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亀の瀬異聞録  作者: こうた
第十一章 呪われた時代

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第一話 黒い雪の夜

昭和三年。


一九二八年。


冬。


奈良県・亀の瀬。



---


夜。


山には風が吹いていた。


木々が揺れる。


枝が擦れる音だけが、静かな山に響いている。


誰も歩いていない山道。


そこへ。


一枚。


黒いものが空から舞い落ちた。


雪だった。


だが、白くない。


墨を溶かしたような黒。


触れれば指先に溶ける。


冷たさはない。


温かくもない。


まるで灰だった。


しかし灰とも違う。


山は静まり返っている。


その黒い雪だけが、音もなく降り続けていた。



---


翌朝。


藤富家。


古い屋敷。


廊下には朝日が差し込み、柱時計が静かに時を刻んでいた。


居間では一人の青年が机に向かっていた。


藤富蒼士。


二十六歳。


藤富家の血を継ぐ青年だった。


真面目な性格。


祖父から古い言い伝えを聞いて育った。


亀の瀬には近づくな。


黒い帳面を見るな。


夜の鐘が鳴ったら振り返るな。


幼い頃から何度も聞かされた言葉だった。


だが蒼士は信じていなかった。


昔話だと思っていた。



---


「蒼士。」


祖母の声。


「朝ご飯だよ。」


「今行く。」


蒼士は立ち上がる。


居間へ向かう途中。


床に何か落ちているのに気付いた。


黒い雪。


昨夜降ったものだった。


屋敷の中まで入り込んでいる。


蒼士は不思議そうに拾い上げた。


その瞬間。


ズキッ。


頭の奥が痛んだ。


一瞬だった。


「……なんだ?」


手を見る。


黒い雪は跡形もなく消えていた。



---


朝食。


祖母が味噌汁をよそう。


「昨日の雪、見たかい?」


「黒い雪?」


「昔からあるんだよ。」


「昔?」


「呪いが動き始めると降る。」


祖母は冗談のように笑った。


しかしその目だけは笑っていなかった。



---


食事を終えた蒼士は仏間へ向かった。


毎朝線香をあげる。


藤富家の習慣だった。


仏壇には古い写真が飾られている。


蒼士は手を合わせる。


その時だった。


一枚の写真が目に入る。


若い男。


優しく笑っている。


どこか自分に似ていた。


「……。」


誰だ。


思い出せない。


蒼士は首を傾げた。


「祖母。」


「なんだい?」


「この人……誰?」


祖母の顔色が変わった。


「何を言ってるんだい。」


沈黙。


「お前のお父さんじゃないか。」


蒼士の背筋を冷たいものが走る。


父。


父?


写真を見ても何も思い出せない。


笑顔。


声。


名前。


一緒に遊んだ記憶。


何一つない。


まるで最初から存在しなかったようだった。



---


祖母は立ち尽くしていた。


震える声で言う。


「まさか……。」


「黒い雪……。」


「始まったのか……。」



---


昼。


蒼士は亀の瀬へ向かった。


真実を知りたかった。


山道を歩く。


冬の空気は重い。


誰もいない。


鳥の声もしない。


やがて地滑り跡へ辿り着く。


そこには。


黒い雪が積もっていた。


白い雪はない。


地面一面。


黒。


風が吹く。


雪が舞う。


その景色は、美しい。


だが。


言葉にできないほど不気味だった。



---


「触るな。」


突然。


後ろから老人の声。


振り返る。


猟師だった。


七十を越えているだろう。


険しい顔。


「兄ちゃん。」


「それに触るな。」


「何なんですか。」


老人は少し黙る。


そして。


「忘れる。」


「……え?」


「一枚で一つ。」


「大事なものを忘れる。」


「名前。」


「家族。」


「恋人。」


「自分。」


「全部食われる。」


蒼士は笑おうとした。


笑えなかった。


老人の目が。


本気だったからだ。



---


その時。


風が止んだ。


山が静かになる。


老人が顔を上げた。


「来る。」


「え?」


カラン……


どこからともなく。


鈴の音。


一度だけ鳴った。


蒼士は周囲を見る。


誰もいない。


だが。


黒い雪の向こう。


木々の間。


白い着物。


小さな少女が立っていた。


長い黒髪。


裸足。


顔は見えない。


ただ。


蒼士だけを見ていた。


老人が叫ぶ。


「見るな!!」


しかし。


蒼士は目を逸らせなかった。


少女が。


ゆっくり口を動かす。


声は聞こえない。


けれど。


確かにそう見えた。


> 「……思い出して。」




次の瞬間。


少女の姿は黒い雪とともに消えた。


風だけが吹き抜ける。


老人は青ざめていた。


「終わった……。」


「兄ちゃん。」


「お前さん。」


「もう選ばれた。」


蒼士は意味が分からなかった。


だが胸の奥では。


何かが静かに目を覚まそうとしていた。


そしてこの日を境に。


二百年続く呪いは。


新たな継承者を迎えることになる。


――第二話「忘れられた祭り」へ続く。

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