かない。
地面が、わずかに“粘ついている”。
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そのとき理解する。
この場所はもう“土地”ではない。
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何かの“仕組み”だ。
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遠くで、山がもう一度鳴った。
それは崩壊の音ではない。
始動の音だった。
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咲はその場に立ち尽くしたまま、ただ一つの事実だけを理解する。
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これは呪いではない。
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すでに“動いている”。
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(第一話・終)




