第5話 戦闘チュートリアルは誰かの命でできている
第5話です。
第4話では、澪たちは東排水門へ向かい、海が濁った理由が単純な悪意ではないことを知りました。
工業都市の排水。
漁業国家の怒り。
止められない生産。
止まらない不信。
壊れかけた浄化槽と、古代の海底循環路。
誰か一人の悪意ではなく、生活、恐れ、先送り、責任の押しつけ合いが積み重なり、海は息を失っていきました。
排水門の応急調律には成功しました。
しかし、灯台は虚無小体に襲われ、中央桟橋では漁業国家と工業都市の兵士たちが衝突寸前。
そして海の底では、アビス・リヴァイアが目覚めようとしています。
今回は、澪がゲーム開発者として知っていたはずの「戦闘チュートリアル」が、この世界では誰かの命の上に成り立っていることを知る回です。
港全体に、警鐘が鳴り響いていた。
一度。
二度。
三度。
その音は、ただ危険を知らせているだけではなかった。
助けを求めていた。
崩れかけた桟橋。
黒く濁った水路。
煙を上げる倉庫。
そして灰色の海。
そのすべてが、まだ終わっていないと叫んでいる。
澪たちは排水門を背に、灯台へ向かって走っていた。
正確には、走っているのはアオイたちだった。
澪は必死についていっているだけだった。
「ぜ、ぜんぜん……足が……」
息が切れる。
喉が焼ける。
肺が痛い。
四日間ほぼ徹夜だった身体に、港を走り回る体力など残っているはずがない。
だが、立ち止まれば遅れる。
遅れれば、誰かが死ぬかもしれない。
その考えだけで、澪は足を動かしていた。
「ミオさん、少し速度を落とします」
アオイが振り向く。
彼女の腕には、排水門で主排水弁を押さえた時の負荷がまだ残っているはずだった。
それでも、澪を気遣う余裕がある。
澪は情けなくなった。
「ごめん……戦闘適性最低どころか、移動適性も低いかも」
「それでも来てくれています」
フィリアが隣で言った。
エルフの少女も疲れていた。
肩の精霊は、いつもより光が弱い。
魚倉の救助、排水門の調律、虚無小体への反射支援。
短時間で力を使いすぎている。
それでもフィリアは、足を止めなかった。
「海も、人も、まだ助けを求めていますから」
ルシェリアは前方を見据えたまま、風を読むように手をかざしている。
「中央桟橋の方角から、感情の乱れが強くなっています。怒り、恐怖、焦燥。虚無が反応するには十分です」
「灯台は?」
澪が石板を見る。
セラフィナの声が、途切れ途切れに届いた。
「……灯台上層に港長の反応あり。虚無小体、内部階段に二体。光剣防壁は維持中ですが、出力低下。長くは保ちません」
「セラフィナ、無理しないで」
「無理をしなければ、港長は守れません」
「光剣を全部攻撃に回さないで。防壁優先。港長が生きていれば、灯台の一部は壊れてもいい」
「……了解しました。防壁優先に変更します」
澪は、セラフィナの返答が少しずつ柔らかくなっていることに気づいた。
第2話では、彼女は澪の指示に不信を向けていた。
当然だ。
突然現れた澪が、自分たちの能力を知っていて、編成まで指示する。
それは、セラフィナにとって秩序を乱す存在に見えただろう。
だが今は違う。
完全に信頼されたわけではない。
けれど、澪の判断を任務として受け取ってくれている。
それが嬉しいと同時に、怖かった。
任されるということは、間違えた時の責任も自分に来るということだからだ。
通信に、ミルカの声が割り込んだ。
「ミオ、港の構造図、だいたい復元できたよ。灯台へ行く最短ルートは中央桟橋を突っ切る道。でもそこは兵士が集まってる」
「迂回は?」
「北側の整備路を通れば灯台の裏へ出られる。ただし途中で崩落あり。ライカが安全そうな道を見てる」
「ライカ、どう?」
「うーん、行けなくはない!」
ライカの声は明るいが、その言い方はかなり怪しい。
「行けなくはないって、どのくらい?」
「普通の人は落ちるかも!」
「だめじゃん」
「でもアオイなら行ける! ルシェリアも魔法で足場作れる! フィリアは精霊で浮けるかも! ミオは……えっと」
少しだけ間が空いた。
「誰かに運んでもらう?」
「戦闘適性最低に続いて移動要介護……」
澪は額を押さえた。
だが、冗談を言っていられる時間は短かった。
中央桟橋の方から、怒号が響いた。
澪たちが角を曲がると、港の中心が見えた。
そこは、まさに衝突寸前だった。
青い腕章の漁業国家兵。
灰色の防護服を着た工業都市の護衛兵。
双方が、槍と剣を構えて睨み合っている。
その中央には、倒れた荷車と、破れた旗。
そして、灯台へ向かう橋があった。
「通れない……」
フィリアが呟く。
橋の向こうに灯台が見える。
白い石で造られた細い塔。
本来なら、海を照らすための場所。
今は黒い霧に包まれ、上層の窓だけが、かすかに光っている。
あれがセラフィナの光剣防壁だろう。
「港長を引きずり出せ!」
漁業国家の兵士が叫ぶ。
「海を殺した責任を取らせる!」
「港長を渡せば、責任を全部押しつけられると思っているのか!」
工業都市の兵士が言い返す。
「排水門の管理責任は港長にもある! それを裁くのは我々だ!」
「裁く?」
漁業国家の兵士が剣を抜きかける。
「お前たちに裁く資格があるのか!」
空気が弾けそうになった。
澪は、脳内で警告音が鳴るのを感じた。
二国間衝突。
中央桟橋イベント。
灯台港長ルート。
ゲームでは、この場面は戦闘チュートリアルの発展版だった。
敵は人間ではない。
虚無小体が双方の兵士の怒りに反応して出現し、それを倒しながら、兵士同士の衝突を防ぐ。
プレイヤーはここで、基本攻撃、回避、スキル、必殺技、QTE的連携を学ぶ。
そういう設計だった。
「……チュートリアル」
澪は小さく呟いた。
だが、目の前にいる兵士たちは教材ではない。
誰もが本気で怒っている。
本気で恐れている。
本気で、自分たちが正しいと思っている。
その怒りに虚無が反応し、黒い霧が桟橋の板の隙間から滲み出した。
「来ます!」
フィリアの精霊が震えた。
黒い霧が、兵士たちの足元で形を取る。
一体。
二体。
三体。
狼のような影が、槍を構えた兵士へ飛びかかった。
「伏せて!」
アオイが叫ぶ。
兵士が反応するより早く、アオイが前へ飛び込んだ。
盾が虚無小体の爪を受け止める。
重い音が響いた。
「なっ……!」
襲われかけた漁業国家の兵士が、尻もちをつく。
アオイは振り返らずに言った。
「下がってください! あなたたちが争うと、こいつらが増えます!」
「何を言って……」
工業都市側でも、虚無小体が護衛兵に襲いかかっていた。
ルシェリアが手をかざす。
「風よ、刃ではなく壁となれ」
風が桟橋の上を走り、虚無小体と兵士たちの間に薄い壁を作った。
攻撃ではない。
まず分断。
人間同士の衝突を止めるための風。
フィリアの精霊が光の粒を撒き、負傷者へ飛んでいく。
「動ける人は後ろへ! 怪我をした人を連れて下がってください!」
澪も叫んだ。
「武器を下ろして! 今戦う相手は互いじゃない!」
しかし、怒り切った人々の耳には届きにくい。
「そいつらの魔法で脅すつもりか!」
「工業都市の差し金か!」
「違います!」
澪は叫び返した。
その瞬間、桟橋の下から巨大な黒い触手のようなものが飛び出した。
「ミオ!」
ルシェリアの声。
澪は反応できなかった。
黒い触手が、澪の足元を薙ぐ。
アオイが間に入ろうとする。
だが距離がある。
間に合わない。
その時、白い光の剣が空から降った。
セラフィナの遠隔光剣。
触手を斬るほどの力はない。
だが、軌道をずらすには十分だった。
黒い触手は澪の横をかすめ、桟橋の板を砕いた。
澪は尻もちをつく。
心臓が喉から飛び出しそうだった。
「ミオ、生きていますか」
石板からセラフィナの声がした。
いつもより少しだけ、声が硬い。
「い、生きてる……ありがとう」
「感謝は後で。灯台防壁の出力を削りました。長くは持ちません」
「ごめん」
「謝罪も後で」
セラフィナの声は冷静だった。
けれど、その一言に澪は救われた。
自分は今、確かに仲間に守られた。
澪は立ち上がり、震える足を押さえつける。
「アオイ、前線維持! ルシェリアは人間同士を分断する風壁を継続! フィリア、兵士の怪我を優先して! 虚無を倒すより、怒りを広げない!」
「はい!」
三人が動く。
虚無小体は増えていた。
兵士たちの恐怖と怒りに反応して、桟橋のあちこちから滲み出してくる。
アオイは一体ずつ受け止め、盾で押し返し、剣で核を砕く。
倒すたびに青い光が広がる。
ドレインによる微回復。
周囲の兵士たちは、それを見て驚いていた。
「傷が……」
「今、痛みが引いたぞ」
「敵を倒した光が、こちらにも……?」
アオイの力は、敵を倒すだけではない。
倒したものの力を、味方へ巡らせる。
循環の戦士。
澪はその姿を見ながら、胸元の調律核が熱くなるのを感じた。
戦闘が見える。
虚無小体の出現位置。
アオイの疲労。
ルシェリアの魔力残量。
フィリアの精霊支援の維持限界。
セラフィナの光剣出力低下。
数字ではない。
バーでもない。
けれど、感覚としてわかる。
「アオイ、個人必殺はまだ温存!」
「はい!」
「ルシェリア、次の範囲術式は撃たないで! 兵士を巻き込む!」
「理解しています」
「フィリア、反射を兵士側に一枚!」
「できます。でも、精霊が疲れています!」
「一瞬でいい!」
フィリアの精霊が桟橋の中央へ飛び、薄い翠の膜を張る。
虚無小体の爪が兵士へ届く直前、その膜が攻撃を弾いた。
兵士が目を見開く。
「助け……られた?」
その動揺が、怒りを少しだけ弱める。
黒霧が薄くなった。
澪は見逃さなかった。
「効いてる……」
虚無は感情に反応する。
なら、怒りを減らせば湧きも弱まる。
単に倒すだけではなく、場の空気そのものを変える必要がある。
それはゲームの攻略情報としてはわかっていた。
しかし現実に見ると、ずっと生々しい。
「漁業国家の人、負傷者を下げて!」
澪は叫ぶ。
「工業都市の人、橋の補強を! 壊れたら全員落ちます!」
「なぜ俺たちがあいつらを助ける!」
工業都市の護衛兵が怒鳴る。
その直後、桟橋の板が軋んだ。
虚無の触手が下から板を削っている。
このままでは、人間同士が争う前に桟橋が落ちる。
「助けるんじゃなくて、自分たちも落ちないためです!」
澪は叫び返した。
「今ここで橋が落ちたら、漁業国家も工業都市も関係なく海に落ちます!」
その言葉で、何人かが動いた。
工業都市の兵士が壊れた板を押さえる。
漁業国家の兵士が負傷者を引きずって下がる。
避難民の中から来た漁師と工場労働者も、搬送路を作るために走り回る。
小さな協力。
それだけで、黒霧の増殖が鈍る。
「ミオ!」
ミルカの声が通信から響いた。
「桟橋の下、古い支柱が一本折れかけてる! このままだと全体が傾く!」
「補強できる?」
「現地で楔を打てれば! でも人手がいる!」
澪は周囲を見た。
兵士たちはまだ完全には信用し合っていない。
だが今なら動かせる。
「工業都市の人、工具はありますか!」
「ある!」
「漁業国家の人、海側の支柱まで降りられる人は!」
「俺たちなら行ける!」
「ミルカの指示を聞いて! 支柱を補強します!」
「見ず知らずのやつの指示を聞けってのか!」
「聞かないと橋が落ちます!」
その一言は強かった。
数人が舌打ちしながらも動く。
ミルカが通信越しに指示を飛ばす。
「右の支柱、上じゃなくて根元! そこに楔! 違う、縦じゃなく斜め! 荷重を逃がすの! 構造を殺す気!?」
「口悪いな、あの娘!」
「でも言ってることは正しいぞ!」
兵士たちが怒鳴り返しながら作業する。
ミルカは中継殿にいる。
前線にはいない。
それでも彼女の構造知識が、桟橋を支えていた。
ライカの声も届く。
「右後ろから黒いの来る! 兵士じゃなくて、荷車の陰!」
「アオイ!」
「はい!」
アオイが反応する。
虚無小体が荷車の陰から飛び出す。
アオイの盾がそれを受け止める。
しかし、今度は別方向から二体。
「数が多い……!」
フィリアの精霊が悲鳴のように光る。
ルシェリアが手を広げかけた。
澪はすぐに止める。
「大魔法はだめ!」
「わかっています。ですが、この数では」
「私がまとめる」
アオイが言った。
「アオイ?」
「敵の注意を私に寄せます」
「危険です!」
フィリアが叫ぶ。
アオイは盾を構え、深く息を吸った。
胸元の調律核が青く光る。
個人必殺技。
クールダウンは、まだ戻りきっていないはずだった。
だが撃てる。
ぎりぎり使える。
澪にはわかった。
ただし、ここで使えば次に大きな敵が出た時に使えない。
雑魚戦なら、敵が大量に湧いている時。
味方のHPが減った時。
今は、その条件に近い。
だが、消耗が大きい。
「アオイ、使うなら防御寄りで!」
澪が叫ぶ。
「倒しきらなくていい! 引きつけて、味方を回復させるだけ!」
「了解です!」
アオイが盾を地面に叩きつけた。
「循環戦技――《蒼盾環》!」
青い光の輪が、アオイを中心に広がる。
虚無小体たちが、一斉に彼女へ向かって走った。
挑発。
防御。
ドレイン。
ゲームの説明ならそうなる。
だが現実では、アオイが自分の身体を囮にしているということだった。
虚無小体の爪が盾にぶつかる。
一体、二体、三体。
衝撃のたびにアオイの足元が削れる。
それでも彼女は下がらない。
青い光が砕け、周囲の味方へ降り注ぐ。
兵士たちの小さな傷が塞がる。
フィリアの精霊の光が少しだけ戻る。
ルシェリアの魔法陣が安定する。
「今!」
澪が叫ぶ。
「ルシェリア、小型範囲! アオイの周囲だけ!」
「承知しました」
ルシェリアの魔法陣が展開する。
「風氷術式――《リム・サークル》」
アオイの周囲にだけ、冷たい風の輪が走った。
虚無小体たちが凍り、動きを止める。
「フィリア、反射じゃなく浄化支援!」
「はい!」
精霊たちが凍った虚無へ触れる。
黒い霧が少しずつ薄まり、核だけが露出する。
アオイが盾を押し出した。
まとめて砕く。
青い光が桟橋に広がった。
一瞬、黒霧が晴れた。
兵士たちが呆然とその光景を見ている。
「これが……調律者……」
誰かが呟いた。
澪は膝に手をつき、息を整える。
今の連携は、ゲームでいうなら基本コンボだった。
タンクが引きつける。
範囲魔法で固める。
支援で浄化補助。
撃破時回復で立て直す。
戦闘チュートリアルそのもの。
だが澪は、その言葉を口にできなかった。
アオイの肩は上下している。
フィリアの顔色は悪い。
ルシェリアの額にも汗がにじんでいる。
チュートリアルではない。
これは誰かの命を守るための戦いだ。
そして、誰かの痛みを使って学ぶ戦いだ。
「……最低だ」
澪は呟いた。
「ミオ?」
ルシェリアが振り向く。
「私たちの世界では、こういうのをチュートリアルって呼ぶの。操作を覚えるための最初の戦闘。失敗してもやり直せる、練習用の場所」
アオイが静かに聞いている。
澪は拳を握った。
「でも、ここでは違う。兵士も、避難民も、みんな本当に怪我をする。アオイが受けた痛みも本物で、フィリアの精霊が疲れるのも本物で、ルシェリアが魔力を削るのも本物で……」
声が震えた。
「戦闘チュートリアルは、誰かの命でできている」
誰もすぐには答えなかった。
やがてアオイが言った。
「なら、覚えましょう」
澪は顔を上げる。
「え?」
「痛かったことを。怖かったことを。誰かが傷ついたことを。次に同じ痛みを減らせるように」
アオイは疲れた顔で、それでも微笑んだ。
「それなら、無駄ではありません」
澪は言葉を失った。
アオイは、澪を責めなかった。
でも、許したわけでもない。
ただ、次に生かそうと言った。
それがこの世界の残酷さであり、希望でもあった。
その時、灯台の上から爆発音が響いた。
白い光が弾ける。
セラフィナの光剣防壁が破られた。
「ミオ!」
セラフィナの声が通信から響く。
「港長が危険です。虚無小体が上層へ到達しました!」
「今行く!」
澪は叫んだ。
中央桟橋の兵士たちは、まだ完全には落ち着いていない。
だが、先ほどまでのような即時衝突の空気は薄れていた。
橋の補強も、最低限は終わっている。
今なら、灯台へ走れる。
「アオイ、動ける?」
「動けます」
「必殺技は?」
「今使ったので、しばらく無理です」
「ルシェリア?」
「大規模術式はまだ避けるべきです。ですが、小型術式なら」
「フィリア?」
「精霊たちは疲れています。でも、港長さんを守るくらいなら」
三人とも限界に近い。
それでも行くしかない。
澪は周囲の兵士たちを見た。
「ここは、もうあなたたちで守ってください!」
漁業国家の兵士が息を呑む。
「我々で?」
「工業都市の人と一緒に! また虚無が出たら、互いを責める前に橋を守って! ここが落ちたら灯台にも排水門にも行けなくなる!」
工業都市の護衛兵が苦々しい顔で頷いた。
「……橋を守るだけなら、できる」
漁業国家の兵士も槍を構える。
「敵が虚無ならな」
澪はそれ以上待たなかった。
「行こう!」
アオイ、ルシェリア、フィリアが走る。
灯台へ向かう橋を渡る。
途中、黒い霧が足元から伸びる。
ルシェリアの風が切る。
フィリアの精霊が道を照らす。
アオイが前方の障害物を盾で押しのける。
灯台の扉は、内側から歪んでいた。
黒い爪痕。
破れた結界。
そして、薄く残る白い光。
セラフィナの光剣が、最後の一本だけ扉の前に突き立っている。
澪が近づくと、光剣が淡く揺れた。
「これ以上は維持できません」
セラフィナの声。
「すみません。港長を、守りきれませんでした」
「まだ終わってない」
澪は言った。
「守りきるのは、ここから」
アオイが扉に手をかける。
「開けます」
扉が軋む。
中は暗かった。
螺旋階段が上へ伸びている。
壁には古い灯火。
床には黒い霧。
そして、階段の途中に虚無小体がいた。
一体ではない。
細長い体の虚無が、階段に絡みつくように蠢いている。
蛇のような姿。
ところどころに魚の鱗と鳥の骨が混ざっている。
「形が変わってる……」
澪は息を呑んだ。
これは、中央桟橋で見た虚無小体とは違う。
環境に適応している。
狭い階段。
上層への通路。
逃げ場のない空間。
そこに合わせて、虚無が形を変えていた。
「Another Route Seedの影響?」
澪は呟く。
ルシェリアが目を細める。
「この虚無は、周囲の構造を学習しているようです」
「学習……」
嫌な言葉だった。
ゲーム内の虚無小体は、種類ごとに行動パターンが決まっている。
地形に応じて多少動くことはあっても、ここまで適応する設計ではない。
澪の知らない世界。
仕様書にない敵。
「大技は使えない」
澪は言った。
「階段が壊れる。港長が上にいるなら、灯台自体を傷つけちゃだめ」
「なら、私が前に出ます」
アオイが言う。
「だめ。狭すぎる。盾が引っかかる」
澪は階段を見る。
ここではアオイの防御力を活かしきれない。
ルシェリアの範囲魔法も危険。
フィリアの支援は有効だが、精霊が疲れている。
「どうしますか」
フィリアが問う。
澪は胸元の調律核に意識を向けた。
観測。
編成。
共鳴補助。
今いる前線は三人。
しかし後方支援はつながっている。
「セラフィナ」
澪は通信を開く。
「光剣、あと一本だけ出せる?」
「攻撃用なら、数秒です」
「それでいい。階段の上じゃなく、虚無の影を縫い止めるように刺して」
「影を?」
「本体を斬らなくていい。動きを止めるだけ」
少しの沈黙。
「可能です。ただし、出力は不安定です」
「ミルカ、支援回線で光剣を固定できる?」
「やったことないけど、構造固定ならいけるかも!」
「ライカ、虚無の動き読める?」
「匂いが変だけど、行き先はわかる! 上に行こうとしてる!」
澪は頷いた。
「じゃあ、倒さない。止めて、通る」
アオイが振り向く。
「倒さずに?」
「時間がない。ここで全部倒す必要はない。港長を助けるのが目的」
ルシェリアが微笑む。
「目標の再定義ですね」
「うん。戦闘の勝利条件を間違えない」
ゲーム開発で何度も考えたことだ。
敵を全滅させるのか。
一定時間耐えるのか。
誰かを守るのか。
目的地へ到達するのか。
勝利条件が違えば、正しい行動も変わる。
今の目的は、虚無小体の討伐ではない。
港長救出。
「セラフィナ、今!」
白い光が階段の上から差し込んだ。
遠隔光剣が虚無の影へ突き刺さる。
虚無が身をよじる。
ミルカの金色の構造線が、光剣と階段の壁をつなぎ、一瞬だけ固定した。
「今なら動ける!」
ライカの声が響く。
「アオイ、先頭! 盾を横じゃなく縦に! ルシェリア、足元の霧だけ払って! フィリア、精霊を上へ!」
「はい!」
三人が駆け上がる。
澪も続く。
息が苦しい。
足が重い。
階段が長い。
虚無が光剣を振りほどこうと暴れる。
壁が軋む。
「急いで!」
ミルカが叫ぶ。
「固定、もう持たない!」
澪は必死に階段を上った。
途中、足がもつれる。
落ちる。
そう思った瞬間、アオイが手を伸ばして澪の腕を掴んだ。
「ミオさん!」
「ごめん!」
「謝るのは後です!」
今日、何度目かの言葉だった。
澪はアオイに引き上げられながら、歯を食いしばる。
本当に、足手まといだ。
だが、その自分にも役割がある。
そう信じなければ、ここに立っていられなかった。
階段を抜けると、灯台上層の小部屋に出た。
そこには、一人の老人が倒れていた。
白髪の男性。
港長と思われる人物。
足を怪我しており、壁にもたれかかっている。
彼の前には、消えかけた光剣防壁があった。
セラフィナが守っていたものだ。
老人は澪たちを見ると、かすれた声で言った。
「調律者……か」
「港長さんですね?」
澪が膝をつく。
「助けに来ました」
「助ける……この港をか。それとも、私をか」
「両方です」
老人は苦笑した。
「欲張りだな」
「そうじゃないと間に合わないんです」
フィリアが港長の足に精霊を添える。
「骨までは治せません。でも、痛みは抑えます」
「すまない、エルフの娘よ」
その時、灯台の窓の外で、海が大きく盛り上がった。
部屋全体が揺れる。
港長の顔色が変わる。
「来るぞ」
澪は窓の外を見た。
沖合の海面が割れていた。
黒い水柱が空へ伸び、その中に巨大な影が浮かぶ。
鯨のような巨体。
竜のような鰭。
体表を覆う黒い結晶。
まだ完全には出ていない。
けれど、その存在感だけで、港の空気が凍りついた。
アビス・リヴァイア。
深海虚獣。
海が受け止めきれなかった痛みの形。
澪の調律核に、赤黒い文字が浮かぶ。
《深海虚獣アビス・リヴァイア:出現準備》
《中央桟橋戦闘:一時停止》
《港長救出:進行中》
《戦闘チュートリアルフェーズ:完了》
《実戦フェーズへ移行》
「……ふざけないで」
澪は震える声で呟いた。
戦闘チュートリアルフェーズ完了。
その文字が、あまりにも無神経に見えた。
誰かが傷ついた。
誰かが泣いた。
兵士たちは恐怖で武器を握り、避難民は家族を探し、アオイは何度も盾を受け止めた。
フィリアの精霊は消えかけ、ルシェリアは魔力を削り、セラフィナは遠隔光剣を維持し続け、ミルカは構造を支え、ライカは見えない道を読み続けた。
それを、チュートリアル完了と呼ぶのか。
澪は、胸元の調律核を掴んだ。
「私は、そんな言葉で終わらせない」
灯台の外で、港中の人々がアビス・リヴァイアを見上げていた。
漁業国家の兵士も。
工業都市の兵士も。
避難民も。
技術者も。
漁師も。
誰かが叫んだ。
「怪物だ!」
別の誰かが叫ぶ。
「討伐しろ!」
「殺せ!」
「海を取り戻せ!」
「全部あいつのせいだ!」
その声に、黒霧が反応する。
アビス・リヴァイアの体表の結晶が、赤黒く光った。
フィリアが青ざめる。
「違う……」
彼女は震えながら言った。
「あの子は、悪いものじゃない」
澪は、フィリアを見る。
「聞こえるの?」
フィリアは涙を浮かべて頷いた。
「あの子は、息ができないだけです。苦しくて、苦しくて、暴れているだけです」
港長が目を閉じた。
「やはり、海そのものが怒っているのか」
「怒っているだけじゃありません」
ルシェリアが静かに言う。
「理解されなかった痛みが、形を持ったのです」
アオイが盾を握り直した。
「でも、このままでは人が死にます」
その通りだった。
アビス・リヴァイアが暴れれば、港は壊れる。
人々は死ぬ。
戦わなければならない。
けれど、倒すだけでは終わらない。
澪は窓の外の巨大な影を見つめた。
ゲームなら、ここからボス戦へ移行する。
まず外殻を削る。
一定ダメージでブレイク。
部位破壊。
範囲攻撃を避ける。
必殺技を合わせる。
討伐ルートなら虚無核を砕く。
調律ルートなら深海循環装置を起動し、虚無核を鎮める。
知っている。
全部、知っている。
でも、目の前の海は、澪の仕様書よりずっと重い。
「次は……」
澪は低く言った。
「討伐か、調律かを選ぶことになる」
港の人々の叫びは、討伐を求めていた。
怪物を殺せ。
災厄を消せ。
そうすれば海は戻る。
それが、もっともわかりやすい答えだった。
澪の胸元に、冷たい表示が浮かぶ。
《緊急選択肢を確認》
《推奨ルート:討伐》
《理由:港湾被害の即時抑制》
《警告:調律ルートは高難度》
《警告:失敗時、エターナル警戒値上昇》
澪はその文字を見つめた。
推奨ルート、討伐。
ゲームシステムでさえ、この状況では討伐を勧めている。
だが。
フィリアは、泣いている。
アオイは、戦う覚悟をしている。
ルシェリアは、澪の判断を待っている。
そして沖合では、海そのものの苦しみが巨体となって吠えている。
第5話の戦闘チュートリアルは終わった。
ここから先は、練習ではない。
澪は静かに息を吸った。
「……次の選択を間違えたら、本当に世界が詰む」
その時、アビス・リヴァイアが初めて咆哮した。
海が震えた。
空が曇った。
港中の人々が耳を塞ぐ。
そして澪の調律核に、最後の文字が浮かんだ。
《第六フェーズ:討伐ルート、開始可能》
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第5話では、中央桟橋と灯台を舞台に、澪が「戦闘チュートリアル」という言葉の重さに気づく回になりました。
ゲームであれば、序盤の戦闘は操作を覚えるためのチュートリアルです。
基本攻撃。
スキル。
必殺技。
支援。
連携。
敵の出現。
勝利条件。
しかし、この世界では、それらはすべて誰かの命や痛みと結びついています。
アオイが盾で受け止める痛みも、フィリアの精霊が消耗することも、ルシェリアが魔力を削ることも、セラフィナが遠隔で光剣を維持することも、ミルカが構造を支え続けることも、ライカが危険を読み続けることも、すべて現実です。
澪はゲーム開発者として世界の仕組みを知っています。
けれど、知っていることと、目の前で誰かが傷つくことは違います。
そしてついに、深海虚獣アビス・リヴァイアが姿を現し始めました。
港の人々は討伐を求めています。
システムもまた、即時被害を抑えるためには討伐ルートを推奨しています。
けれど、フィリアには聞こえています。
アビス・リヴァイアは、ただの悪ではない。
息ができない海の苦しみが、形を持った存在です。
次回は、いよいよ「討伐ルート」に踏み込んでいきます。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




