第一話 黒い雪の夜
昭和三年。
一九二八年。
冬。
奈良県・亀の瀬。
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夜。
山には風が吹いていた。
木々が揺れる。
枝が擦れる音だけが、静かな山に響いている。
誰も歩いていない山道。
そこへ。
一枚。
黒いものが空から舞い落ちた。
雪だった。
だが、白くない。
墨を溶かしたような黒。
触れれば指先に溶ける。
冷たさはない。
温かくもない。
まるで灰だった。
しかし灰とも違う。
山は静まり返っている。
その黒い雪だけが、音もなく降り続けていた。
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翌朝。
藤富家。
古い屋敷。
廊下には朝日が差し込み、柱時計が静かに時を刻んでいた。
居間では一人の青年が机に向かっていた。
藤富蒼士。
二十六歳。
藤富家の血を継ぐ青年だった。
真面目な性格。
祖父から古い言い伝えを聞いて育った。
亀の瀬には近づくな。
黒い帳面を見るな。
夜の鐘が鳴ったら振り返るな。
幼い頃から何度も聞かされた言葉だった。
だが蒼士は信じていなかった。
昔話だと思っていた。
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「蒼士。」
祖母の声。
「朝ご飯だよ。」
「今行く。」
蒼士は立ち上がる。
居間へ向かう途中。
床に何か落ちているのに気付いた。
黒い雪。
昨夜降ったものだった。
屋敷の中まで入り込んでいる。
蒼士は不思議そうに拾い上げた。
その瞬間。
ズキッ。
頭の奥が痛んだ。
一瞬だった。
「……なんだ?」
手を見る。
黒い雪は跡形もなく消えていた。
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朝食。
祖母が味噌汁をよそう。
「昨日の雪、見たかい?」
「黒い雪?」
「昔からあるんだよ。」
「昔?」
「呪いが動き始めると降る。」
祖母は冗談のように笑った。
しかしその目だけは笑っていなかった。
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食事を終えた蒼士は仏間へ向かった。
毎朝線香をあげる。
藤富家の習慣だった。
仏壇には古い写真が飾られている。
蒼士は手を合わせる。
その時だった。
一枚の写真が目に入る。
若い男。
優しく笑っている。
どこか自分に似ていた。
「……。」
誰だ。
思い出せない。
蒼士は首を傾げた。
「祖母。」
「なんだい?」
「この人……誰?」
祖母の顔色が変わった。
「何を言ってるんだい。」
沈黙。
「お前のお父さんじゃないか。」
蒼士の背筋を冷たいものが走る。
父。
父?
写真を見ても何も思い出せない。
笑顔。
声。
名前。
一緒に遊んだ記憶。
何一つない。
まるで最初から存在しなかったようだった。
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祖母は立ち尽くしていた。
震える声で言う。
「まさか……。」
「黒い雪……。」
「始まったのか……。」
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昼。
蒼士は亀の瀬へ向かった。
真実を知りたかった。
山道を歩く。
冬の空気は重い。
誰もいない。
鳥の声もしない。
やがて地滑り跡へ辿り着く。
そこには。
黒い雪が積もっていた。
白い雪はない。
地面一面。
黒。
風が吹く。
雪が舞う。
その景色は、美しい。
だが。
言葉にできないほど不気味だった。
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「触るな。」
突然。
後ろから老人の声。
振り返る。
猟師だった。
七十を越えているだろう。
険しい顔。
「兄ちゃん。」
「それに触るな。」
「何なんですか。」
老人は少し黙る。
そして。
「忘れる。」
「……え?」
「一枚で一つ。」
「大事なものを忘れる。」
「名前。」
「家族。」
「恋人。」
「自分。」
「全部食われる。」
蒼士は笑おうとした。
笑えなかった。
老人の目が。
本気だったからだ。
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その時。
風が止んだ。
山が静かになる。
老人が顔を上げた。
「来る。」
「え?」
カラン……
どこからともなく。
鈴の音。
一度だけ鳴った。
蒼士は周囲を見る。
誰もいない。
だが。
黒い雪の向こう。
木々の間。
白い着物。
小さな少女が立っていた。
長い黒髪。
裸足。
顔は見えない。
ただ。
蒼士だけを見ていた。
老人が叫ぶ。
「見るな!!」
しかし。
蒼士は目を逸らせなかった。
少女が。
ゆっくり口を動かす。
声は聞こえない。
けれど。
確かにそう見えた。
> 「……思い出して。」
次の瞬間。
少女の姿は黒い雪とともに消えた。
風だけが吹き抜ける。
老人は青ざめていた。
「終わった……。」
「兄ちゃん。」
「お前さん。」
「もう選ばれた。」
蒼士は意味が分からなかった。
だが胸の奥では。
何かが静かに目を覚まそうとしていた。
そしてこの日を境に。
二百年続く呪いは。
新たな継承者を迎えることになる。
――第二話「忘れられた祭り」へ続く。




