二十一、Firefly muted NOISES silently.(結)
消音壁の向こうには、現代風なコンクリート造りのこじゃれた住宅があった。
デザイン上、外壁と塀の区別が曖昧な作りで、円形にくりぬかれた穴窓越しに小さな庭が見える。真下にはそこから落ちたらしい壊れた植木鉢の残骸とシクラメン。
哀れましく土を散らす白い花をいささか不吉に思いながら、蛍と時雨は現場に足を踏み入れた。
任務の内容はここへ向かう車中で頭に叩き込んである。ここの住民は夫婦と子ども二人の四人家族で、そのうち通報者でもある父親は、下の子を抱えて咄嗟に飛び出したとのことで無事。
つまり現場に残っているのは母親とまだ小学生だという上の子――どちらが発叫したのかはわからないそうだ。
状況からすると両方がそうであるか、はたまたどちらとも発声源ではない可能性だってある。音念は喰らうべき音さえあれば性質上どこからだって住居に侵入できるし、中級音念が複数体生じるには、それなりの音量か増幅にかかる時間が必要だからだ。
結局のところ理由や原因は重要じゃない。母子を救えるかどうか、大事なのはそれだけだ。
子どもは廊下に倒れていたので早く発見できた。この子の救助は蛍の仕事だ。なぜなら平均的な体格の小学三年生は成人女性よりも体重が軽いから。
時雨に手伝ってもらって子どもを背負い、来た道を引き返す。迅速な対応こそが肝心だから、時雨のことを振り返ったりはしないけれど――今頃になって、いつかの彼の心境がわかったような気がした。
昇級試験には飛び級という概念がないため、蛍たちは二人で一緒に三ツ星になったばかりだ。つまり時雨は補助があれば上級音念にも対処できることになるし、本人が言い張るには霊体破壊を覚えたそうだから、理屈の上ではまったく心配の必要などない。
でも中級音念たちが他の音念も呼び寄せ、共食いをして大型の上級音念になっていたら。一人になった彼がそれと遭遇してしまったら。
もしもそれが『母親』を攻撃していたら? あまつさえ、その顔が『母親』のそれと同じだったりしたら……。
「蛍。時雨は中?」
「……」
入口近くに来たところで鳴虎に会った。頷くだけの最低限のやりとりを済ませ、外で待機している救急隊員に子どもを渡す。
救急車の横に佇んでいた、より小さな子を抱き締めている父親と目が合った。不安でどろどろの瞳が、未だ戻らない妻の安否を問うているのが、彼が口を開くよりも前にわかる。
答える言葉も声も持たない少女はすぐに室内に取って返した。
合流は思ったより容易く、最初に子どもを救助した地点のすぐ先に時雨たちがいた。問題はそこから二人が動いていないことのほうだ。
つまり救助するべき女性が倒れているのに、葬憶隊員たちの行く手を大型化した音念が遮っていた。恐れていた人型はしていなかったが、敵はアメーバのような形態をとっており、狭い室内じゅうに網状に広がっている。
「っち……」
ごく小さな鳴虎のつぶやきを、どんな囁きも聞き逃さない地獄耳で拾って咀嚼する。
すべての音は蛍にとって栄養だ。――ああ、振り返った時雨の心臓の音が忙しなくて、こちらまで同調してしまう。
淡墨色の残留奏に満ち満ちた薄闇のなかで、反音念の霊体がぐんと膨らむ。もしかしたら人間たちにも薄っすらと見えたかもしれない――死せる少女に身をやつした科学の天使が、その蒼白い鞭毛を拡げたのが。
時雨が「めー姉」小声で鳴虎の腕を引く。それで気づいた姉分が道を譲った。
三ツ星の彼より、四ツ星の彼女よりも、理論上は騒念を倒した蛍がこの場では一番強いということになる。是非はともかく、この厄介な流動型音念を最も早く除去する術ならあった。
気を付けなければならないことが二つ。まず、ここは山の上のラボ跡地と違って今現在も一般市民が暮らしている住居なので、不必要に破壊するわけにはいかない。
そして何より重要なのが、音念の傍に倒れている女性を巻き添えにするのだけは絶対に避けねばならない。
蛍は一瞬振り返った。幼馴染みと目が合って、その瞬間、触れ合ってもいない唇同士が同じ形を描く。
言葉も声も、今は要らない。眼差しに込められた信頼に背を押されたのを感じた。
同じものをこちらも胸に抱きかかえるような心地で、蛍はそっと自身の喉に手を当てる。
そうして肺いっぱいに溜めていた熱を一息に、少女は吼えた。
音念の身体が割れた風船のようにばらばらに弾け飛ぶ。その破片を斬り散らしながら飛び込んできた二人が、女性を死地から救い上げる。
断片になってもまだ魔手を伸ばす暗闇に、蛍は決して黙ってはいない。女性を抱え上げた時雨が頷くのに首肯して送り出す。
「……あ……子どもが、子どもたちは」
「大丈夫、あんたが最後だよ。みんな無事だから」
「あぁ……ッ、あり……がとう……」
「援護する。蛍、しばらくここ任せるわ」
二人の声を背に、少女は前に向き直る。
またうぞうぞと元の形を取り戻そうとし始めている哀しい暗黒に。
これがどうして生まれたのかは知らない。考える必要もない。
いつしか人の思念が形を成し、立ち上がって誰かを傷つける時代になった。それは蛍にはどうしようもないただの事実で、結果として反音念が生み出され、時雨と出会って今ここに立っている。
ただそれだけのことだ。それ以上の意味はなくていい。
本当の名前がなかった。
過去がなかった。血の繋がる家族がなかった。
想いを伝える声さえ、持っていなかった。
けれど今は、名前も家族も持っている。彼らと分かち合える思い出がある。
一緒に生きたいと願える大好きな人がいる。だから、
――これからも私は、清川蛍として生きていく。
数分後、戻ってきた時雨は見るだろう。
すべての哀しみを包み込み、悲鳴と怒号の闇を照らす淡い光が、星空のように広がっているのを。
美しい静寂に満たされた天の川のほとりに佇んでいる、彼の天使を。
【鳴かぬ蛍は残響を消す /終】




